第四話
パシン
焦れたようにもう一度扇子を鳴らすと、刀自子は清昌に目を向けた。
「戸越を説得するときは手伝ってもらったが、女相手の場合はどうだ?」
「海の男は紳士なんです。レディを苦しめることはできません」
「やはりな。
では、工藤。特高の尋問がどのようなものか、この女に教えてやれ」
「ひいっ! お願いです。勘弁してください! うう……」
瀬野の頬を、一筋の涙がつたう。
「おやおや、まだ私は言葉を発しただけだぞ。
何も痛い目にあっていないうちからそれを使うか?
女の涙は最後の武器だ。
まずは言葉で戦ってみるがいい。
あの日、私を騙したときのようにな」
憎々しげに、刀自子は瀬野をにらむ。その前に翡翠が進み出た。
「刀自子さま。彼女は怯えています。
清昌さんも工藤さんも牧原さんも刀自子さまの味方で、
音矢くんは自分の敵。
多勢に無勢だと瀬野さんは考え、
防衛のために沈黙という砦に立てこもってしまったのでしょう。
だから、ボクが先に孤島での出来事を語っていこうと思います。
そうすれば、ボクの証言を補足するという形で、
少しずつ彼女も話してくれるかもしれません。
よろしいでしょうか?」
「なんと、しっかりした物言いだのう。りっぱなものだ」
理路整然と自己主張する甥の姿を見て、刀自子の表情は和らぐ。
「それでは翡翠に聞くとしようか。
ずっと疑問に思っていたのだが、
私が訪問したときには繭の中から出てこなかったのに、
瀬野が発見したときは普通に外を歩いていたそうだな。なぜだ?」
「お話によると、刀自子さまがいらっしゃったのは2月。
一番冷えこむ時期です。
研究員たちが全滅したので
ストーブに火を入れてくれる人がいなくなり、
ボクは寒さをさけるために冬の間はずっと休眠していました。
しかし暖かくなればボクは目覚め、
野生化したスイカやカボチャなどを食べて暮らしていました。
そんな時に瀬野さんが来たのです」
「私が瀬野から聞いた話はこうだ。
孤島にいた傷だらけの子供、
つまり翡翠は人を見ると怯えて逃げてしまう。
物陰にかくれて観察していたら、置いておいた弁当を食べた。
しかし、姿を現すとまた逃げてしまうと言っていた」
「え? ボクは逃げたりしません。
初めて見る研究員以外の人に興味を持って、
むしろ積極的に瀬野さんのほうへ寄っていきました。
彼女はボクの汚れた体を洗い、
髪の毛もハサミで切って整えてくれました。
そして分けてくれた弁当を食べて満腹になったボクに
瀬野さんはいろいろ話しかけ、絵本も読んでくれました。
意味はほとんどわからなかったけれど、
彼女の声を聴くととても幸せな気持ちになりました。
そして、絵本の挿絵と、
その横に書かれている模様にも心が惹かれました。
ボクは実験動物として檻のなかで育ち、文字も教えられなかったので」
「すまぬ。
昇一郎が実の息子にそんな扱いをしていたとは知らなかったのだ」
「大丈夫です。今はこの通り元気に過ごしていますから。
さて、ボクは瀬野さんの声が気に入って
もっと聞きたいと、ねだりました。
まだその時はうまく話せなかったので、
絵本を平手で叩くという動作しかできなかったのですが、
彼女はボクの意図を読み取って、繰り返し本を読んでくれました。
やがて日は暮れ、彼女は孤島を去りました。
ボクは引き留めようとしたのですが、
当時のボクは走ることもできなかったので、
瀬野さんに追いつくことができず、取り残されてしまいました。
鉄格子の鍵のありかも知らなかったので、
ボクは桟橋に出ることもできずトンネルを引き返しました。
次の日、ボクは研究所の中を探しました。
そこから瀬野さんが絵本を持ってきてくれたので、
もっとなにかいいものがあるかと思ったのです。
二階に上がってみると、
それまで開けることができなかったドアが壊れ、
中に入れるようになっていました。そこは図書室です」
「それは私も聞いた。
瀬野は研究所を探索する際に、
物置にあった釘抜きを使って図書室のドアを開けた。
そこに傷の無い少年、
つまり水晶がいたが窓から飛び降りて逃げてしまったと言っていたぞ」
「いえ、水晶はずっと図書室にいました。
……ということは、ボクを外に出したのは水晶なのかな?
