第八話
5月15日土曜、正午。
音矢は鳴子神社そばにある隠居所を訪れた。刀自子は外出中だが、それは承知の上だ。
パームルームで待っていた翡翠に挨拶し、二人は奉公人が用意した料理を食べる。
「おや、このポトフの出汁は」
「台所を借りて培養液を煮こんでいたら、
家政婦さんが興味を示したので味見をしてもらったんだ。
美味しいと褒めてくれたので、
ときどき多めに作って料理用に分けてあげている。
今日のもそれだ」
「他の人にも気に入ってもらえるのなら、
缶詰に入れて売り出すと儲かるかもしれませんね」
「いつまでも刀自子さまに養われているのは心苦しいから、
独立した暁に生活資金を稼ぐための方策も考えておかなければならない。
その候補としておくか」
1933年〔光文8年〕。この時代にはまだレトルトパックは発明されていない。
そして高級レストランなどは贈答用に自社のカレー、シチュー、スープを缶詰にして販売していた。
「君の仕事はどうだ?」
「税の申告はなんとか終わらせました。
今やっているのは通常の作業ですが、
それと並行して
領収書などの整理法を所長さんたちに習得していただけるような手順書と
補助用具の作成もしています。
所員さんが自分で経理をできるようになれば、
僕にも外回りの仕事を任せてもらえますからね。
何度か改良して、だいぶいいものに仕上がってきました。
翡翠さんは?」
「相変わらずだ。
ボクは刀自子さまの家で毎日勉強し、
体が鈍らないようにラジオ体操もして……
そうだ。
気晴らしとして、おとといから小ネギやミツバの苗を育て始めた。
美しい景観を損ねないように、
パームルームからは見えない裏庭に植木鉢を置かせてもらったんだ。
植物が成長していく姿を観察するのも、
それを食べるために収穫するのも楽しいからな。
孤島で一人ぼっちのとき、それでだいぶ慰められた」
研究所にはもう研究日誌などの機密書類は無くなっている。そして翡翠の双子の兄である水晶は自らの神代細胞で全身を覆い石化してしまったが、彼も本土に運び出したので人目をはばかることはない。だから翡翠が植えた桜の世話は孤島と本土との定期便を務めていた漁船の船長に任せた。その報酬として漁の合間の休憩基地とする許可を与え、畑の耕作権と共に小屋で飼われていた鶏も譲った。
「小夜子は正午の茶事というものに出かけた。
もちろん本当の御呼ばれではなく、
今日のは茶席の流れを学ぶための模擬演習らしい。
懐石料理など腹の足しにならないし、
堅苦しいから味などわからないと文句を言っていた」
「あはは。そりゃあ、お疲れ様ですね」
「小夜子は他のことでも苦労している。
お稽古事に加えて、家事も学んでいるからな。
奉公人を使いこなすためには、
雇う側も料理や掃除の技能を習得しておかなければならないそうだ。
それに加えて薙刀の修練も始まる」
「ああ、たしか御本家である朱砂侯爵は
御一新前には紀伊半島に領地をもつ藩主さまでしたね。
武家に嫁ぐ女性のたしなみってやつですか」
「そのせいもあって、
あてが外れた、
華族の奥様がこんなに大変だとは思わなかったなどと、
愚痴をこぼすこともしょっちゅうだ」
「でも、逃げるようすは無いんでしょう?」
「ああ。不平を言いながらも、
刀自子さまにもらったダイヤの指輪は手放さない。
すっかり気に入ったようだ」
「まさに、
[金剛石に目がくらみ]ってやつですね。あはは」
音矢は尾崎紅葉が書いた【金色夜叉】という小説を引き合いに出した。
「刀自子さまの話だと、
彼女はもともとの身体能力が高いので、
真面目に修練していればどのお稽古事も上達し、
いずれはボクの助けになってくれるとのことだ。
そして夜にはボクを楽しませてくれる。
今晩も抱くつもりだ」
「え、それは」
奉公人の耳を恐れ、音矢は止めようとした。しかし翡翠は他人の顔色を読むのが苦手だ。
「やはり、音矢くんの助言は役に立つな。
一時の感情に任せて早まったことをしていたら、
こう上手くはいかなかっただろう」
コーヒーカップを置き、翡翠は遠くを見るような目になった。
彼の心には4月2日に起きたことが浮かんでいく。
◆◆◆◆◆◆
あの日、室内ではなく溜池のほとりで音矢は翡翠を成長させた。
