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勝てば官軍 弐 【呪術修正物語】  作者: 桜山 風
第二章 懐柔
14/24

第二話

「……あの手紙を読んだ。

 そして君が郵便局の個人箱に預けた文書にも目を通した」


 牧原は音矢を眺める。


「だが、はっきり言って今だに信じられない。

 もしも事実だったとしたら、帝都を揺るがす大事件となるだろう。

 あれは本当のことなのか?」


「あはは。僕は嘘をつかない主義なんです。

 昔、工藤さんに教えられましたからね」


 音矢は左胸を押さえる。彼の動作を牧原は見逃さなかった。


「その傷は、まだ痛むのか?」


「いえいえ、完全に治りましたよ。

 ただ……懐かしいだけです。

 工藤さんからは

 他にもたくさん役に立つことを教えてもらいましたので」



   ◆◆◆◆◆◆



『一人でできることなど、ほんのチョッピリだ。

 大きな仕事をしようとするなら、他人の協力を得なければならねえ』


『しかし、無料ただで手伝えって言っても人は動かねえ。

 なにかしら報酬がいる。

 といっても、お前さんには資本がねえ。

 だから、利益があがるようになるまでは、

 なにか他のもので代用することだな。

 基本となるのは笑顔だ。

 目を伏せ陰気な雰囲気を漂わせていると、

 味方になってくれそうな人まで逃げてしまうぞ。

 逆に、いつも朗らかなやつには自然と人が集まってくるもんだ』


『そして集まった人たちに褒美ほうびを配るなら、

 まず相手のことを知らなければならねえ。

 ネコにニンジンを渡しても、喜んでもらえねえだろう? 

