第十二話
八分咲きの桜の下で畑仕事をしている、作業服姿の人物を彼は発見した。
小柄な体はそのままだが、肌は健康的に日焼けしている。
どうやらあちらも訪問者に気づいたようだ。
「おおおお!」
歓声をあげて、その人は走り寄ってくる。三年前よりずっと、速度は増していた。
トンネルの出入り口で立ち尽くす彼を前にして、翡翠は躓いた。転ぶ拍子に、そのまま鳩尾に頭突きをくらわす。二人はもつれあうようにして倒れた。
「げほっ……うう」
小さいとはいえ、翡翠の額には角が生えている。それに刺されて彼はうめいた。
「痛いか?
あまりうれしかったので、勢いあまってしまったんだ。
すまない」
翡翠は彼の腹をなでる。
「……僕のことを恨んでないんですか?」
うつむいた顔をあげると、若草色の輝きを帯びた瞳と目が合った。
「なぜだ?
君は安宅関での弁慶みたいなことをして敵を欺き、
やつらの懐に飛び込んだ。いわばトロイの木馬だ。
きみはボクのためにそんな危険なことをしてくれたんだろう?
それなのに、なぜ、恨まなければならないんだ?」
――これは、純粋な眼が、隠れた本質を見抜く物語――
「でも、僕があなたを見捨てて礼文の手下になったって、
瀬野さんに言われませんでしたか?」
「言われたが信じなかった。あいつは噓つきだから」
きっぱりと、翡翠は言い切る。
「礼文は君が改良した細胞を残さず奪っていくつもりだった。
しかし、君はボクを殴った後に泣きながら許しを請うふりをして
ボクの胸に顔をこすりつけた。
そのとき脳から分泌した改良神代細胞を眼窩から出して、
こっそりとボクに渡してくれたではないか。
これこそが君の精神は礼文に屈服していない証拠であり、
そしてボクを救うための計略を遂行中だったという証拠だ」
「……わかってくれてたんだ……」
彼は目と鼻の奥が熱くなるのを感じた。
翡翠は作業服の袖をまくり上げ、腕を曲げて見せる。2年前は棒のように細かった手だ。だが今はわずかながら筋肉がつき、力こぶらしき盛り上がりもできている。
「ボクは約束通り畑仕事や家事で体を鍛え、
だいぶ強くなったぞ。
君が買ってくれた参考書で勉強も続け、
高校卒業資格取得試験の過去問では平均86点をとれた。
これなら合格できるだろう。
もちろん、鍛錬ばかりしていたわけではない。
レコードの音楽を聴いたり君の蔵書を読んだりして、
情緒と教養も養ってきたんだ。
その他にも、できるようになったことはいろいろある。
あとで見てくれ」
「……すごいや、翡翠さん……頑張ったんですね……」
涙ぐむ彼を見て、翡翠はとまどう。
「なぜ泣くんだ? さっきの頭突きがまだ痛いのか? 」
「なぜ」
彼はその言葉を繰り返す。
「…………ひさしぶりに聞いた……なんていい言葉なんだろう。
……ああ、[なぜ]……」
「[なぜ]がいい言葉? それこそ[なぜ]だ。
[なぜ]なんて普通の言葉だろう?
[なぜ]君はそんな普通の言葉を聞いて泣くんだ?」
[真世界への道]において[なぜ]は禁忌だ。彼はなんのはばかりもなくその言葉が連発されるのを聞いて、自分が安全な場所にたどり着いたのだとようやく実感できた。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。
どうやらひどく疲れているようだな。
それなら休め。
君が帰ってきたときのために用意した部屋があるんだ」
小さな手が、大きな手を優しく包む。
「おかえり、音矢くん」
そう言って、翡翠は彼を抱きしめる。
「あの日、礼文に与えられた名前なんか忘れてしまえ。
今の今、音矢くんは音矢くんに戻ったんだ」
「う……あ……」
胸にこみあげてくる思いで、舌がもつれて彼はうまく発音できない。
「オ……トヤ……クン……」
たどたどしい発音に、翡翠は答える。
「そうだ。君は新田音矢。
ボクの友達にして仲間の、音矢くんだ!」
「ニッ……タ……おと……矢」
徐々に発声は正確になっていく。
「僕は……新田、音矢」
図らずも、彼が死の淵から蘇った日の会話を二人は再現することになった。
「僕は、新田音矢。
そうだ、新田音矢なんだ! うああああ!」
足掛け三年の間、押さえ続けてきた感情が今解放された。
「ああ、あ……」
腹の底からでた叫びは、やがて
「あははははは」
明るい声に変化していく。しかし、目からは涙があふれる。[真世界への道]で味わったのは奪われる屈辱。しかし今の彼は、与えられる喜びに浸っていた。
◆◆◆◆◆◆
4月5日。ゼンマイ式の蓄音機からは、モーツァルトの交響曲 第40番 第1楽章が流れている。新田音矢は机に向かい、手帳に残した下書きをもとにして、失われた絵を新たなスケッチブックに復元している。
しかし、彼の意識はどうしても桜の木の下に流れてしまう。そこでは今、大人の体を手に入れた翡翠が瀬野と一対一で対決しているはず。
音矢は手を止め、伸びをした。
「首尾はどうかなあ」
覗きに行きたくなるが、これは翡翠の自立を促す試みだ。
「どうしても手助けが欲しい時は
ホイッスルを長く吹くと打合せしたし……
でもレコードを一枚聞き終わって、
別の曲をかけてもまだ終了の合図は来な」
ピ ピ ピ ピ ピ ピ ピ ピ ピ
その甲高い笛の音は、短く区切られている。
「来た!」
音矢は思わず立ち上がった。
「とうとうやったのか。やりとげたのか」
しかし、それは別の意味も持つ。
「……瀬野さん……」
波立つ心を押さえるため、彼は目を閉じて音楽に集中する。交響曲は2楽章に差し掛かっていた。
深呼吸しながら冷静さを取り戻そうとする音矢の耳に、
ボオオオオ
予想もしていなかった音が飛びこんできた。
「汽笛?