自分がどのように変化していくか、水面に映して観察したいと翡翠が望んだからだ。焚火で寒さをしのぎつつ工程は進み、やがて完成した。
「おおお! すごい。ボクはすっかり大人だ!」
翡翠の額には手ぬぐいが巻かれ、板を固定している。新しい角がまだ柔らかいうちに押さえつけて整形するためだ。
「おめでとう、翡翠さん。
これで夢の一部がかないましたね」
音矢は本土で買い求めた、自分のものより少し大きめのサイズの洋服を紙袋から取り出そうとする。
「雑誌の写真を見て推測していたとおり、
昇一郎さんは背が高かったんですね。その遺伝で翡翠さんも……
何してるんですか?」
うつぶせになった翡翠に音矢は問いかける。
「ああ、腕立て伏せですか」
しかし、そのフォームは崩れている。通常より腰の位置が低い。
「でも体力測定は服を着てからにしましょうよ。
ぶら下がっているものに土がついてしまいます」
「おお、本当だ」
翡翠は溜池の水で手を洗ってから音矢に借りたハンカチを濡らし、汚れたところをきれいにする。
服を着ながら、彼は己の行為を説明した。
「今のは体力測定ではない。予行練習だ」
「何のです?」
「あの女を凌辱する」
「え?」
「そういえば、君も瀬野が好きだったな。
音矢くんもいっしょに姦ろう」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。
なんで、いきなりそんなことをするんですか」
「生きているうちに凌辱しないと
肉体的、精神的な苦痛を与えられないからだ。
最終的には殺す。
君もあいつには恨みがあるだろう。
だから協力して殺ろう」
翡翠の瞳は焚火の明かりを映し、爛々とした緑に輝いていた。
「あの女は、ボクたちを騙した!
[研究機関]は礼文を探しているなんて言っていたけれど、
実際はヤツと通じていたんだ!
そして音矢くんを罠にはめ、大怪我をさせた!
音矢くんが命がけで作った改良神代細胞を礼文に売り渡しただけでなく、
これまで嘘をつき続けたのは
すべて[あなたのため]を思ってのことなどと、
恩着せがましく開き直った!」
彼が握りしめた拳はその激情を表すかのように震える。
「しかし、あいつの自白を聞いた時点では、
ボクは単独で生きていけない無力な状態だった。
だから音矢くんが悪口に偽装して伝えてくれた助言を生かし、
くやしくても愛想を良くし、
ご機嫌をとって媚びへつらった。こうやって!」
翡翠はしばし深呼吸し、笑顔を浮かべてみせた。
「ボクは音矢くんが帰還する日を想像した。
再び君といっしょに遊び、協力して戦うところを思い描いて笑ったんだ。
君が敵と戦うときの表情を見習って。
それは何とか成功し、
あの女に音矢くんの家財道具を孤島に運搬させることもできた。
だが、ボクにとっては非常に不愉快な行為だった。
クズに媚びを売るというのは……」
作り笑顔は消え、翡翠の表情は暗くなる。
「すまない。
自分ばかり辛い思いをしたみたいなことを言ってしまった。
右目と右腕を奪われた君の苦痛に比べたら、
ボクの苦労は足の小指をタンスにぶつけた程度に過ぎないのに」
音矢は翡翠の手を取り、自分の両掌で包んだ。翡翠は少しはにかみながら、目線を下げる。彼は音矢よりも背が高くなったからだ。
「小指をぶつけただけでも骨身にしみるくらい痛いんですよ。
個人的な感覚は他人と比べて相殺できるものではありませんからね。
翡翠さんがとても辛い思いをしたのはまぎれもない事実です。
よく頑張りましたね」
「……ありが……とう……」
万感の想いがこみあげてきて、翡翠の言葉は途切れる。
「でも、瀬野さんを殺してはなりません。
復讐に心を捕らえられると、道を誤りますよ」
「なんだと!」
翡翠は音矢の手を振り払った。
「あんなヤツ、生かしておけない!
たっぷり痛めつけて、
自分がどれだけ悪いことをしたか思い知らせてから、
八つ裂きにしてやる!」
「気持ちはわかります。
でも、やはり彼女の命を奪ってはなりません。
この世界で暮らす人々は
誰もが、かけがえのないたった一つの大切な生命を持っているのです。
それは瀬野さんも同じこと。
取り返しのつかないことを行う前に、考え直してください」
「きれいごとを言うな!