 だからよく観察するんだ。

 その人はどんな人で、

 どんなことが好きで、

 いまどんな状況に置かれていて、

 何を必要としているのか。

 それがわかればネコにカツオブシを、

 ウサギにニンジンを渡すことができる。

 人はそれぞれ違うからな。

 バカの一つ覚えではなくて

 相手の個性に合わせた対応が必要なんだ』


『そして、もう一つ。

 言葉の上っ面だけ取り繕ったおべっかを言っても効きやしねえ。

 だから、ここでも観察力が必要となる。

 どんな人間にも一つくらいは良いところがあるもんだ。

 それを見つけたら言葉を飾らず正直に話せ。

 自分の胸から自然に湧いてくる真実の感情でないと、

 相手の心は動かないぞ』



   ◆◆◆◆◆◆



「役に立つ教訓だけではなく、

 具体的な観察分析法もいくつか教えてくださいましたね。

 おまけに実例まで体験させてもらいましたよ。あはは」


「俺は謝らねえぞ。お前さんにはちゃんと警告したんだからな」


「その警告こそが、

 僕への褒美ほうびにして行動開始の号令だったんですけれどもね。

 身の程知らずの冒険心を抱いた14歳のガキが、

『危険だから、お前さんはこれ以上かかわってはいけない。

 もう、あのことを他所よそで話すのはやめろ』

 なんて説教されたら、

 よけいにむきになって言いふらすにきまってるではないですか」


「それに気づいたから、

 ひそかにお前さんのことを見張らせたんだ。

 だから、とどめを刺される前に助けられたんじゃねえか」


「ええ、そうですとも。

 僕があの時死ななかったのは、

 工藤さんたちが現場に踏みこんでくれたおかげです。

 でも不思議なことに、

 [偶然にも]近所を取材していた新聞記者さんが

 騒動を聞きつけてスクープ写真を撮って、

 それが大々的に報道されることになり

 世論をにぎわせたんですよね。

 そして僕に対する殺人未遂事件がなければ、

 笹熊伯爵も道楽息子を見限って勘当し、

 司直の手にゆだねることもなかったでしょうよ」


「あの坊ちゃんは、

 自分がクズなだけではなく周囲も汚染する害悪だったんだ」


 牧原は、吐き捨てるようにつぶやく。


「以前に住んでいた大阪でもやらかして、

 ほとぼりを覚ますために横濱に追いやられたんだが、

 懲りずにまた同じことを始めた。

 金払いの良い上客という立場を利用して、

 出入りの店の奉公人たちを自宅に呼び、

 均分主義教育を施すという悪事をな。

 大阪では十数人もの丁稚でっちが犠牲になり、

 均分団の鉄砲玉に仕立て上げられた。

 そのまま店で働いていればまっとうな人生を送れたろうに……

 治安警察法ちあんけいさつほう違反で逮捕され、

 前科持ちになってはもうまともな仕事にはつけない。

 それどころか、内部抗争で命を落としたものまでいる」


「あはは。

 僕も呉服屋の御届け物であの人のお宅を訪問したら、

 いきなり均分団の入会書に署名をしろと強制されて、

 サインしなければ帰してやらないって脅されたんですよ」


「お前さん以前に捕まった小僧たちは泣く泣くサインして、

 あとからそれをネタに脅迫されて

 均分活動に協力させられていた。だが」


「何しろ僕は[普通の見本 ただし人格をのぞく]だの

[頭痛発生器]だのと異名を持つ、ひねくれものですからね」



   ◆◆◆◆◆◆



『均分主義? そんなの無理ですよ。

 相撲取りと僕と病人と

 同じ食料を均分に配給したら

 相撲取りは飢えるし病人は食べ過ぎて胃もたれします。

 そんな不合理な制度がうまくいくわけないでしょう』


『お客様のご要望であったとしても、

 自分が納得いかない書類に署名はいたしかねます。

 これは番頭からもきつく言われている、

 商人としての心得でございますから』


『さようでございますか。

 帰していただけないならここに留まるしかありませんね。

 でも、僕が飢え死にしたらお客様は人殺しですよ。

 だから、ご飯をください。

 ああ、急に決まったことですから店屋物で構いませんよ。

 カツレツ定食とか、天丼、寿司なんかもいいですねえ。

 出前をたらふく食べたら

 ここには僕の仕事がないから、ゆっくり昼寝でもいたしましょう。

 あはは。とんだ【居残り佐平治】だ。あはは』


『落語のマネをして、ずうずうしいことを言うな! 

 おい、こいつを三階にあげて、ドアの鍵を閉めてしまえ!』


『まさか飛び降りられはしまいと、

 窓のある部屋に放りこんだのが運の尽き。

 僕の特技を知らないな。

 こちとら、5歳の時から屋根に上がって高所行動は慣れっこだい。

 あの松を使えば塀だって乗り越えられるぞ。

 ほいっ。ほいっ。ときて……よいさ。

 着地成功! 目指すは横濱署!』


『おいおい、そっちは署長室だ。部外者が入っちゃだめだよ』


『まあ、そうでしょうね。ではあなたに頼みましょう。

 均分団の勧誘活動をしている人がいるので、

 告発に来ました! これが証拠です!』


『ああ?』



   ◆◆◆◆◆◆



「脅され、監禁されてもへこたれずに、

 僕は脱出して均分団の入会書を持って警察に行った。

 でも、

 それが笹熊伯爵の別荘から持ち出されたものだと

 裏付ける根拠がないと門前払いされ、

 悔しくて地団太踏んでいたら、

 工藤さんが来て、

 とにかく話を聞こうってんで署員食堂に誘われ、

 カレーライスをおごってもらいました。あれは嬉しかったなあ」



   ◆◆◆◆◆◆



『そうか、お前さんは小卒で奉公に出たのか。

 えらいなあ。その年で大人に混じって働くのは大変だろう。

 だが、人より早く社会に出たということは、

 それだけ多くの経験を積めるってことなんだ。がんばれよ』


『お前さんの年では

 掃除や使い走りなどの雑用ばかりやらされているだろうが、

 ささいな仕事にも意味があるんだ。

 命令されたからやる、ではなく、

 この仕事をすることで店にどんな利益が得られるか、

 もっと効率よくやるためにはどうするか、

 とにかく何でも考えながら体を動かせ。

 そうすれば、

 ただぼんやりと過ごしている奴らよりも先に行けるだろう。

 だから、どんな仕事でも誠心誠意で取り組み、結果を出せ。

 そうして得た実力と実績こそが、お前さんの助けになるだろう』


『自己紹介が遅れたな。俺は工藤警部補。

[特別高等課]所属だ』


『ああ、怖がらなくてもいい。

 悪い噂が流れているだろうが、

 それは俺たちが取り締まっている均分主義者たちが

 権力の手先をおとしめるために

 あることないこと喋りまくっているせいなんだよ』


『鬼や悪魔と呼ばれてはいるが、

 本当はこのとおり、ごく普通の公務員さ。

 見ればわかるだろう?』


『どうせ、店の門限にはもう間に合わねえんだ。

 だから浮世の気晴らしに、ちょいとおしゃべりしていこうぜ。

 番頭さんや同輩には言えない本音もあるだろう? 

