第六話
客室に備えられたスリッパを履いて、音矢は鋳鉄製の手すりがある階段を下りる。
スリッパはフワフワとした生地だが、足をしっかり支えてくれた。よく磨かれた踏み板でも滑ることはない。これが高級品の力かと、音矢は感心した。
階段を下りた先の一階中央は、板敷きの玄関ホールとなっている。刀自子の隠居所はスパニッシュ・スタイルという建築様式を採用して作られた。
これは当世のアメリカで流行している建築で、いずれ観光地となる横濱のベーリックホールと同じ様式だ。ただし、引退後は夫婦二人で質素に暮らしたいという理由で噴水や壁泉などの派手な装飾は省略された。そして日舞や茶の湯などの稽古ができる部屋もほしいという刀自子の望みから、和室も加えた作りになった。
音矢はホールから右の部屋に入る。ベーリックホールでは広間にパームルームと呼ばれる小さな部屋が付属する形になっている。だが須佐夫妻は建築家に注文し、むしろ広間をまるごとパームルームとした。そこはアーチ状の大きな窓がずらりと並び、庭の景色を楽しめるようになっている。花壇を飾るのは色とりどりのチューリップだ。
「おはようございます。刀自子さま」
すでにテーブルの上座へ腰を下ろしていた婦人に、音矢は挨拶する。
「おはよう」
挨拶を返してから、刀自子はテーブルに置かれたベルを手に取って鳴らす。
ほどなくして、小間使いが現れた。
「なにか御用でしょうか」
「客人がお目覚めだ。茶を入れてくれ」
「かしこまりました」
飲み物を待つ間、下座に位置どった音矢は椅子の背もたれに体を預けて庭を鑑賞した。
「きれいですねえ。
こうしていると、騒がしい世間のことなんか
忘れてしまいそうになりますよ」
「そうだな。
しかし、世間という奴はこちらがのんびりしたいと思っていても、
ほっておいてくれないものなのだ」
そんな雑談をかわしている間に、二階から翡翠と小夜子が降りてきた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
明るい翡翠に対して、小夜子は少し気だるげだった。
翡翠は刀自子に次ぐ上座に、小夜子はその次席に腰を下ろす。
パシリ
扇子の音を聞いて、小夜子は背筋を伸ばす。
「夫の友にして仲間、
そして恩人である新田どのを末席に置くとはなにごとだ。
それに本来ならば早起きして台所に立ち、
自ら家政婦を監督して朝食を整え、
客人をもてなすのが妻の務めというもの」
「まあまあ、僕は別にかまいませんから」
音矢のとりなしに、刀自子はうなずく。
「今日のところはまだ慣れていないということで
大目に見てやろう。
しかし、次からはそのような無作法な真似は許さん」
「……わかりました……」
しぶしぶといった様子で、小夜子は音矢と席を替わる。
翡翠はその間、三人のやり取りを黙って見ていた。
「申し訳ありませんが、
その[新田どの]というのは……
ちょっと面映ゆい心持になりますので、
できたら新田と呼び捨てにしていただけませんでしょうか」
「おお、そうか。
気遣いがすぎるとかえって逆効果になるのであれば、そうしよう」
「ありがとうございます」
「それでは新田。
今日からは工藤が紹介した住みこみの勤め先に引っ越すのだな?」
「はい。いつまでもブラブラしているのはやはり退屈ですので」
「まめなことだな。
では、それを見送ってから、私たちも出かけよう」
「どこにですか?」
「小夜子の実家だ」
「ええっ、でも……」
喜びと戸惑いの表情を小夜子は同時に浮かべる。
「ああ、諜者試験に不合格だったから、
実家との付き合いを禁じられた件か。
それなら問題ない。私が話をつけた」
「本当ですか!」
すばやく扇子を開いて、刀自子は口元を隠した。
「実は、あの組織の幹部と私には縁がある。そこから手を回したのだ」
「そりゃあ、すごい。
刀自子さまの人脈は、どこまで広がっているんですか」
感心する音矢に、彼女は目だけで微笑む。
「父母の血縁や知人。
自分の学友と幼馴染。
そして部下に取引先と、
長く生きていればいろいろ繋がりが増えるものなのだよ」
「どうしたんだ?」
翡翠の問いに小夜子は答える。
「嬉しいの……やっと会える……
父さん、母さん……兄さん、姉さんに……」
彼女は涙ぐんでいた。
「それから、
下宿の管理人は昨日通帳を取りに行ったとき留守だったな。
今日は彼女も親戚として小夜子の実家で待っているはずだ」
「おばあちゃんまで!
よかった。
ずっと私のことを、早く嫁に行かないと売れ残るって心配してくれて
……でも、今日、嬉しい報告ができる! ありがとうございます!」
「食事が終わって一休みしたら、
昨日合わせた牡丹模様の色留袖に着替えるとよい」
銀座三越で合流したのち、刀自子は日本橋にある行きつけの呉服屋に小夜子を連れていった。そこには蔵から出した刀自子の着物が多数運びこまれていたので、その丈や裄が小夜子に合うか試着し、直しが必要なものはそのまま呉服屋に依頼した。だが、いくつかの着物は[おはしょり]の調整程度で済むことがわかったので、それは持ち帰った。
その間、翡翠と音矢は刀自子の夫がひいきにしていた銀座の名店をめぐり、洋服や靴などを購入している。背広やワイシャツは既製品だけではなく、オーダーメイドの注文もするように刀自子は計らっていた。
「披露宴を先延ばししているからな。
花嫁衣裳替わりに晴れ姿を見せてやろうではないか」
「はい!