そもそもボクたちは、暴走患者たちを何度も始末してきた。
いまさら……?」
翡翠は音矢が過去に、どのような手口を使っていたか思い出した。
「君がきれいごとを口にするということは、
なにか企みがあるのだな」
「ええ、もちろん」
面白いイタズラを考えついた少年のように、悪魔は微笑む。
「……種明かしをしてくれ」
焚火が燃えている真下の土を音矢は火箸で刺す。そこには濡らした新聞紙で包んだ芋が埋めてある。
「も少し蒸らしたほうがいいですね」
芋に火が通るのを待ちながら、音矢と翡翠は焚火のそばに腰を下ろして語り合った。
「なぜ、あいつを殺してはいけないんだ」
音矢はその問いに、すぐ答えない。
「ようするに、
翡翠さんは瀬野さんに憎しみや恨みなど負の感情を抱いている、と」
その替わりに分析結果を伝える。
「……ああ。
彼女がここにいるときは愛想を良くするために抑制していたが、
定期連絡船が出ていって孤島に一人取り残された晩には、
とくに……悔しくて悲しくて……」
「その鬱積した情念を発散させるためには、
彼女を痛めつけ命を奪うことが必要である。
そのように翡翠さんは思っているということですね?」
「自分の心の動きを深く考えたことはなかったが
……たぶん、音矢くんの言う通りなんだろう」
「だからこそ、いきなり殺してはいけないのです。
なぜなら失われた命は取り戻せないから」
さきほどより力をこめて、音矢は火箸を地面に突き刺した。
「一度でも死なせてしまったら、それっきり。
首を絞めるだけでは満足できないから
さらに切り殺したい、焼き殺したい、撲殺したい、溺死させたいと願っても、
もう二度とは殺せないんですよ。
そして、彼女の魂は僕たちの手が届かない世界に行く。
残るのはいくら叩いても切り裂いても反応しない、
ただの屍だけ」
彼は火箸を引き抜いて、さらに深く刺す。
「翡翠さんが騙されていた二年間。
そして彼女の正体を知りながらも屈服せざるを得なかった二年半。
しめて合計四年半も積もり積もった感情を発散させるには、
せめて倍の九年以上の時間をかけて痛めつけないと、
採算が合いませんよね」
「……そうだな」
「彼女は翡翠さんと同い年だから23歳。女として食べごろです。
だから美貌が衰えるまでの間に何度も何度も凌辱しましょう。
10年ほど使用して彼女の体に飽きたなら、
その時こそ締めたり切ったり焼いたり殴ったり溺れさせたり、
他の方法も使って死に勝る苦しみを繰り返し与えたのち、
満足してからとどめをさせばいいでしょう。
別に急ぐことはありません」
「なるほど。では音矢くんもいっしょに」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
「なぜだ?」
「いくら友達で仲間である翡翠さんとでも、
茶碗や箸は共有できません。
消毒済みだとしてもね。
そんな、理屈で割り切れない感情が理由ですよ」
「そういうものなのか……でも」
翡翠は目を伏せる。
「あの女と共に孤島で暮らし続けるのは嫌だ。
せっかく正常な姿になれたのだから本土に渡って、
また博物館などを見に行きたい。
しかし、彼女を孤島から連れ出したら逃げるかもしれない。
そうして、手籠めにされた仕返しをあの女が礼文に頼んだりしたら、
またボクたちは[真世界への道]に攻撃されてしまう。
だから、孤島に滞在している間に瀬野を完全に支配下へ置く必要がある」
「その通りです」
「……音矢くんは俗にいう
[やってしまえば、こっちのもの]というような、
性交渉によって女性を服属させることを目論んでいるようだが、
もしもそれを行うとしたら、経験者である君のほうが適任だ。
しかし、音矢くんは彼女を共用できないという。
だったらボクが彼女のことを……
あきらめたほうがいいのか……な」
膝を抱えた翡翠の体から、緑色の光が発せられる。空間界面の繭にこもろうとする彼を、音矢は引き留めた。
「いえ、ただ闇雲にやればいいというものではありません。
女というものはそんなに弱くもなく、
むしろ自己の利益を求めてやまない
強かな生命力を持っているものですから。
たしかに、
僕は暴力や断食などによって人の心を壊し支配下に置く技術を
