第四話
バタン
とりあえず、外からドアを閉めた。これで声は漏れない。
「ふう」
一段落して、俊樹は息を漏らした。隣に立っている香に、彼は話しかける。
「オレは
通学用の地味なシャツに着替え
鹿島の帽子と背広を身に着け
近所の人たちに目撃させておいて公園に行く。
人の気配が無いところで変装を解いて戻ってくるから、
そのあいだ、鹿島を逃がさないようにしていてくれ」
「なん……」
香は疑問を口にしかけて、やめた。その様子を見て取った俊樹は自分から説明してやる。
「あいつは、『ワシは帰る』と大声で叫んだ。
これはご近所さんも聞いてくれている。
そうしてカンカン帽と夏背広を着た男が夕暮れの街を去っていったとの
目撃証言があれば、
鹿島はここから出て行ったことになる。
だから、あいつが後に行方不明となったとしても、
それはオレたちとは無関係だと証言できる」
「ゆ、行方不明って」
「背教者には死を」
俊樹はジャックナイフを明りにかざす。その光を見て、香は口を閉じた。
「なに、それは最悪の場合だよ。
香さんと健二さんが鹿島を説得して
正しい道に引き戻すことができれば問題ない。
帽子と背広は捨てたりしないから、
正気になった鹿島が防音室を出てきたらちゃんと返却するさ。
ひゃ……ごほごほ」
笑って自分を鼓舞しようとしたが、緊張のせいか喉がつまって咳が出た。
「……そうよね。鹿島さんだって、きちんと話せばわかってくれるわ。
ええ、わからせてみせる。だから、くれぐれも早まらないで」
「もちろんさ。
オレだって積極的に殺人犯になりたいわけじゃない。
香さんと健二さんの手並みに期待してるぜ」
俊樹は嘘をついた。
むしろ尊敬するジャック・ザ・リッパーに近づきたいがため、彼は同じ凶器を購入し、日々その使い方を研究し、これまで鍛錬を重ねてきたのだ。
そして、本音をうちあけられるほどに俊樹は香を信用していなかった。
彼は彼女のヒステリックな言動を恒星学園初等部五年時の担任教師に重ね、軽蔑していた。そのうえで香の存在を己に課された試練だと受けとめ、試行錯誤を繰り返して対処法を開発するにいたったのだ。
◆◆◆◆◆◆
倉庫脇で[真世界への道]幹部としての服装に戻り、再び髪を紐で上げる。耳の青い飾り石を触って怖気づきそうな自分を励ます。
変装を解いてすぐに倉庫脇から出てくると入れ替わりに気づかれると危惧した彼は、少し時間をおいてから松木家に帰る。
風呂敷包みをほどいて帽子と上着を応接間のポールハンガーにかけてから、俊樹は時計を見る。午後5時半をやや過ぎていた。
俊樹が防音室のドアを開けると、そこにこもった熱気と湿気が噴き出してくる。
新田音矢がこの部屋で健二の従妹である呉羽を始末した日にグランドピアノは壊れた。箪笥やイスなども血しぶきを浴びていたので健二の父によって処分された。だから防音室に家具はもう無い。がらんとした部屋の中央に鹿島が倒れている。その左頬は腫れあがっていた。
「ただいま。どんな具合だい?」
「……御覧の通りだ」
「いや、もう少し詳しく聞かせてくれ。
鹿島を殴ったことしかオレにはわからないよ」
「香さん、頼む。俺は頭を冷やしてくる」
「え、私だってきつい……一休みしたい……」
汗まみれになった二人はよろよろと部屋から出ていく。
「まあ、当然か。確かに、この部屋は暑いや」
俊樹はしゃがんで鹿島の様子を見る。といっても彼には医学の心得はない。倒れている男の白髪を数本、引き抜いてみた。マブタがピクピクと動く。鼻先に毛を近づけると、息でそよいだ。
「とりあえず、気絶しているだけみたいだな。
だったら放置しておいても構わないだろう。
むしろ静かでいい。
逃げる心配もないから、ドアを開けて換気しよう。
さて、オレも下に降りるか」
気分が高揚しているので、思考がすべて口から出てしまった。
膝も細かく震えて頼りないので、壁にすがりながら俊樹は急な階段を下りる。応接室には香しかいなかった。
「健二さんは?」
「公衆電話ボックスに行ったわ。礼文さまに指示を仰ぐために」
香も緊張しているのか、スカートの上に置いた両拳は強く握りしめられている。
「そうか。じゃあ、しばらく……ん?」
涼しい風を感じた俊樹は、その発生源を見つける。
