第三話
翌朝。礼文は身支度を整え、手術室の見回りに行く。すると、また犬田の環境が変化していた。
檻の外側には、便器のあるあたりを隠すようにスダレが付けてあるる。
内側には小型の机が勝手に設置されていた、その上にある描画装置を備えた特殊な顕微鏡を操作しつつ、犬田は観察した姿を紙に写し取っているようだ。そして素裸だった彼の腰には敷布を切ったとおぼしき布が巻かれている。
「なんだ、これは!」
「見ればわかるだろう。神代細胞の姿を記録している。
もちろん、まだ通常の細胞と染め分けはできない。
だが犬田の目から単体で分泌されたから、
少しずつ加熱していって結晶化の進行を調べるんだ。
対象を顕微鏡観察し、
その正確な姿を絵に写し取るのは研究の基礎だからな」
1931年〔光文6年〕。この時代の日本には銀塩フィルムを使う解像度の低い白黒写真しかなかった。カラー写真の技術自体は発明されていたが、手軽に撮影できる[コダカラー]フィルムはまだ販売されていない。
「プレパラートは俺が作り、
絵にするのは犬田にやってもらう。
分業して作業を効率化するんだ」
「それは認める。
だが、スダレと腰布はなんだ。
そんなもの、不必要ではないか」
せめてもの言いがかりをつけてみたが、効果はなかった。
「富鳥氏はこうもおっしゃられた。
『せっかく神代細胞が無害化されたのに、刺激を与えちゃダメ』と。
落ち着いて排泄できないというのは結構なストレスだから、
人目を避けられるようにした。
そもそも緊張状態にあることで便秘になられたら、
検体を採取できない。
犬田には最低でも一日一度、大便を出してもらう。
これは感染力を調べるために必要な検査だ。
そして腰布をつけさせたのは見苦しいからだ。
俺には男の局部を見て喜ぶ趣味がない。
礼文さんはどうか知らないが」
「私にだってない!」
「だから隠す。問題はないな。
ああ、すまないが、
出かけたら薬剤と一緒に犬田の分の服も買ってきてくれ。
昨日まとめて頼めばよかったのだが、
研究に集中していてうっかり忘れてしまった。
しかし裸では汗や垢がそこら中に撒き散らされて不衛生だ。
人は見栄えだけではなく、
実用的な意味でも服を着なければならないんだよ」
「……ああ」
権威を盾にした屁理屈に口答えもできず、礼文は引き下がるしかなかった。
◆◆◆◆◆◆
買い物を終えた礼文は、千川に車の中の木箱と風呂敷包みを手術室に運ぶよう命じた。義光が電話で進捗を尋ねてくるかもしれないので、気は進まないが自分も詳しい状況を見定めに行く。
「おお、ありがとう。瓶はその棚に置いてくれ」
塚元はビーカーや試験管などを机の上に並べていく。
「検体の処理も終わったし、染色法の実験にかかるか。
犬田、そっちはどうだ?」
「あと少しで終わります」
「仕事が早いな。そうすると、ちょいと時間があく。
こっちが試行錯誤をしている間にやってもらいたいことは……」
しばし考えてから、塚元はポンと手を叩いた。
「そうだ、散髪しろ。
そのボサボサ頭はうっとうしいし、コンタミの原因にもなる」
「なんですか、それは」
「店員が不潔で髪の毛やフケが料理に入るみたいなものだな。
それを防ぐために髪を短く切って、
このように帽子でおさえるわけだ」
塚元は自分の頭を指さした。
「礼文さん、いいだろう?」
「……ああ。千川、刈ってやれ」
「了解」
疎外感に意識を向けないようにして、礼文は所長室に向かった。机に向かい、[真世界への道]幹部について考える。鹿島殺害の件で三人はそうとう動揺していた。とりあえずの対策として彼らにはきつい労働をさせて疲れさせ、考える余力を奪っておいた。しかし若い肉体はいずれ回復するだろう。思考力を取り戻した彼らをどのように導くべきか考え、実行する。これも礼文の仕事だ。