ああ、母さんも父さんも喜んでくれるかしら。
私がこんな素敵な結婚ができるなんて……
そうだ。おばあちゃんに、私は」
かつて、小夜子はこのように宣言したことがある。
『当たり前の男と、平凡な結婚をするなんて、絶対に嫌!
私がもし結婚するなら、
帝大に入れるくらい頭がよくて、金持ちで、
おまけに映画俳優みたいな男前でなければ……
そして、私に惚れぬいて、
絶対に浮気なんかしないような男でなければ結婚なんてしない!』
そっと、小夜子は隣を見る。まさに彼女が欲していた伴侶が、そこにいた。
(おばあちゃんからは、
夢みたいなことを言ってないで現実を見ろって説教されたけれど)
(現実のほうが、私の夢に従ったのよ)
現在の状況を自分に都合よく粉飾する。まだ、彼女はそんな悪癖から抜け出せていなかった。
そして、[あの日]に自分が誓った言葉も忘れていた。
◆◆◆◆◆◆
音矢は身の回りの品を入れたバッグを手に、工藤から紹介してもらった就職先を目指して青梅街道を歩く。
1933年〔光文8年〕。
この時代の新宿駅西側にはまだ高層ビルも都庁もない。
東側は三越百貨店、紀伊国屋書店、中村屋、新宿高野などの商業施設が立ち並ぶ繁華街だ。今年の九月には伊勢丹も開業する。
しかし西側はというと、淀橋浄水場が大きな敷地を確保し、さらにその先には十二社池や十二社大滝などがあるという、人口密度の低い地域だった。それでも駅近くとなれば、木造二階建ての商店や飲食店などが軒を連ねている。
和風の町屋そのままの店もあるが、多くは[看板建築]と呼ばれる建物だ。それは道路に面するほうだけモルタルや銅の壁面を立ち上げて西洋風に見せかけた建築様式で、裏には瓦屋根の建物が隠されている。その一つである洋食喫茶店の前に立ち、音矢は2階の看板を見上げた。
〈阿賀野探偵事務所〉
ここが、音矢の目的地だ。
(探偵事務所!なんて素晴らしい響きの言葉なんだろう!)
彼の脳裏には、これまで読んだ探偵小説の名シーンや名セリフが無数に浮かぶ。
(あはは、どうしてもにやけてしまうな。
気を引き締めなければ)
音矢は鉄製の外階段を登りながら考える。
(そう、
僕がシャーロック・ホームズや
エルキュール・ポアロみたいな活躍をできるわけがない。
ここは日本で、僕は探偵小説の主人公ではないんだから。
せいぜい、浮気調査や迷い猫の捜索くらいの仕事だろうな。
期待しすぎてはいけない)
深呼吸をし、浮き立つ心を静めてから音矢はドアをノックする。
「ごめんください。工藤さんから紹介された新田と申します」
わずかな間をおいて、それは開いた。
「いらっしゃい。君が新田くんか。よく来てくれた」
出迎えたのは、額が頭頂部まで後退した丸顔の男だ。
「俺は阿川。
ここの所長だが、それは名目的なものでしかない。
経営は他の二人と共同でやっている……
まあ、とりあえず中に入ってくれ」
事務所の中は板張りの洋式だが、玄関では靴を脱ぐという和洋折衷形式だ。音矢は用意された薄ぺらいスリッパに履き替え、入室した。
「失礼します」
壁には帝都の地図が張られ、その隣の本棚には書類をとじたファイルが並んでいる。素人目には清潔で整っているように見えるだろうが、音矢の鋭敏な目は部屋の隅に転がる小さな埃の塊を発見した。
部屋中央の応接セットには、先に二人の男が腰かけている。
「君が就職希望者か。俺は賀内だ。よろしく」
細面の彼は阿川ほどではないが、額の生え際がM型に切れこんでいる。
「俺は野掛という」
そう言って、彼は角ばった顔に笑みを浮かべた。野掛は三人の中でもっとも症状が進んでいて、わずかな頭髪を後頭部に残すのみだ。
「新田音矢です。よろしくお願いします」
あらためて自己紹介をしてから、履歴書などを差し出す音矢を、三人は暖かく迎えた。
「そんなに畏まらなくてもいい。
どうせこんなちっぽけな会社なんだし、なかよく行こうぜ」
「書類は受け取っておくけれど、これは形式的なものだから」
「とりあえずの住まいは仮眠所を使ってくれ。
工藤の話ではヤバいことにかかわってしまったようだが、安心しろ。
俺たちは年寄りだが、これでも元警察官だ。
昼間は誰かが事務所に残って護衛する。
俺たちが帰宅したら、戸締りをして誰も入れるなよ」
工藤は音矢が詐欺集団の資料を持ち出して離れ小島に潜伏したと知ったとき、重要な証人である彼を警視庁や裁判所に出頭できる状態で保護するにはどうしたらいいか考えた。そして、警視庁を退職した先輩が経営する探偵事務所に音矢の身柄を預けるという結論を得たのだ。
それが偶然にも刀自子の隠居所の近くにあったことは、音矢にとっても好都合だった。
「ありがとうございます。この恩は忘れません」
「なに、こちらも即戦力になる社員を探していたところだったから、
渡りに船さ」
「さっそくだが、重要な案件がある。よろしく頼むぞ」
「はい」
緊張と期待を胸に、次の言葉を待つ。
「資料はこれだ」
テーブルに出された書類を順番にめくっていき、その内容を理解した瞬間、音矢の顔から血の気が引いた。
次回に続く