空間界面は衝撃を吸収するから、
窓から放りだされても中のボクは怪我をしないし。
まあ、とにかくボクは図書室の中を探索しました。
ほとんどの本は地味な色で目を引かなかったのですが、
きれいな色をした本がまとまって置かれている棚を見つけました。
それを見よう見まねで開いてみたら、
やはり様々な絵がかいてあったので、
ボクは日が暮れるまで本を眺めて過ごしました。
そうして、外に出てはカボチャなどを食べ、
屋内に入っては本を眺めるといった生活をしているうちに、
だんだん意味が理解できるようになってきたのです。
次に瀬野さんが来たとき、
ボクは絵本を読む声に集中し、発音を丸暗記しました。
そして保存食を置いて瀬野さんが帰ってしまってから、
ボクは記憶にある音声と絵本の文字を照合して平仮名を覚えました。
基礎がわかれば応用できます。
ボクは図書室に残っていた初級の国語教科書と参考書で簡単な漢字を、
そして辞書の引き方を学びました」
「まるで【類猿人ターザン】だな」
牧原が口にしたのは、1912年に出版されたエドガー・ライス・バローズの冒険小説だ。獣に育てられた主人公は、自分が生まれた小屋に残された絵本を教材として文字を独学で習得する。
「私は甥たちの生存が確認できたと報告を受けて嬉しかった。
だが、体調は悪化していた。
執務室に大きなソファを持ちこんで、
30分書類仕事をしては15分休憩するという
非効率的な働き方しかできなかったので決済が滞り、
とても孤島に渡ることなどできなかったのだ。
それで入谷には甥たちに食料だけでも届けてくれと頼んだ。
私は翡翠と水晶が父と研究員から虐待されて、
人を恐れていると信じこまされていたからな」
刀自子は扇子を突きつける。
「入谷に伴われ、須佐製薬を訪れた瀬野はな。
私にこう言ったのだ。
『逃げようとするお二人を菓子で誘い、
船着き場まで連れて行こうといたしましたが、
暗いトンネルを怖がってどうしても通ってくれません。
説得しようにも言葉が理解できないようで、
とても船には乗せられません』と、な。
その後、私の夫が交通事故で亡くなり、
葬儀や遺産相続手続きの負担で私の体調はさらに悪化した。
それでも部下や執事に助けられ、
なんとかすべての仕事を済ませることはできた。
こんな状態なので旅行は取りやめようかとも思った。
しかし、夫は死に際に
『ずっと楽しみにしていたのに、
こんなことで行けなくなって残念でならない。
もしも自分が助からなかったなら、
せめて遺髪だけでも海外旅行に連れていってくれ』
と言い残したのだ。
だから遺言をかなえるために、私は一人でも旅立つことにした。
氷川丸に乗る前日に私は入谷と瀬野を呼び出し、
後に残る翡翠と水晶のことをくれぐれも頼んだ。
するとこの女は
『お任せください。
まだ怯えてはいますが、
お二人がいつか心を開いてくれますように誠心誠意努力いたします。
もしも信頼回復の兆しがありましたら、
留守をあずかる執事様にすぐ連絡し、
須佐様の滞在していらっしゃるホテルに
電報を打っていただくよう取り計らいます』
と、ぬかしたのだ!
本当はその時点ですでに翡翠は文字を習得していた。
書くのは下手だが読解力は向上し、
昇一郎の残した医学書や研究日記を理解できるようになっていた。
外の世界にも興味を持ち、孤島から本土に渡ることを望んでいた。
だが、お前は翡翠の願いを拒絶し、私も騙した!
そして富鳥に神代細胞ごと翡翠と水晶を売り渡したのだ!」
「ち、ちがいます!
翡翠くんたちを売ったのは入谷先生です!
私は止めたんですけれど、
逆らうならクビにするぞって、脅されたからしかたなく……」
「この場にいないものに責任をなすりつけるとは、
なんという卑怯者。
とにかく、お前が私を騙し、
その後も虚偽の報告を続けたために
富鳥は水晶の神代細胞を実用化する実験を始めた。
お前のせいで大勢の人間が犠牲になったのだぞ。
その罪は重い」
「ちがいます、音矢が悪いんです!