 ついでだから、ここでぶちまけちまえ。

 大丈夫。警察官は情報を漏らさねえよ』



   ◆◆◆◆◆◆



「愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、

 生きていくために役立つことを教わったりしているうちに、

 僕は工藤さんたちが世間の人に誤解されているのが

 気の毒になったんです。

 そして、呉服屋に送ってもらって、

 なぜ僕の帰りが遅れたか

 工藤さんが番頭さんに説明してくれたおかげで、

 僕は叱られずに済みました。

 だから恩を返すために、

 僕は特高の人たちは悪くないと

 みんなに教えて回りたいと申し出ました。

 そしたら工藤さんから、

 心遣いはありがたいが、大げさに吹聴されると困る。

 僕が体験した事実だけを正確に話してくれと頼まれたんです」



   ◆◆◆◆◆◆



『食堂でも言ったが、

 人の心を動かすのは、まぎれもない真実と真心なんだ。

 嘘なんて、その場しのぎのごまかし。長くはもたねえ』


『だから、お前さんは嘘をつくな。

 自分に都合の良い嘘でごまかす癖がつくと、

 厳しい現実に立ち向かう気力をなくし

 ズルズルと堕落していくぞ。

 これは学校の授業で習う修身訓話みたいな建前じゃあねえ。

 俺は警察官として嘘つきのなれの果てを大勢見てきた。

 その経験からの本音で言っているんだ』


『もしもお前さんが

 人様からの確かな信用というビルヂングを築きたいなら、

 その土台にも建材にも嘘を混ぜてはならねえ。

 事実は崩せないが、

 嘘はそれが暴かれれば(もろ)くも砕け散る。

 欠けた部分を埋めるには、

 その形に合わせた新しい嘘をつかなければならないんだが

 それもいずれは崩れて最後に残るのは廃墟だぞ』



   ◆◆◆◆◆◆



「特高にカレーをおごってもらったなんて話は珍しいですからね。

 噂を小耳にはさんだ人たちからその件を尋ねられたら、

 僕はすべてを正直に答えていました。

 しかし、笹熊の坊ちゃんにしたら、

 まんまと逃げだした僕が特高の人は親切だったなんて

 あちこちで喋っていたら、むかっ腹が立つ。

 それで手下に命じて僕を捕えさせ、ナイフで……」


 作業を終えた音矢は、収穫物の入ったザルを持ち上げた。


「あはは。

 懐かしい人に再会したものだから、つい昔話をしてしまいました。

 それよりも現在のことにとりかかりましょう。

 昼食をとってから、例の件について自供いたしますよ」


「いや、まず話を聞かせてもらうぜ。

 腹に懸念(けねん)を抱えたままでは飯を入れる場所に困るからな。

 俺たちの分は弁当を用意してきたから、手間はかけさせねえ」


「そうですか。わかりました」


 音矢は牧原に話しかける。


「僕をオトリにして笹熊の坊ちゃんを捕え、

 その功績を出世の手がかりにしたことに

 罪悪感を持たれているようですが、お気になさらずに。

 当時の僕だってそんなに無垢ではありません。

 警察のために働いてコネを作っておけば、

 あとあと美味しいこともあるだろうと、

 取らず狸の皮算用を決めていたんです。

 要するに自分が立てた計略の失敗で大怪我をした。

 ただ、それだけのことですからね。あはは」


「あれだけひどい目にあったのに、それを笑い飛ばせるのか。

 ……君は勇敢だな」


「あの研究所で待機しているご婦人に言わせると、

 僕は[勇敢というよりも鈍感]なのだそうですが。あはは」


「それは当たっているぜ。

 運よく刃先が肋骨に当たったからよかったものの、

 もし骨と骨の隙間を突き抜けていたらお前さんの命はなかった。

 あれで懲りていれば、

 今回のようなヤバいことに首をつっこまずに済んだだろうに」


「あはは。ごもっともです」


 先頭に立って、音矢は二人を案内する。



  ◆◆◆◆◆◆



 音矢は湯気の立つ四つの器を乗せた盆を持って調理室を出た。それを隣の会議室に運ぶ。


 テーブルについていた三人の前に、それぞれを並べていく。瀬野にはクロダイの一夜干しを炙ったものとミツバを乗せたウドン。工藤と牧原の前には麺を抜いた具と汁だけのドンブリだ。


「弁当持参とはいえ、冷めていますからね。

 翡翠さん特製のスープも召し上がってください。

 まさにノーベル賞級の美味しさですよ」


 自分の場所にもウドンを置いて、音矢は席に着く。


「さあさあ、冷めないうちにどうぞ。いただきます」


 ズルズル


 音矢はウドンをすすりこむ。

 しかし、他の三人は手を付けようとはしない。


「あれ?

