第一話
1933年〔光文8年〕4月2日。
快晴の空の下、小さな漁船は滑らかな海面を進んでいく。その焼玉エンジンは特有のポンポンという音を響かせている。
船の甲板には一人の青年がいた。
これと言って目立たない顔立ちで、しいて彼の特徴をあげるとすれば、濃くて真っ直ぐな二本の眉ぐらいだろう。
目的地まではまだまだ遠い。彼は操舵室の外壁に背を預け、マブタを閉じた。エンジンの音は大きいが規則的な響きと振動が彼を眠りにいざなう。
心地よい夢の中で彼は絵本を開く。
最初のページに描かれているのは、海に浮かぶ小さな島だ。それは豆大福の餡を抜き、真ん中をつぶしたような形をしていた。どこからともなく、物語を読む声が聞こえてくる。
『昔々、ある孤島で、非力で無知な醜い小鬼が魔女に飼われておりました』
彼は声に導かれるまま、ページをめくっていった。
『ある日、孤島に三体の怪物が現れ、小鬼を殺そうとしました。
そこに異世界から勇者が現れ、魔術を使って怪物を倒してくれました』
『他の怪物たちも退治するため、
魔女は勇者と小鬼をもっと大きな島に派遣しました』
『戦いの中で小鬼は勇者から様々なことを学び、
醜い姿はそのままですが、修行を積んで賢く強く成長しました』
『しかし、勇者は死霊術師の罠にかかり、冥府に堕とされてしまいました。
小鬼は彼の後を追い、おぞましい姿になった勇者を発見します』
『小鬼は地上に戻ろうと勇者に呼びかけましたが拒絶されました。
それどころか勇者はさらに深い地の底に向かおうとします。
冥府の闇に体だけでなく心までを侵されたせいでした。
彼を救うため、小鬼は知恵を使って勇者を倒しました』
『冥府においての死は現世での誕生を意味します。
だから勇者は生まれ変わりました。
赤ん坊となった元勇者を抱いて、小鬼は地上を目指します』
『その途中、赤ん坊は闇の世界をさまよううちに得た真実を語ります。
小鬼の正体は流刑にされた王子だったのです。
その醜い姿は呪いによるものでした』
『呪いを解く黄金の果実は死霊術師が持っているから、
何としてでも自分はそれを手に入れる
と、元勇者は誓いました』
『小鬼は
王子という身分にふさわしい教養と武勇を身につけるため、
さらに修行を続けると約束しました』
『やっと地上に出たと安心したそのとき、死霊術師が再び襲ってきます。
魔女が裏切って小鬼たちの居場所を教えたのでした』
『死霊術師は元勇者である赤子を小鬼から奪うと、
漆黒の毛皮をかぶせました。
その呪力で黒犬に変えられてしまった元勇者は、
首輪をつけられて死霊術師の家畜とされました。
小鬼は魔女につかまり、孤島に連れ戻されてしまいました』
『黒犬は死霊術師にこきつかわれていましたが、
知略を巡らして首輪をはずすことに成功します。
小鬼が待つ孤島を目指し、
口に黄金の果実をくわえた黒犬は海を渡るのでした』
そこで彼は目を覚ました。体を伸ばしてから、舳先に立つ。目的地はまだ見えない。
青い空と紺色の海を眺めながら、彼は先ほど見た夢を思い出す。
(まるで、[これまでのあらすじ]みたいな内容だったな)
(実際、僕は研究の成果をあの人が待つ孤島に届けようとしている)
(でも、順番が入れ替わっていたところもあった。
あの人の素性を正確に知ったのは、
僕が[真世界への道]に入会させられてからだもの。
事前に入手した情報もあったけれど、
それはあやふやな推測でしかなかった)
(あそこでは本当に……いろいろあったなあ)
――さあ、昔々の物語を始めましょう。
これは異なる世界の物語。
そして長い旅を終え、大切な人と再会する物語――
1931年〔光文6年〕7月18日。
礼文は意気揚々と、自ら操縦する車で研究所に向かう。
ルームミラーを見ても、後部座席は映らない。それは運転席の後ろにゴム布を張り巡らせ、きっちりと隔離しているからだ。しかし、
「ぎゃあ! ひいっ!」
声は聞こえる。あの男が両側から殴られている様を想像すると、礼文はとても嬉しくなった。
(私は母を冒涜した悪党を打ち倒し、心を支配することに成功した)
(その手始めとして、
あいつが誇りとしていた新田音矢という名を奪い、
犬田黒助という滑稽な呼び名に替えてやったのだ。
そんな屈辱を受けても、津先や茅ケ崎に暴行されても、
やつは抵抗することもできず、ただ悲鳴をあげるだけ)
(だが、この程度ではすまさんぞ。
研究所の檻に奴を閉じこめたら、
この手で徹底的に罰を与えてやる)
(名目は、改良神代細胞の性能試験だ。
それがどれくらいの速度で傷を癒すか調べるには、
実際に皮膚を焼き肉を切り骨を折ってみる必要があるからな)
◆◆◆◆◆◆
研究所の門前に車を停め、礼文は自ら扉の鍵を開ける。車を中に入れてから、杖をついて痛む左膝をかばいながら礼文は歩き、門扉を施錠する。
脱走防止のため、内部にいるものに錠前を任すことはない。そして、車のハンドルも握らせてはならない。だから礼文はこの四人の中で一番の上位者であるのにも関わらず、下働きのように自らが動くはめになる。
「さあ、降りろ」
命令に従い、津先、犬田、茅ヶ崎の順に車から出る。
犬田は口や鼻を、津先と茅ヶ崎は拳を血で汚していた。それは彼らの作業着に付着している。犬田が持たされている二つの風呂敷包みにも赤いシミがあった。
「これからお前たちは清めの儀式を受けなければならない」
礼文が宣告すると、茅ヶ崎はうなずいた。彼が[真世界への道]で受けた教育では当然のことだからだ。しかし、津先はこれまで儀式を監督するばかりで、自分が受けたことがない。
「なんで、俺まで……」
彼のもらす不満を無視して、礼文は茅ヶ崎に命じる。
「清めの儀式を説明してみろ」
「はい!