こいつが最初の実験で死ななかったから、
他の実験台もずる賢い手口で罠にはめて殺したから、
富鳥さんは本土で実験しても
暴走患者は音矢に始末させれば大丈夫だと楽観してしまったんです!
そうして実験の場が帝都に移ってもこいつは患者を殺し続けて、
おまけに証拠も完全に隠滅してしまったから
警察も捜査がはかどらなくて、
犯行を止められなかったんです!
それどころか[真世界への道]の運営法まで富鳥さんに提言して、
どんどん組織を発展させていったんです!」
「新田どのが犯行現場から逃走するのを手助けし、
彼の提言が含まれる報告書を富鳥に渡したのは、
お前だろうが。
この場にいない者に責任をなすりつけるのを私は咎めた。
だからといって同席している者になら、
なすりつけても良いということにはならんぞ」
苦笑してから、刀自子は拍子をとるように扇子を振る。
「戸越から真相をきいたとき、
私は怒りのあまり、
瀬野の素っ首を刎ね、
五体をズタズタに引き裂いてやろうと決意した」
「ひい」
身をすくめる本人を前にして、刀自子は自らの思いを語る。
「しかし、次第に冷静さを取り戻したので考え直し、
他の方法をとることにした」
安堵の表情を浮かべようとする瀬野に、刀自子は冷たい笑みを見せる。
「このような老いぼれにとって、
斬首と解体は重労働だからやめたのだ。
しかし今、当初の計画に戻ることも検討中だ。
なにしろ若くて力が強い者がここにいるし、
おまけに助っ人も二人加わった。
彼らには荒事の報酬として、
この女の肉体を欲しいままに扱う許可も出そうと思っている」
「え、それは」「奥様、いくらなんでも」「警察官として」
動揺する三人に、刀自子は扇子を横に振って答える。
「ああ、そうか。
清昌も牧原も工藤も良識ある人間だから、
残虐な犯罪行為などできないのだな。
ならば実務経験がある者に依頼してみようか」
刀自子の言葉を聞いた音矢は、とても嬉しそうな顔をした。
彼の様子を見て、瀬野は悲鳴に近い声をあげる。
「お願いします! 音矢にだけは任せないでください!
こいつの手にかかるくらいなら、私は……」
「ほう、自決でもしてみせるか?
責任の取り方としては、まあ、妥当だな」
「え、そんな、そんなの無理です! ううっ」
とうとう本格的に泣き出した瀬野をかばうように、翡翠が彼女の前に立つ。
「確かに、瀬野さんは刀自子さまを騙しました。
でも、彼女の行いは、ボクにとって良い結果をもたらしました。
だから情状酌量の余地はあります! ボクに弁護させてください!」
「ふむ」
一呼吸の間をおいて、刀自子はうなずいた。
「よかろう。申してみよ」
「ボクの体を見てください。
背も伸び筋肉もつき、醜い傷もなくなりました。
そして、なによりもっとも人間離れしていた部分、
角も隠すことができるようになったのです。
これまでは折ってもまた生えてきたのですが、
音矢くんが工夫してくれました。
折れた角が再生するときに板をあて、
額に沿って平らに成長するようにしたのです。
その上から音矢くんの細胞を貼りつけ、擬装しました。
ほら、髪をかき上げてもそれほど違和感はないでしょう?」
「うむ。すこし額が秀でてはいるが、異常というほどではないな」
「それ以前にも、音矢くんはボクにさまざまな技術を教えてくれました。
ボクの字はひどく汚く、
自分でも判読不可能になることもありましたが、
音矢くんに硬筆習字を習ってからはそこそこ読めるものになりました。
算術には興味がなかったのでろくに計算もできなかったのですが、
音矢くんに励まされて習得し、
ソロバンも使えるようになりました。
昔は手づかみで食事をしていましたが、
音矢くんが美味しいウドンを作ってくれたので、
それを食べたい一心で箸使いを習得しました」
「昇一郎は箸使いが苦手で普通の食事を拒否し
素手でつまめるカンパンや煮干しに干し果物ばかり食べていた。