 僕の自供を聞いて、腹に抱えた懸念は消えたんではないですか?」


「それ以上に大きな悩みが替わりに入っちまったんだよ」


「手紙には、

 元均分主義者が昔取った杵柄きねづかの手口で人を集め、

 反社会活動の資金集めのために大規模な詐欺を始めるって……

 すでに多くの大学生たち、つまり良家の子女が組織に入会し、

 詐欺だけでなく破壊活動の予行練習まで始めているって……

 新田くんはやむを得ない状況で、

 その団体の事務員として働くことになってしまったから、

 せめてもの抵抗として証拠書類をこっそりと郵送し

 個人箱に保管したって……

 それしか書いてなかった」


「あはは。

[真世界への道]のやらかしをすべて書いたら、

 膨大な量になりますからね。

 とりあえず、特高が担当する部分だけ手付払いしたんです。

 それに」


 音矢は箸を置き手のひらを広げて見せる。そこにジワリと、真珠色の光沢をもつ粘体が湧きだしてきた。


「こんなもの、実際に目撃しなければ信じられないでしょう?」


「そりゃそうだが」


「まさか、[柘榴男(ざくろおとこ)]が君だったなんて、

 そして一連の犯行が、

 神代細胞の実用化を目指す実験だったなんて……」


「そっちまで手紙に書くと、

 捜査一課の人まで呼ばなければならなくなって、

 話がまとまりづらいでしょう。

 お役所仕事は、部署ごとで縦割になっているそうですし」


「いや、それは解消されつつある」


「あ、そうだったんですか? だったら話が早い。

 みなさんで協力して、この大きな事件を解決してくださいよ。

 僕は法廷に立たされれば、すべて嘘偽りなく証言いたします」


「ちょ、ちょっと待って! 

 そんなことをしたら、

 うちの弁護士事務所まで裁判所に呼び出されるじゃない!」


 黙っていた瀬野が、話に割りこむ。


「あんた、どこまで話したのよ!」


「入谷弁護士が裏で上流階級から依頼を受け、

 一族の厄介者を始末していたことから話しました」


「ええええ! そ、そんなあ! 

 誰に聞いたのよ! あの件は礼文にも話していないのに!」


「富鳥義光さんからですよ。

[真世界への道]で宴会を開くと、

 最後にはあの方の独演会になりますからね。

 そこで僕が聞き役を務めて、情報を引き出しました。

 いやあ、上流階級にもいろいろと苦労があるんですねえ。

 そして、一般庶民以上に現政府へ不満を抱いている。

 というわけで華族やら陸海軍の将校やら

 内務省の官僚やら大企業の社員やら、

 そんな高い立場にいる人たちが

[真世界への道]に協力してくれているようなんです。

 富鳥さんから聞いた名前と所属組織のリストも僕は作成して、

 個人箱に送りました。

 今回工藤さんに伝えたのとは別の郵便局にある箱です。

 本土に帰ったら、そいつらから証言を引き出して、

 悪事を企むやつらをバンバン逮捕してください。

 反社会活動の指揮を取る礼文に協力している人たちは特高が、

 詐欺にかかわる部分は捜査二課が、

 そして殺人犯は捜査一課が担当ですかね。

 皆さんは手柄の立て放題、出世し放題ですよ? 

 ああ、別に恩に着せるつもりはありません。

 犯罪の通報は市民の義務ですからね。

 だから僕が集めた証拠を遠慮なく受け取ってください。あはは」


「あんたが、

 いかにも世のため人のためっていう

 大義名分をかかげているってことは……」


 瀬野は刑事たちに目を向ける。二人の顔は青ざめ、とても喜んでいるようには見えない。


「なにか、良くない企てがあるんですか?」


 彼女の問いに、工藤は答える。


「大いにある。

 こいつは二匹の猟犬の前にマンモスの群れを連れてきやがったんだ。

 俺たちには、

 せいぜいタヌキだのキツネだのアナグマだのしか狩る力がないってのによ。

 そりゃあ、仕留めれば大量の肉が手に入るだろうが、相手が強すぎる。

 下手にちょっかいを出せば、こっちが返り討ちになる」


「笹熊の坊ちゃんのときは警視である俺が取り調べた。

 華族や将校を取り調べるとなると、

 平巡査を出すわけにはいかないんだ。

 せめて警部クラスの階級がないと……

 しかし、彼らは忙しい。

 通常の業務だけでもいっぱいいっぱいで回しているのに、

 さらに多勢の取り調べが加わるとなると……」


 牧原は首を横に振った。


「そして、内務省の官僚とは警視庁の上部組織に属するお方たちだ。

 下っ端が上役を、後輩が先輩を告発できるか? 