(忙しくてかなわん。しかし、私は耐え抜いてみせる。
そして、いつの日かきっと、世界をすべて均分化するのだ)
◆◆◆◆◆◆
幹部たちに与える指示書の下書きを作成し終わったころ、彼の耳に大爆笑する声が届いた。それは明らかに成人男性のものだった。
「何事だ!」
礼文は壁に作りつけられた本棚を操作した。それは義光が指示して作らせた、隠し通路への入り口だ。本来ならどんでん返しのようにクルリと回転するはずだったが、唐突に改装されたので不具合があり、45°ほどの隙間しかできない。
そこをすり抜けて、礼文は通路に入った。暗い通路に並んだ細い隙間から光と音が漏れている。厚い絨毯が敷かれているので足音は立たない。床が軋むこともない。しかし、やはり微妙に雑な作りなので歩くたびに床は撓んでわずかに沈む。
手術室の檻のところに開いている隙間に目を当てて、礼文は室内を見た。
机と顕微鏡が片付けられた檻の中には千川と犬田がいる。
「似ているが、どこかが……そうだ。眉毛だな」
塚元は腕組みをして犬田を外から見ていた。
「剃っちまいましょうか?」
千川は床に落ちた髪の毛をホウキとチリトリで集めている。
「やめてくださいよう」
敷布を首に巻いた犬田は顔を押さえているようだが、礼文には刈りあげられた後頭部しか見えない。
結局、何が起きているかはわからなかった。礼文は所長室に戻り、あらためて廊下を歩いて確認に行く。
「あ、礼文さま! 見てくだせえ」
ドアを開けるなり、千川が話しかけてきた。
「どうです、似てるでしょう」
その手には、皺がよった古新聞がある。瓶を保護するために巻かれていたものの一部らしい。それに印刷された写真を千川は指さした。
「ヒトラーか」
彼がドイツの政治家であることは、礼文も知っている。
「それがどうし……!?」
言葉の途中で礼文は絶句する。散髪を終えた犬田を目にしたからだ。
七三に分けた黒髪だけならまだしも、切った髪の毛をまとめて形を整え、糊で鼻の下に張り付けたその顔は、たしかにナチス党首とほぼ同じように見えた。
犬田はもともとの風貌が平凡なので、髪型を合わせチョビ髭という記号を付けるとそのまま元ネタの人物と同化してしまうようだ。千川のように個性的な顔だと、こうはいかないだろう。
「でも、眉毛が余分なんだ」
笑いながら、塚元が補足する。
確かにヒトラーの眉は、その秀でた眼窩上縁のために目立たない。しかし、犬田の真っ直ぐな眉毛は両方とも濃くて人目につく。これは平凡な風貌である彼の唯一の特徴だ。
「だからって、面白半分で剃らないでくださいよお」
「いいじゃねえか。どうせ、すぐ生えてくるんだから」
「そうだそうだ」
いやがってみせる犬田もそれほど深刻な表情ではないし、圧をかける二人も本気の悪意を現してはいない。単なるふざけあいの段階にとどまっている。
(現時点ではな)
礼文は希望を見出した。
(からかいは集団における順位の確認であり、
それをエスカレートさせていけばイジメとなる)
(今はバカ親父をはばかって犬田を庇護するような言動があるが、
うまく誘導すれば塚元も千川も私と同調するようになるだろう)
そのために、礼文は助言をした。
「ヒトラーに無理やり似せることはないだろう。
別のそっくりさんがいるのだから」
「誰だ?」
「チャップリンだよ」
礼文は映画俳優の名をあげた。
「ああ! 言われてみればそうだな」
「あの人もチョビ髭ですからねえ」
「では、こんな感じで」
犬田は爪先を外に向けてガニ股になり、[喜劇王]の仕草をまねて見せる。
「わははは」
「うははは」
塚元と千川は腹をかかえて笑った。
「けんっ、けふけふ」
犬田も笑うが、それは喉にひっかかったような奇妙な声だった。戸惑いの表情を浮かべて、彼は口元を押さえる。