[真世界への道]で学習しています。
しかし、
それはどうしてもうまくいかなかった場合にしか使ってはならない下の下策。
心が挫けた者は本来の力を発揮できなくなってしまうんです。
瀬野さんは優秀な労働者なのですから、
それをつぶしてしまうのはもったいない。
翡翠さん単独でことに当たるのが、
瀬野さんの心をつかみ、思うままに動かす最上の方法なんです」
「なぜだ?」
「瀬野さんは、翡翠さんのことを……アイシテイルからです。
ホレタ男の頼みなら聞いてくれるでしょうし、
ましてや礼文に襲わせたりしません。
翡翠さんの恋人となるのが彼女の願いですからね」
部分的に棒読みながら、音矢は自分がオデン屋で瀬野を観測してきた事実を伝えた。
「向こうが乗り気なんですから、
その立派になった体で抱きしめて
『君が好きなんだ』とか言えば、身を任してくれますよ。きっと」
「ボクは嘘をつきたくない。
あの女の同類になるなど、想像しただけでゾッとする」
「では、『君が必要だ』では?」
「ボクは瀬野の肉体を使用したいのだから、それなら嘘にならないな」
うなずいてから、翡翠は問う。
「しかし、願いがかなったら瀬野が幸せになってしまうではないか。
あいつを懲らしめるためには、やはり苦痛を与えたい」
「大丈夫。そこらへんも考えてありますよ。
魚を釣るときにはまず美味しい餌でおびき寄せてから、
針ごとパックリと飲みこませ、
そのカエシを喉にひっかけてから引き上げるんです。
ひとたび捕まえてしまえば
丸焼きにするも三枚におろすも、こちらの思うがまま」
少し考えてから、翡翠はうなずいた。
「いいな。よし、そうしよう」
「支配をさらに完璧なものにするため、
本土に渡ったら、なんとかして須佐刀自子さんに連絡を取りましょう。
あの人も瀬野さんに騙された被害者なんだから、
復讐する権利があります。
元伯爵夫人の権威と元須佐製薬社長の財産を持つ彼女が
僕らの後ろ盾についてくれたなら、まさに[鬼に金棒]ですよ」
「どのようにして連絡をとり、いかにして味方につける?」
「刀自子さんの隠居所には管理人さんがいます。
その人に今の翡翠さんの写真と
雑誌に載っていた昇一郎さんの写真を渡して、
外遊中の刀自子さんに届けてもらうんです。
絵がかいてあるだけの葉書は黙殺されたようですが、
弟さんと瓜二つな写真を見せれば、
さすがに身内の情が湧くでしょう。
あとは状況に合わせて僕の口車で何とかします」
「なるほど」
その後、二人は焼き芋を食べながら、これからのことを話し合った。
まず、瀬野対策。
素早く戦闘態勢をとり、瀬野に不意打ちをくわせるために和服と麦わら帽子で翡翠は音矢に変装することにした。ズボンを脱ぐより着物の前をはだける方が早いからだ。
汽笛が鳴っても迎えに行かないことで瀬野に不安を与えておく。トンネルを抜けたところで畑に音矢らしき人物を発見したことで彼女に生まれた緊張が、大人になった翡翠に遭遇することで一気に消え去り、心に隙が生まれた瞬間に先制攻撃を加える。
大まかな作戦を決めたところで芋を食い終えたので、火の始末をする。
翌日、音矢が[真世界への道]で覚えてきた技術で翡翠を散髪した。これは翡翠の赤みがかった髪色を麦わら帽子で隠すためだ。
次に音矢がかいた瀬野の絵を対象として翡翠が射撃訓練をし、その後は射出された弾丸の検査、発射装置の改造を行った。
準備を整えてからの余暇には、お互いに安全確保をしながら桟橋で釣りを楽しむなどして二人は日を送る。
4月5日、汽笛によって瀬野が予定より早く孤島を訪れたことを彼らは知った。
作戦を実行したのち、翡翠は成功のシグナルを送った。それとほとんど間を置かず、大型船が鳴らす汽笛が響く。
音矢は刀自子が来訪した可能性に思い至り、もしも自分の予想が当たっていたなら打合せ済みの作戦を実行するようにトンネル内で翡翠へ頼んだ。
桟橋で翡翠が発した
「あなたはどなたですか?」
との質問は、船長帽の男に向けられたものだ。彼は音矢の集めてきた資料を読み、刀自子の顔を知っていた。
しかし清昌は洋装の老婦人という海にそぐわない人物を不審に思ったのだと誤解し、刀自子を紹介した。
次回に続く。




