oo2- 黄泉への棺
道がずっと向こうまで続いている。
その先には空まで届いていそうな険しい山が、巨大な一枚岩の如くそびえ立っている。
まるで空から地平線にかけて壁紙を剥がしたかのようで、ずっと見ていると吸い込まれそうだ。
道の周りは延々と草が生い茂っていて、向こうの方まで霧に包まれている。
草むらには高い鉄塔が立っていた。
段々と意識がハッキリしてきた。ただ気分は最悪だ。
今どれくらい歩いたか分からないが景色は変わらない。
しかしこんな風景を見たのは生まれて初めてだ。
草が揺れて音がしている。サラサラとした耳に心地いい音だ。
草の囁きが弱まったとき、出処のわからないところからしゃがれた声がした。
とても悲痛だ、苦しみに満ちている。感情曲線なら最高値の悲痛度を示しただろう。
たとえようもない不吉な声だ。
もし、あるとするならば、赤子が絞め殺されるときに上げる不気味で気の滅入る声だ。
戦慄する全身から魂だけ心臓の奥底へ隠れたくなるような心底おぞましい声だ。
とにかく不吉だ、これから訪れるすべての静けさが突如としてひっくり返るかのような。
このあとの無音には耐え難い……。
それからまたどのくらい歩いたかわからない。
あいかわらず同じ景色が続いている。
ドサッっ……ズッ……
急になにかが上から落ちてきて、鈍い音がした。
全重力が自分の足元へと落ちくぼんでいく。
ザァァーーっと草が揺れる。
と、同時に全身の血の気が引く。
ゾワッと鳥肌が立つ。
おそらくこれが本当の死だ。
誰も感じたことのない、まだ生きているうちに味わう死への感触。
生々しい音、肌触り、匂い。
この異臭は脳髄にこびり付いて、きっとこれからもずっと嗅ぎわけて生きることになるのだろう。
そんな予感がした。この黒い物体についてはもう語らない。
先へ進んだ。ずーっと進んで、先は断崖だった。
ただ一本、古びた橋が架かっていた。進むしかない。
橋を踏んだ瞬間、これはきっと落ちると思った。
その通り、体重を前に移動したとき、橋の底が破れて重力から解放された。
落ちるのは心地がよかった。
このままどこまでも落ち続ければ気持ちがいいかもしれない。
――
目を覚ましたとき、妙に軽やかな気分になっていた。
落下中の浮遊感がまだ残っているのだろう。
起き上がって周りを見た。薄暗かったが、自分がガラクタに囲まれているのが分かった。
どこもかしこも雑多なガラクタであふれ、一帯が丘に見えた。
まるで子供部屋みたいだ。
秘密基地にも見える。天井には紐が張られてあるのか、服やらランプやらがたくさん掛けられている。
女の子と男の子がそれぞれ自分の好きなオモチャを好きなだけここに持ってきて気ままに遊び、そのまま子供だけどこかに行った跡みたいだ。
淹れたてのお茶が机に残されたまま、人だけいなくなったかのようにまだ息づいている。
不安定なガラクタの丘の上をよろよろ歩いて、壁までたどり着いた。
ここまで来て気づいたが、壁一面にカーテンが掛けられていた。
なにか出てきそうで嫌だったが、すぐ近くにドアがあったのでそこまで歩いた。
普通のドアだ。おそるおそる取っ手を回して引いた。
ギイっといやな音を立てた。中には人がいた。
目線が合った……。
等身大の鏡に写った自分だった。
急にぱっと人が現れたら、例えそれが自分でもびっくりするものだ。
――誰が作ったんだこんなの。
ドアは開けたままにして、壁を伝って向こう側を調べることにした。
たまに人形がガラクタの隙間から顔を出してこちらを見ているかのように思えて気味が悪かった。
反対側に来た。そこだけ暖簾が架かっていた。
今度は思い切って暖簾を払った。
通路だ。暗いが、行くしか無い。
今思ったが、現実にいたときより妙に冷静だな、なんだか自分じゃないみたいだ。
こんなにもスタスタ進めるとは。
――
通路は暗かった。ひんやりとしていた。
地下牢獄ってこんな感じなんだろうな。
なんかポタって音がするし、これは嫌になる。
ただ、これまで体験したことのないスリルな探検をしているようで、新雪郷にいたころよりはずっとましだ。
まあ、今のところそんな大したこともないからイっっ……たっ。
頭をぶつけた。
壁か? 暗くて見えない。
明かりがあればよかったが――ガラクタ部屋のランプでも持ってくればよかった。
手探りでなんか触っていると、ボタンみたいなのがあったので押してみた。
ガタっと音がして、目の前の壁が横にスライドした。
エレベーターだ。
中は狭く、通路よりは明るかった。公衆電話が設置されてあった。
カナカナカナカナカナカナ………カナカナカナカナ………。
悲しげな音でベルが鳴った。
カナカナカナ…カナ……、カナッ…カナッ…カナッ…?