しかし船で昼食を共にしたとき
翡翠は行儀よく箸を操っていたな」
音矢を褒める二人を目の当たりにし、瀬野は悔しそうな表情を浮かべた。
「つまり、なにもできなかった醜いボクを
人並みに育ててくれたのは、音矢くんなのです」
「ありがたいことだ。
恩を返すため、新田どのには何か褒美を与えようと思っている」
刀自子に会釈してから、翡翠は瀬野の肩に手を置く。
「でも、その彼をボクに引き合わせてくれたのは瀬野さんなんです」
そこから暖かく、頼もしい感触が伝わってきた。
彼女は翡翠を見上げる。経験豊かな古強者である刀自子を相手にしているのに、彼はまったく委縮する様子はない。堂々と自分の意見を述べていく。
「ボクの能力を発展させてくれたのは音矢くんですが、
最初に文字を読みたいという意欲を与えてくれたのは瀬野さんです。
そして孤島でボクが自学自習を続けることができたのも、
瀬野さんの協力があったからです。
彼女は引っ越し作業に来た軍人に頼んで、
音矢くんが残した蔵書や身の回り品を
すっかり孤島に運ぶようにしてくれました。
おかげでボクは参考書に不自由することなく勉学に励み、
高校卒業資格取得試験の過去問では
平均86点をとれるほどの学力をつけることができました。
これを評価してください」
「しかし、悪事は悪事だ」
拒否する刀自子に向けて、翡翠は叫ぶ。
「とにかく、ボクには瀬野さんが必要なんです。
ボクは彼女と結婚したい!」
「翡翠さん!」
獲物を鼻先から奪われたような表情を浮かべる男に、翡翠は頭を下げた。
「音矢くんの気持ちは知っている。
でも、ボクにはどうしても彼女が必要なんだ!
君には恩があるし、他のことだったら譲れるが、
これだけはだめだ」
「……」
黙りこむ音矢に代わり、刀自子が声をあげる。
「そんな嘘つき女など、
須佐家の籍に入れることまかりならん!」
「しかしすでに、ボクたちは性交渉をいたしました。
彼女の肉体はとてもすばらしく」
「あああ、人前でそんなことを言ってはならない!」
取り乱す刀自子の言葉を受けて、翡翠が動いた。
「では後ろに回って言いましょう」
背後に移動しようとする甥を見て、刀自子は額に手をあてる。
「だいぶ学習したとはいえ、
まだ常識に欠けるところがあるようだな。
二階に行って差し向かいで話そう。
すまんが、お前たちはここで待っていてくれ」
刀自子と翡翠が部屋を出てから、音矢は瀬野に詰め寄った。
「いいんですか。
孤独な未亡人である須佐さんは、
奇跡的な回復をとげた甥っこに甘い。
長い間放置していたという負い目もある。
このまま大人しくしていたら、
あなたは翡翠さんと結婚させられてしまいますよ!」
「あ、私は……別にかまわないのよ」
瀬野は頬を染めた。音矢の顔も紅潮しているが、それは彼女とは別の理由だ。
「僕は良いことだけをあの人に教えたわけではない!
チェリー・ピッキングも翡翠さんは学んだ!
重大なことをあの人はあなたに黙っている!」
「え、どういうこと?」
「それこそ人前で言えないことですよ。
ちょっと廊下に出て話しましょう」
「触らないで!」
手をつかもうとする音矢から、瀬野は逃げる。
音矢は他の三人に声をかけた。
「すみません。別の部屋に移動してもらえますか。
非常にデリケートな話題なんです」
「お、おう」
雰囲気を察し、一同は廊下に出ようとする。
「私も!」
その列に割りこもうとする瀬野の前に、音矢は回りこんだ。
彼はその場で跳ねて、空間界面を発動する。緑色の膜が大きく広がり、瀬野の進路を塞ぐ。
これは常識外れの現象だ。しかし、清昌は翡翠をヨットに迎えた時、牧原と工藤は音矢からの事情聴取の際、それぞれ目撃しているのでもう驚かない。
「ちょっと、通してよ!」
「話を聞いてくれるまで通しません」
言い争う男女を残し、彼らは外に出る。
次回に続く。