第二話
1931年〔光文6年〕 7月17日12時30分。
恒星学園大学 英文科の教室で2時限目の講義が終わる。この後にも授業はあるが伊吹俊樹は自主的に休講とした。大神公園付属集会所で行われる会合の準備をするためだ。
今の彼の姿は[真世界への道]幹部として活動するときのものではない。キノコの笠に似た髪型をした地味な様子をしている。そんな俊樹が教室の外に出ようとしているとき、丸めた紙が飛んできて肩に当たった。
彼は放物線の起点に目を向ける。そこには色白の青年が頬を真っ赤にして突っ立っていた。
青年の背後に座っているのは永井貞夫。
彼はこの学園の小等部時代から俊樹をいじめ、金品も奪い取っていた。しかし俊樹の父が亡くなり伊吹家は貧乏になったと思いこんだ貞夫は、別の者を餌食とするようになった。それがこの色白の青年、月沢修だ。
「ええと……とんちんかん。すっとこどっこい。べらぼう」
そのしゃべり方はぎこちない。彼は地方出身なので、帝都で使われている言葉に慣れていないのだ。
「ええと、ええと」
故郷にいたころの月沢は標準語を学習するために国語の教科書とNHKラジオ放送を使っていた。だから、帝都の庶民が日常的に使う非公式な罵詈雑言の語彙が少ない。それを使い切ってしまったようだ。まごまごする月沢の後ろで、永井とその仲間は口を押えている。声は漏れていないが、彼らの目は残酷な光をたたえ嗤っていた。
「XXXX。XXXXXX」
とうとう、月沢は普段隠しているお国言葉を使う。だが、俊樹には何と言っているかわからなかった。
「もう、そんなとこでいいよ」
永井から中止命令が出たので、月沢はほっとした様子を見せる。
「つっちゃん、次は?」
横柄な口調で催促され、奴隷は動いた。右拳を顔の前にあげ、中指だけを立てる。これは欧米で使われている、相手を侮辱するときの仕草だ。1931年〔光文6年〕の日本では一般的ではないが、英文学部である永井や月沢、もちろん俊樹もその意味を知っている。
「……やめてくれよ……」
だから俊樹はわざと悔しそうな表情を浮かべ、目を伏せながら陰気な声で抗議した。受けた侮辱に正しい反応を示さないと、永井はさらにイタズラをエスカレートさせるからだ。
「なに? なんて言ったの? 今」
「聞こえねえなああ」
永井と仲間が面白がってはやし立てる。俊樹は彼らに背を向け、足早に立ち去った。
◆◆◆◆◆◆
大正の次の年号が光文となった世界では、関東大震災を教訓として[災害対策法]を制定、1927年〔光文2年〕から施行されていた。その内容には、災害時の避難所となる大型公園の敷設も含まれる。帝都各地に作られた公園にはどれも、四つの施設が備えられていた。
平時には市民の憩いの場となり、災害時には避難民が寝泊まりする天幕の設営所となる広い芝生。
平時でも災害時でも、どちらにしろ役に立つ公衆便所や水飲み場。
救護所としても使えるように設計された集会所。これは普段、市民の文化活動の拠点として使われる。
そして食料や医薬品を保管する備蓄倉庫だ。
公園の遊歩道脇に生えている柘榴の木を、俊樹は隠れ家に向かうための目印としている。
雑木林の中にある倉庫の脇で彼は腰を降ろす。
持参したトートバッグを開け、まず新聞紙を取った。それを地面に敷いてバッグの中身を全部出す。トートバッグの持ち手に巻いていた布をほどき、本体も裏返した。明るい青色となったバッグを置いて、派手なシャツに着替える。次にキノコの笠のような髪を紐で上げて額を出し、後頭部で結ぶ。そうすると隠れていた耳が現れた。手鏡で顔を映し、耳に付けた青い飾り石をじっと見つめていた俊樹は、やがて笑った。
「ひゃはは」
その声は大学内で発したものとは違い、挑発的な響きを帯びていた。
◆◆◆◆◆◆
集会所の事務室にある小窓を俊樹は開け、中に声をかけた。
「すみません、予約を入れている[真世界への道]です。
部屋の鍵を貸してください」
「はいはい」
管理人が鍵を取りに行っている間に、柳行李を抱えた松木健二と、菓子箱を両手に下げた由井香が現れた。
「おお、早いな」
「幹部の集合時間は2時なのにね」
「ひゃはは。それはお二人さんも同じだろう。まだ1時半だぜ」
笑いながら、俊樹は香の持っている菓子箱に手を伸ばした。
「オレが持つよ」
「女は力が弱いから、荷物は持てないと言いたいのですか」
親切心をはねつけられた俊樹は一瞬絶句したが、すぐに言いつくろう。
「その逆だよ。
女は霊的エネルギーが高いから、
この集会を成功させるためのゲン担ぎで、
解錠の儀式を行ってほしいんだ。
なにしろ、
今日はオレたちだけで、これまでの倍以上の人数を相手にするわけだろう?