「せっかくだから、
これからヒゲを生やして整えて本物のチョビ髭にしてみろ。
きっと似合うぞ」
「は、はい」
オドオドと犬田は頭を下げた。
コンコン
ちょうどその時、ドアがノックされる。
「あの、電話が鳴っています」
報告にきたのは根府川だ。
「よし、今行く」
できるだけ速足で歩きながら、礼文は考えた。
(肉体的な苦痛は諸事情で与えられなくなったが、
そのかわり笑いものにすることで
犬田の自尊心を踏みにじってやる)
さらに、彼の心にはもう一つの希望が生まれた。
(道化役を演じるあの男の本性が露になったとき、
塚元と千川はどれだけ驚くだろうか)
それを想像するだけで、礼文は楽しくなった。
◆◆◆◆◆◆
不快な音をたてないよう、それでいて確実に回線を切断できるよう、礼文はそっと受話器を下ろした。先にガチャリと大きな音が耳元で響いてはいたが、念のためだ。もし、交換手の手違いかなにかでまだ回線がつながっていたらと、彼は不安を覚えていた。
「ふううううう……」
このような溜息を義光に聞かれたら『ワシと話すのがそんなに嫌か!』と、また難癖をつけられるだろう。だから礼文は細心の注意をはらった。
腕時計を見る。時刻は午後1時。ざっと一時間半の説教と愚痴だった。
(意外と手短だったな。
きっとバカ親父は空腹になって話を切り上げたのだろう)
こわばっていた体を伸ばし、肩も回してほぐす。
(さて、栄養と水分を補給するか)
ここで食べられるのは、その程度のものだった。
13人の少年たちと、大人が3人。さらに塚元と犬田が加わって合計18人。研究所はもともと染め物工場と工員の宿舎だったので大量調理ができる厨房はあるが、礼文も津先も千川もそれを使いこなす技術を持っていなかった。だから、必然的に調理が必要ないものを購入することになる。
津先と少年たちは炭水化物としてカンパン、タンパク質とミネラルを取るために煮干しや煎り豆、あとはキャベツやトマトなどの生野菜を食べて暮らしていた。
千川は母子家庭育ちなので調理経験はある。しかし一度に18人分の炊飯とオカズ作りなど彼の手には余る。せいぜい、庭で採れたカボチャや枝豆を塩茹でにするぐらいしかできない。
(時間が空いたら、またヴァレニエを買いに行くか)
銀座の[真世界への道]事務所近くには小さな画廊がある。そこの主人はリューシャからの留学生から教わった果実のシロップ煮をときどき自分の趣味で作り、店でも売る。それが礼文の好物だったが、蓄えていたものは火事で燃え尽きてしまった。
(うまい紅茶も飲めなく……)
ドアを開けた礼文は、一瞬ドキリとした。
「なんの用だ」
そこにはまるで生気を感じられない、虚ろな目をした人間がいたからだ。
彼は6番目に連れてこられた少年で、与えられた名は平塚。
わずかな差で鉢巻組にも入ることができず、もともと要領も悪いので後から来た大磯や二宮に対して優位に立つこともできず、ただ迫害され続ける現実に絶望し、平塚の精神活動は鈍ってしまった。
「しゅじゅつしつでせんせいがおまちです」
「よし、お前は便所に行って用を足し、次に掃除をしろ」
「はい」
のろのろとした動作で回れ右をし、平塚は命じられた場所に向かった。放置しておくと彼はときどき排泄に失敗するので、上に立つものがこまめに声をかけてやる必要がある。
(なにか研究に進展があったのか?
いや、たったの一時間半でそれはないだろう)
礼文の疑問に、かきかけの絵をもって塚元は答えた。
「見てくれ、これを」
しかし、礼文には他の絵との違いがわからなかった。そのことを伝えると、
「やっぱりですか、すごいなあ!」
犬田が驚いた。
礼文にはさっぱり意味がわからない。
次回に続く