でも、瀬野さんが乗ってきた小さな漁船ではない。
もっと大きな船が来たのか?」
横濱育ちの彼は、過去に港で聞いた音を頼りに推理した。
汽笛の音程は船体の大きさに合わせて低くなるよう、規定されている。
こうなったらじっとしてなどいられない。
音矢は玄関で下駄をつっかけ、外へと走り出した。
「あ」
瀬野は彼とは逆に、研究所の建物へ向かっている。彼女は大きく回りこんで音矢を避けた。その足取りにぎこちなさを見て取り、音矢の心は再び波立つ。
「ええい、それどころじゃない!」
己を叱咤して、彼は急いだ。
桜の木の下で、翡翠は音矢を待っていた。その姿はすっかり大人のものだ。
身長は178センチで、音矢よりも高い。雑に着付けた袷から覗く体は適度に筋肉がついて、ギリシャ彫刻を思わせる。音矢の細胞によって、発達不全だった身体を健全に成長させた結果だ。生体解剖された傷ももう無いし、角も細工して前髪で隠せるようにしてあるので、彼はまったく普通の人間に見える。
「音矢くん! なにが起きているんだ?」
翡翠が質問する声も、もはやボーイソプラノではなくテノールにまで成長していた。
「わかりません。とにかく桟橋に行ってみましょう」
トンネルを抜けて鉄格子を開け、二人は光の中に出る。
「大きな帆がある。ヨットか?」
桟橋から少し離れたところに停泊中の白い船を見て、翡翠は音矢に尋ねる。
「はい。
しかも、帆走だけではなくエンジンでスクリューを回して
風のないときでも動ける型です。
この大きさなら、
船員以外のお客様がくつろげるサロンや食堂に寝室、
シャワールームまでついている、かなり高級な代物ですね」
「おお、なにか出てきたぞ」
「あれは上陸用のボートでしょう。
乗っているのは船長さんと、ご婦人かな」
船長帽をかぶった男は自らオールを握り、こちらに背を向けて桟橋へと接近してくる。
近づくにつれ、船尾近くの座席に座った女性の姿も細かいところがわかるようになった。
白い頭髪を上品に結い上げ、高級そうな洋装に身を包んでいる。目鼻立ちは整っていて、きっと若いころは美人ともてはやされただろう。さすがに年齢による皺はあるが、それは醜いものではない。むしろ彼女が豊富な経験を得ていることを証明する印のように見えた。
彼女も桟橋にいる二人を観察したのだろう。その目が大きく開かれる。
「ショウちゃん!」
「ええ?」
彼女の叫びを聞いて、船長帽の男も振り向いた。
「昇一郎さん! 生きていたのか?
……いや、それにしてはいくら何でも若すぎるし」
「昇一郎はボクの父です」
翡翠が答えると、船上の二人は度肝を抜かれたような表情を浮かべた。
「早く! 早くあの子の元へ!」
「言うには及ぶ!」
老婦人の求めに応じ、船長帽の男はたくましい腕でオールを漕いでボートを接岸させた。音矢は手を伸ばして船べりをつかみ、安定させるのを助ける。
ボラードに係留された船から、老婦人は上陸した。
「……翡翠? それとも水晶?」
彼女の問いかけに、彼は答えた。
「ボクは翡翠です」
「ああ……すっかり立派になって……」
「あなたはどなたですか?」
――そして、これは――
涙ぐむ老婦人に代わって、船長帽の男が答える。
「この人は須佐刀自子。
製薬会社の社長を引退したのちに
海外遊覧旅行で長年の疲れを癒し、先日帰国した。
そして今日、
入谷弁護士に管理を任せていた甥たちに会いに来たんだ」
――長い旅を終え、大切な人(亡くなった弟から託された甥)と
再会する(須佐刀自子の)物語――
第一章 帰還 終わり
第二章 懐柔に続く。