清浄なるこの地に穢れを入れることを防ぐため、
外の世界から持ちこんだものをすべて捨て、
全身を洗浄したうえで檻の中にこもり、一週間断食するのです!」
「よし、満点の回答だ」
「ありがとうございます!」
頬を紅潮させる茅ヶ崎とは裏腹に、津先の表情は沈んだ。
「では、二人とも身に着けているものを焼却炉に入れ、
水道で体を洗え」
「「はい」」
駐車場には、最近新しい設備ができた。水道の横にはスノコで床を作りトタン板を屋根とした小さな差し掛け小屋がある。そこには着替えとタオルを準備しておく木製のミカン箱が置かれていた。5月に加入した千川が軍隊で覚えた大工仕事で作成したものだ。
その隣にはドラム缶を改造した簡易焼却炉もある。1931年〔光文6年〕というこの時代には〈ダイオキシン類対策特別措置法〉はまだない。だから各家庭で勝手にゴミを燃やして処理することは、ごく普通に行われていた。
津先と茅ヶ崎は命じられた通り服と靴を焼却炉に入れ、水道で体を洗って小屋に入り新しい服と靴に着替えて出てきた。
「檻に向かうついでに、千川に言え。
皆を連れて駐車場に集合せよと」
「りょ……」「了解」
津先の言葉を押しのけるように、茅ヶ崎は返事をする。
到着を待つ間、礼文は新しい部下を観察していた。犬田はとくに何をするでもなく、突っ立っている。うつむいているその顔は、長く伸びた髪に隠されて表情がよく見えない。
(つまらんな。後で千川に命じて散髪させよう)
彼は理髪師の孫だ。徴兵されて軍に入る前は修行のために別の店で徒弟奉公をしていた。不名誉除隊をした件で祖父と口論となり、殺害。その後に逃走したときにはバリカンやカミソリなども祖父の店から持ち出している。研究所に収容された実験台候補の少年たちも、彼の手で丸坊主になった。
その少年たちを率いて、千川が駐車場にやってきた。
「全体、止まれ!」
彼の号令によって少年たちは礼文の前で横列縦隊になり、休めの姿勢をとった。
「あの、御留守中に何度も電話がありましたが、俺は」
千川の言葉が少し気になったが、礼文はとにかく戦利品である犬田を処理したかった。
「報告は後で聞く」
「了解」
千川を黙らせておいて、礼文は誇らしげに語った。
「こいつの名は犬田黒助だ。
千川指導員は[秘密の首領]さま直々の指名だったので省いたが、
この男は違う。
非常に穢れているから、念入りに清めの儀式を行うぞ。
さあ、犬田。皆の前ですべてを捨てて見せろ」
多勢の前で脱衣させて辱めようとしたが、
「はい」
犬田は風呂敷包みを焼却炉に押しこんでから、その上に自分の着ている服を乗せていく。まったく淡々とした態度だ。
嫌がる犬田から尊厳ごと衣服を剥ぎ取ろうと目論んでいた礼文は拍子抜けした。
この時代の庶民は各家庭に風呂を持たず、銭湯で入浴するのが一般的だ。しかも男子は20歳になれば徴兵検査場で全裸になり医師の診察を受けることが決まっている。だから人前で肌をさらすことに、それほどの忌避感はない。少年たちがここに連れてこられたときに抵抗したのは、いきなり知らない環境に放りこまれて、自分の持ち物を奪い取られることに恐怖を覚えたからだ。
リューシャ帝国育ちの礼文にはそれがわからない。だから誤解した。
(私に逆らう気力が無くなったのはいいが……
ちと、やりすぎたかな? 羞恥心まで壊れたか)
(しかし、これでは満足できない。
この男が犯した罪を償わせるには、
さらに屈辱と苦痛をあたえねばならない)
(それには……)
礼文が考えている間に、犬田はさっさと水道の蛇口をひねり、津先や茅ヶ崎をまねて体を洗い終えていた。
(とりあえず、こうするか)
礼文も決断する。
「犬田を殴れ」
「「「「「「はい」」」」」
少年たちは[なぜ]と考えることもなく、すぐさま命令に従う。それがここのルールだからだ。
「? 了解……」
しかし、まだそれに慣れていない千川は一瞬だが出遅れた。犬田を取り囲んで殴る密集した12人の少年たちに混じる隙間が見つけられないようで、うろうろと周りを歩いている。
その様は滑稽だ。しかし、千川は嗤われると激怒して暴れだすことを礼文は知っている。だから顔にも声にも感情を出さない。
そんな彼の耳に、クラクションを強く鳴らす音が届いた。
(誰だ? まさか)
この研究所に訪れる者は限られている。
(バカ親父がやってきたのか?)