 そもそも現行犯以外で取り調べるときは捜査令状が必要なんだ。

 それを出してくれるのは裁判所だが、

 そこにも[真世界への道]の協力者が居やがるときている。

 当然、お仲間の起訴なんぞ妨害してくるだろう」


「じゃあ、上流階級にまでは警察の手が及ばないってことですか?」


「悔しいがな、しかし……」


「ああ、よかった」


「「はあ?」」


 警察官たちは、瀬野の顔をまじまじと見る。そこには罪悪感のかけらもなかった。


「それなら華族を顧客としている

 うちの事務所も無事ってことですよね。

 だったら私も逮捕されないわ。

 ふう、心配して損しちゃった」


「「……」」


 絶句する二人の前で、瀬野はウドンをすする男を指さす。


「でも、音矢は[真世界への道]をクビになったんですよ。

 だから、こいつだけでも殺人罪で逮捕してください。

 そうすれば被害者の霊や遺族の慰めになるでしょう」


「うあ、瀬野さんひどいや。

 そもそも僕をこの騒動に引きずりこんだのは、

 あなたの事務所ではないですか」


「さっきも言ったように、

 うちは顧客である華族の保護下にあるからいいの。

 でも、あんたは飼い主がいないノライヌじゃない。

 野犬は駆除されるのが当然よ」


「とほほ」


 その言葉とは裏腹に、音矢は平気な顔で箸を動かす。


「ねえ、上流階級を逮捕できなくて悔しくありませんか? 

 せめてもの腹いせとして、こいつだけでも刑務所に入れてください」


「あんたがそれを言うか」


 あきれ顔の牧原に続いて、工藤が口を開いた。


「公務員は、法令にのっとって職務を遂行(すいこう)するものなんだよ。

 個人的な腹いせなんて論外だ」


「でも、僕は自らの犯行を告白しましたよ。

 さあ、手柄を立てて出世するチャンスです。

 逮捕してくださいな。あはは」


 二人の警察官は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。


「だが、現場には物証となる遺留品がまったく残されていねえ。

 捜査一課の人から聞いたんだ」


「そんなの関係ないでしょう。本人が自供したんですもの」


「あの冤罪事件を起こした赤朝のせいでな、

 自供だけでは有罪にできなくなったんだよ。

 一般庶民が容疑者であっても、

 裁判で勝てる要素がなければ差し戻しされる」


「いやあ。昔聞いた、工藤さんからの助言が役に立ちましたねえ。


『お前さんの年では

 掃除や使い走りなどの雑用ばかりやらされているだろうが、

 ささいな仕事にも意味があるんだ』

『どんな仕事でも誠心誠意で取り組み、結果を出せ。

 そうして得た実力と実績こそが、お前さんの助けになるだろう』


 もともと僕は祖父母に仕込まれて掃除を得意としていましたが、

 工藤さんの助言を聞いて更に切磋琢磨(せっさたくま)し、技能を高めました。

 そのおかげで、

 殺人現場を素早く徹底的に清掃し、

 物証を持ち去ることができたんです。

 そういうわけで、工藤さんには感謝しています。

[一ツ木のおじさん]と同じく、

 僕の師匠として尊敬していますよ。あはは」


「ううう」


 工藤は頭を抱えた。


「おやおや。

 また僕の[頭痛発生器]が発動してしまったようですねえ。

 あはは」


「悪魔か、君は」


「あはは。皆さん、そうおっしゃいますよ。なぜでしょうねえ。 

 僕はただ、与えられた仕事を誠実に行っているだけなのに」


 冷たい目で見る牧原に対し、音矢は平然と答える。


「ね? こういう男なんですから、

 野放しにしていては、

 もっととんでもないことをやらかすでしょう。

 だから、予防的な処置としてどこかに閉じこめたほうがいいですよ。

 この研究所には檻がありますから」


 ピリリリリ


 瀬野の言葉を打ち消すように、ホイッスルが鳴り響く。

 いったん止まってから、それは単音と長音の組み合わせとなる。

 それを聞いた瀬野の顔色は青ざめていった。


「翡翠さんからのモールス信号です。

 全員で話し合いをするため、

 これから須佐刀自子さんが研究所にいらっしゃるとのことで」


 音矢は立ち上がった。


「それなら、この会議室を使うことになるでしょう。

 すいませんが、お食事は片付けさせていただきますよ」


 ドンブリを回収しながら、音矢は瀬野に声をかける。


「僕が瀬野さんのやらかしを

 須佐刀自子さんに密告することを恐れ、

 警察官をそそのかして拘禁処置をとらせるおつもりでしたか? 

 それには説得する時間が足りなかったようですねえ。あはは」


 図星をつかれて、瀬野はうなだれた。




   次回に続く。




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