だから、由井さんのパワーが頼りなんだよ」
「あら」
[真世界への道]はもともとオカルト知識を楽しむサークルだった。その名残が今でも残っているので、会員たちは神智学系の知識に詳しい。さっさと俊樹に菓子箱を渡すと、
「では、僭越ながら私が務めさせてもらいます」
管理人から鍵を受け取るために小窓の前に陣取る。行李を手にした健二は、目を丸くして俊樹と香のやり取りを見ていた。
◆◆◆◆◆◆
始めて[真世界への道]がこの集会場を利用したときの参加人数は20人ほどだった。だが、今回あつまった申込書は55通。その会員たちはそれぞれが知人を当日参加者として同伴するよう求められている。だから部屋と部屋を仕切る可動式の壁を開いて倍の面積を使うことにしたのだ。救護所として使う場合を想定して、集会所はこのように設計されていた。
香は『会員たちが飲むお茶にも祝福を与えてほしい』と俊樹が頼んだので給湯室で湯を沸かしにいった。
「さて、机を並べるか」
二人が作業に取り掛かろうとしたとき、
「あ。もう始めていたんですか?」
戸口から三人の会員が入ってきた。
「こんにちわー」
明るく挨拶したのは根小田早苗。
香と同じく菫青女子大学の学生だ。後頭部で三つ編みにまとめた髪を背中に流し、赤いセルフレームの眼鏡をかけている。小花模様を散らしたワンピースを着た姿は本来の年齢より幼く見えた。
「香さんは?」
「給湯室で魔法瓶に湯を詰めてるよ」
「じゃ、私も手伝ってきます」
彼女は三つ編みをネコのシッポのように揺らし、しなやかな身ごなしで退出する。
「……」
長机が積んである壁際に無言で向かったのは、髪を短く刈りこんだ男だ。その耳は大きく、上がやや尖っていてロバを思わせる形をしていた。
「おいおい、まず紹介させろよ」
彼に声をかけたもう一人の男の名は丹羽武明だ。こちらも短髪だが、くせ毛なので頭の天辺の髪がやや盛り上がっている。
彼は机を降ろそうとする男の肩を押して、健二や俊樹の方を向かせた。
「こいつは路場重雄といいます。
おれと同じ恒星学園大学 国文科で
栂尾教授の講義を受けているんですよ」
次に彼は掌で幹部たちを指し示す。
「こちらが健二さん。そして俊樹さん。
幹部は家制度から解放されている証として、
苗字を使わないことになっているんだよ」
「……ほう……」
それを聞いた路場の目は、期待に満ちたものとなった。
「今日が初参加です。これからよろしくお願いします」
一礼して彼は挨拶する。その言葉には北関東風のアクセントがあった。
「こちらこそよろしく」
「ようこそ[真世界への道]へ!」
健二と俊樹も挨拶を返し、四人は会場設営の作業に取り掛かった。
◆◆◆◆◆◆
設営が終わったので、丹羽は根小田が待つ受付に回り、路場を初参加者として登録した。それ以外の一般会員たちも集まりだしたので、三人の幹部は給湯室に入って講演原稿の最終確認などを行う。
しばらくして
「すみません!」
根小田が戸口を乱暴に開けた。
「変な人が来て、
『ワシを知らんのか!』とか、ええと……
一般会員…………なんとかかんとかスウミツ?
顧問とかいって騒いでいるの! 助けて!」
その肩書を、三人の幹部は覚えていた。
「わかった、すぐいく!」
廊下を走り、彼らは現場に到着した。
「やっぱり、鹿島さんか」
不穏な来訪者の名は鹿島吉次郎。
昨年、健二は[真世界への道]の講演会後に茶話会を行って会員同士の親睦を図りたいと考え、彼に同意した者たちと準備のための会合を開いた。
しかし、その場にいた者のうち健二と俊樹と香以外の二人は退会し、もう一人もずっと不参加が続いていた。それが鹿島吉次郎だ。
受付前に立った彼はこの季節の正装として麦ワラ製のカンカン帽と夏用背広を着用しているが、それらは手入れが悪く型崩れが目立つ。体は去年より痩せ、首も細くなっていた。
「お久しぶりです」
健二が声をかけると、鹿島は振り返った。
「おお、厚木くん、渋木くん、新入りの教育がなっとらんぞ!」
姓を間違えられたが、訂正する間もなくまくしたてられた。
「ワシはこの間配布された小冊子の内容について抗議しに来たんだ!