スポンンサーである富鳥義光が来たなら、すぐに出迎えなければならない。だが、鍵を持つのは礼文だけだ。彼は暴行を続ける集団をそのままにして門に向かい、鍵を開けた。
ロールスロイスを操縦して敷地内に入れたのは、義光のお世話係を担当している島口という名の執事だ。
「君は降りたらすぐに門の外に出て待っていなさい」
「承知いたしました」
義光の命令に当惑することなく、彼はそれに従った。主人が常識を心得ていないことを島口は知っている。
礼文は急いで門扉を施錠し、車を駐車場に動かした。
「ありゃ?」「何事?」
少年たちの所業を見て、後部座席から二つの声が上がった。
停車するや否や、角ばった顎を持つ男がドアを開け、両手に大きな革バッグを持って出てくる。彼の名は塚元茂。医学博士として陸軍戸山ヶ原科学研究所でチフス菌の研究を担当していたが、所長と揉め事を起こして居づらくなった。その情報を得た方城憲兵大佐が紹介し、この研究所に就職することになったのだ。
「これこれ、子供たち。亀をいじめてはいけないよ」
塚元は思わず有名なセリフを口にする。それほどまでに、この状況はあのおとぎ話に酷似していた。
しかし12人の少年は、体を丸め手で頭をかばう裸の男を取り巻いて殴り続ける。塚元の指示に従えと礼文に言われていないからだ。
「それは下請けくん? ダメじゃない!
礼文! 直ちにやめさせろ!」
次に降車した義光が叫ぶ。
「皆、殴るのをやめて離れろ」
「「「「「はい」」」」」
即座に命令に従った少年たちの間から、丸まった犬田が現れる。彼を義光は指さした。
「なぜ、こんなことをさせたんだ!」
少年たちの間に動揺が走る。[なぜ]と問うことは[真世界への道]の信者にとって強い禁忌とされているからだ。
しかし、義光はおかまいなしにまくしたてる。
「せっかく神代細胞が無害化されたのに、刺激を与えちゃダメだろう!
いきなり無害化したんだから、
またいきなり先祖返りする可能性だってある!
暴走しないか、勝手に感染しないかどうかみたいな、
必要最低限の検査はしなければならないけれど、
それ以上つっついてはダメ!」
「そのとおり。まったく論理的な指摘ですな」
地面に荷物を下ろした塚元は、雇用者の意見に同意してみせた。次に背広のポケットに入れていたガーゼマスクを渡し、装着するよう促す。自分も着けた。
「そもそも、無害化自体が確実とは言えない。
話によると、実験にかかわっていたのはそこの下請けさんと、
まともな教育を受けていない自称研究者さんしかいないそうですな。
まったく不十分だ。
経験を積んだ正規の学者が科学的な検証を行ったのちに初めて、
安全性を保障できるのです」
それが可能なのはこの塚元茂だけなのだと、彼は言外にアピールした。
「彼らが上げた報告書では
30グラム以上の細胞を投与されない限り感染しないとあったようですが、
本当かどうかはまだ証明されてはいない。
それに神代細胞というものが変異したのなら、
空気感染するようになったかもしれない。それも調べなければ」
「え? うつるの?」
義光は怯えた表情を浮かべた。
「今の時点では、まだわかりませんとしか申し上げられない。
とりあえず、一か月ほど調べさせてください」
「う、うん」
後ずさりしながら、義光は塚元に懇願する。
「先生、こうしている間も義知ちゃんは、
火傷の痛みで苦しんでいるんだ。
早く安全だと証明して、体を治してあげて!」
「私は安請け合いをしません。
しかし、誓います。全身全霊をもって研究にあたると」
「お願いだよ!」
小太りの体に似合わない速度で、義光は車に駆けこんだ。
「礼文! 門まで送れ。
それから、塚元先生には全面協力するように!」
「……はい」
やりたかったことを禁止されたうえに、気を使わなければならない客まで自分の領地に受け入れざるを得なくなった。礼文は意気消沈して操縦席に乗りこむ。
次回に続く