「扇風機、持っていかなかったのか?」
「あら、そういえば忘れていたわ。だからあんなに暑かったのね」
「それなら、二人とも汗をかいただろう。
水分を補給したほうがいい。
オレも喉が渇いたから、お茶を入れてくるよ」
立ち去る俊樹を見送って、香はホッと息を吐く。彼がジャックナイフを所持しており、それを人に向けることをためらわないでいるという事実は、お嬢様育ちの彼女にとって衝撃的だった。
魔法瓶と茶器セットを手にして俊樹が台所から出た時、ちょうど健二が戻ってきた。
顔をこわばらせた健二は、お茶で喉を潤してから口を開く。
「……礼文さまとは連絡が取れない。
銀座の事務所にも研究所にも電話したんだが、どちらも不在らしい。
だれも受話器を取ってくれないんだ」
「どうしよう……どうすれば……礼文さま……なん、ゴホン」
浮かびかけた疑問を咳払いで香はごまかした。
「つまり、
これはオレたちが上から指図されず己の力だけで
御心にかなった行動がとれるかどうか、
[秘密の首領]さまがお試しになっているということだな」
俊樹は立ち上がる。
「ならば積極的に動いていこう。
礼文さまを通じて
[秘密の首領]さまから得た知識と経験を生かして対処するなら、
きっとうまくいくさ」
その右手は刃をたたんだジャックナイフを持っていた。
「あ、ああ。そうだな。だが殺しは……」
「ええ、そうしましょう。でも、説得が先よ」
健二と香も慌てた様子で同時に腰を浮かす。
「もちろんだとも。[死人に口なし]って言うし。
だったら、聞く耳も持たないということになるからな。
生きていてこそ説得の余地があるってもんだ。ひゃはは」
こんどはうまく笑えた。俊樹は自分が平常心を取り戻せたことを、心のなかで[秘密の首領]さまに感謝する。
しかし、この場に及んで笑みを浮かべる不謹慎な彼に、健二と香は恐れを抱いてしまった。
「さあ、行きましょう説得に」
「ああ、熱意をもって語れば、どんな頑固者でも理解してくれるさ」
まなじりを決して二人は階段を上がった。俊樹は両肩を上下に動かしてから扇風機のスイッチを切り、プラグを抜く。自分の準備を整えてから、彼も二階に向かう。
◆◆◆◆◆◆
俊樹が偽装工作に出かけたおり、香は健二を防音室からいったん呼び出して
『背教者に死を』という発言を伝えていた。そこまでの覚悟ができていなかった二人は、俊樹の凶行を防ぐため熱心に鹿島を説得しようとした。
しかしヒステリックに相手を否定してかかる香と、教わった知識を切れ切れに語る健二では、老獪な鹿島に太刀打ちできなかった。命を助けようとしている相手に反論されて苛立った健二は、感情に任せて鉄拳制裁を食らわせ、鹿島は気絶した。軍隊式の暴力をふるってしまった健二は自己嫌悪に陥る。俊樹が戻ってきたのはちょうどその時だ。
そしてまた、彼らは愚行を繰り返す。
鹿島は横たわったままだったが、目は開いていた。健二は彼を抱えて起こした。体育座りした鹿島に向かい、香と健二は説得を試みる。
部屋の隅に腰を下ろした俊樹の存在を背中に感じながら、香と健二は声を張り上げた。しかし鹿島は腫れた頬を押えたまま呻くだけでまともに答えず、ときおり手で床をなでるような動作をするだけだ。無視されていると感じた二人は、怒りをつのらせていく。
扇風機の風は室内の空気をかきまわしてはいる。だが四人の体、そして電球とモーターから発生する熱は気温を上げていく。部屋にこもった湿気のせいで発汗による冷却もうまくいかず、適正な体温が保てなくなった脳は正常な判断力を失っていく。
「……[訂正]……そう、[訂正]よ!」
香が思い出したのは、以前の会合で俊樹が礼文に紹介した、
【我が国の均分主義者たち】という本から得た知識だ。
自分たちと意見が異なる者を捕えて集団で暴力をふるい、苦痛と恐怖を与えて間違った精神を叩き潰し、思想を正しく整えることを均分主義者は[訂正]と呼んでいる
「それは…………」
ためらう健二に香は反論した。
「あれに効果があるのは、均分主義者たちによって立証ずみでしょう!
役に立つ技術は積極的に取りこんでいきましょう。
なによりこれは、人助けなんだから!」
「……だが……」
「このまま放置したら、
鹿島さんは妄言を吐き散らかして、己の罪を重ねていくのよ!