いくらなんでも方針が替わりすぎだ!
なんじゃ、この規則は。
あれはダメだ、これをしろ、
規律正しい生活と食事療法で体調を整えろだと!
個人の行動や嗜好に口を出すなど、おせっかいにもほどがあるわい!
今の[真世界への道]はおかしい!
もともとここは魔術や歴史の薀蓄を語り合う楽しい趣味の会だろうが!」
その演説は、鹿島が不在の間に参入した会員たちに遮られた。
「そもそも、あんたは誰だよ」
「いきなりやってきて難癖をつけるなんて失礼だろう」
「なんだと?
ワシは親睦会を創立するときからの幹部だぞ。
そう、
[一般会員親睦会準備運営委員枢密院最高顧問]だ!」
一息でその肩書を名乗ると、鹿島は胸を張った。しかし、周囲の反応は彼の期待を裏切る。
「はあ?」
「なに、それ」
「ぷふっ……長すぎ……ぷぷっ……」
根小田が笑うと、それは他の者にも伝染した。
「確かにそうだ……ふふふ……」
「クスクス」
「ははっ」
それを見た鹿島は顔を真っ赤にしてわめいた。
「なにがおかしい! 無礼者!」
怒鳴りながらも、自分の味方がいないかと彼は会場を見まわす。
「おっ、あんたは!」
隅の席にいた古参の会員を発見した鹿島はそちらに駆け寄った。だが相手は机に伏せ、狸寝入りを始めた。
「鹿島さん、落ち着いて」
俊樹にたしなめられて、老人は余計に激高した。
「礼文はどこにいる! 直接抗議してやる!」
「え」「それは」「あ」「ちょっと」「まあ!」
絶句したのは三幹部と受付係だけではない。周囲にいた会員たちもどよめいた。
「どうした、お前ら」
不審がる鹿島に指をつきつけ、香は叫んだ。
「礼文さまのことを、呼び捨てにするなんて……
なんという不敬!」
「ワシのほうがあいつより年上なんだ!」
「それがどうしたというんですか!」
さらに激高する香に丹羽も同調する。
「長く生きていれば偉いなんて、
既成概念にとらわれすぎだぞ!」
「礼文さまは[秘密の首領さま]から
直接にお言葉を賜ることができる、超人なんですよ!」
援軍を得た香は居丈高に言い放った。
しかし、鹿島は鼻で笑う。
「ふん。
新入りはアレがどのようにして生み出されたものか知らないのだな。
よろしい。[真世界への道]が発足した、
まさにその時からの会員が教えてやろう。
秘密の首領は、
ワシらが魔術師ゴッコで遊ぶために作られた架空の神様だ!
実態などない!」
これは紛れもない事実。だから会場の隅にいた古参の会員はそっとうなずいた。
しかし、今の礼文は開始時の設定を[なかったこと]にし、[秘密の首領]を会員たちの精神的な支柱として祭り上げている。
入信してからずっと信じてきた教義を否定され、若い会員たちはざわめいた。
その中で独りだけ前に進み出て、健二は叫ぶ。
「貴様、何を言う!
それ以上戯言を抜かすと、その舌を引き抜くぞ!」
彼の大音声は、その場にいる者たちの鼓膜に衝撃を与える。
健二はこの中では数少ない兵役経験者だ。
新兵はまず、自らの喉を使って大声を出す訓練を受ける。
古代においては敵を威嚇するため。近代では銃声が鳴り響き砲声が轟く戦場にあっても、それに負けずに口頭で情報伝達をするために必要な課題だ。運動生理学的な意味合いもある。
健二自身は兵営で過ごした日々を否定的にとらえ、[真世界への道]の教義を学ぶことで内面の向上を目指している。だが、皮肉なことに場の雰囲気を一変させたのは彼の身に叩きこまれた経験から導かれた行動と、外見だった。
自分より背が高く逞しい体躯を持つ若い戦士を前に、鹿島は怖気づいて一歩下がる。それを見た香は、二歩踏み出して距離を詰めた。
「何という不信仰。
あなたはその傲慢な自我を顧み、反省するべきです!」
「信仰を否定するものは、[自我反省]せよ!」
根小田が香の言葉を受けて、新しいフレーズを生み出した。それは[真世界への道]会員の心をとらえる。
「そうだ、自我反省!」
丹羽が叫ぶと、それは見る間に広がっていく。
「自我反省!自我反省!自我反省!自我反省!」
会場にうずまく熱気をあびて立ちすくむ鹿島の横に俊樹は立ち、笑顔で宣言した。
次回に続く