だから今、ここで性根を叩き直してあげるの。
踏切で、降りた遮断器をくぐろうとする幼児をひっぱたくのは
憎しみからではないわ。
我が子を愛しているからこそ、
列車に轢かれないように教育するためでしょう。
それと同じよ!」
パシッ
とうとう香は平手打ちをした。といっても、格闘技経験のない彼女では、かつて音矢が瀬野から受けたほどの強烈なビンタをふるうことはできない。しかし鹿島は痛みに顔をゆがめ、苦鳴をもらした。
「健二さんも、この人を救うため頑張って!」
「……御免!」
ボカ
あれだけ嫌っていた暴力に頼らざるを得ない状況。それが健二を苛立たせ、拳にはつい力が入ってしまった。
「さあ、自らの過ちを認め、
礼文さまに謝り、
[秘密の首領]さまの権威を認めなさい!」
二人は応答を待つ。だが、いつまでたっても鹿島は言葉を発しなかった。ただ呻き、右手を動かしただけだ。
「貴様、まだわからんのか!」
「なんて強情なの!」
二人の暴行はエスカレートしていき、手だけではなく蹴りまで使うようになっていった。足元が安定しないので彼と彼女はスリッパを脱ぐ。
香は倒れた鹿島の肩口を後ろから蹴るつもりだったが、健二の攻撃で体が裏返り、狙ったところとは違う位置に勢いよくツマ先が当たった。
鹿島の鼻は潰れ、血が流れる。呼吸困難になったのか、咳きこむ鹿島は身をくねらせてもがく。その姿を見て健二と香はいったん動きを止めた。しかし、どうすればいいかわからない。二人は苦しむ老人を前にして棒立ちになってしまった。
やがて、いたたまれなくなった健二は軍で教育された応急処置をしようと歩み寄る。その様子を見て、香は彼がさらなる[訂正]を行おうとしているのだと勘違いしてしまった。
功績を独り占めされまいと、彼女は再び鹿島を蹴りはじめる。その行為を健二は、彼女が[訂正]をあきらめていないのだと解釈し、無駄な同情心で意思がくじけそうになった自分を恥じた。そして香に協力しようとして、また暴行を加えた。
部屋の隅に腰を下ろした俊樹は、手ぬぐいで包んだ氷の塊を脇にはさんでいる。それは冷蔵庫から取り出したものだ。
時は1931年〔光文6年〕。この時代の家庭用冷蔵庫は電気式ではなく、氷屋から届けられたブロック状の氷を入れて食材を冷やしている。
氷入りの手ぬぐい包みは扇風機と一緒に持ちこんだのだが、鹿島に集中していた健二と香はそれに気づかなかった。おかげで俊樹は一人だけ体温の上昇を防いでいる。
(だって、
三人で分けるほど大きな塊は残っていなかったんだから、
仕方ないよな。
これだって、ほとんど溶けてしまったし)
(もしもそれが良くないことなら、
[秘密の首領]さまから警告が来るだろうけれども、
何も起きなかったし)
得意の言い訳を彼は脳内で展開していた。
(全員が興奮していたら収拾がつかなくなる。
だから誰かが冷静でいなければならない。
たまたまその役がオレに振り当てられた。
ただそれだけのことさ)
(しかし)
(鹿島も頑張るなあ。
これだけ痛めつけられても黙秘を貫くなんて)
(正直にいうと、
二人掛りで口撃されたらすぐに降参して
[秘密の首領]さまにひれ伏してしまうかと心配していたのに)
(そうしたらオレが鹿島を殺す理由がなくなってしまう)
(この現場と、あのセリフ、そして変装にもってこいの服装)
(まさに、
オレがナイフを振るうための条件が整った好機だと期待したんだけど)
(ああ、早く殺りたいなあ。
でも、健二さんも香さんも[訂正]したがっている。
それを邪魔したら仲間との関係が悪くなりそうだし
……二人があきらめるまで待つしかないのかなあ……
あれ?)
鹿島の様子がおかしいことに、俊樹は気づいた。
殴られはじめのころは防御しようと手で頭をかばったり体を丸めたりしていたのに、今の鹿島はされるがままだ。確かに手足は動いているが、それは蹴られた反動で揺れているだけのように見える。俊樹は手ぬぐいを床に置いてから、声をかけた。
「おい! ちょっと止めてくれ。
そいつ、死んでいるんじゃないのか?」
「え」「え」
息を荒げながら立ちすくむ二人の間に入り、俊樹はまた白髪を抜く。こんどはマブタも動かないし、鼻先にかざした毛はそよぎもしない。
「!」
俊樹は鹿島の首筋に手を当てる。脈を感じられない。乱暴にシャツを引き上げ、胸も調べた。しかし同じことだった。
次回に続く