巻いていたネジが終わりに近づき、どんどん動きがぎこちなくなっていく人形みたいに悲痛な音になる。
ジィー…ジィー…ジィー………
悲しげな音は完全に途絶え、一定のリズムで奇怪音が鳴り続ける。
ジィー…ジィー…ジィ…リンッ!!
突然音が大きくなった。
そのとき、ふっと風が吹いて、懐かしい匂いがした。
――
ジリリリリーン……ジリリリリーン……
受話器を取った。
「はい、もしもし」
「あっ、こんにちは。〇〇さんですか?」
「はい、そうですが」
「あ、あの、私✕✕です」
「は、はい。えっと――何でしょう?」
「えっ、あの、覚えてませんか?」
「えっ?」
受話器を戻した。
ジリリリリーン……ジリリリリーン……
ジリリリリーン……ジリリリリーン……
俺は知らないぞ、✕✕なんて。
なんで俺の名前知ってるんだ。
ジリリリリーン……
しつこく鳴るのでいやいやながら受話器を取った。
「はい、もしもし、何でしょう」
「ああ、エルガー、すいぶん遅いな」
「は?」
「電話出てるなら早く上がってきなさい」
「あの、どなたですか?」
「今、こっちに来るようにしたから。じゃあ」
「あのっ」
電話は切れた。
なんなんだ一体。
突然エレベーターが揺れた。
うわっ。
後ろの扉が閉まり、エレベーターは上昇し始めた。
どれくらい昇ったか不明だったが、上昇速度が遅くなり始めた。
この変なとこに来てから時間の感覚が狂っているように感じた。
ガコンッ。
止まった。扉が向こう側に倒れて光が差し込んだ。
この明るさはずいぶん久しぶりな気がするな。
庭だ。広い。ずっと向こうまで続いている。
草の上に足を踏み入れた。空から花びらが落ちてくる。
向こうじゃ雪が降ってたが、ここじゃ花びらが降ってくるらしい。
枯れ葉のようにひらひらと落ちてきては辺りを埋めていく。
これが雲のない世界?
「やあ、遅かったね」
黒い燕尾服の男が寄ってきた。山高帽を被っていて、鼻がない。
目と口だけ残して他は粘土で肉付けしただけのような、誰でも似顔絵を描けそうなくらい単純な顔をしている。
そして浮かんでいる。
「君はあっちでは平凡だったって?」
なんだこいつ。
「とりあえずこれから仕事だ、エルガー」
そう言ってこの紳士はエレベーターのところまで行き、こっちに来いと合図した。
なんだろう? てか、ここどこだ? あいつなんだ?
「まあ、とりあえずだな」
紳士はエレベーターの中に入り、電話ボックスの下の引き出しからボトルを取り出した。
「ふーん、これだこれだ」
ぽんっと蓋をとってボトルのままそれを飲みだした。
「あー、美味い!いいねえ、やっぱこれがないとね。よし! 行くぞ。仕事だ、仕事!」
ふらふらと浮遊して歩き出した。
「お前の仕事ってのは端的に言ってゲームだ」
ボトルを片手にタバコを吸いながら説明しだした。
「そんないい仕事はないだろ? 遊んでるだけで誰かの役に立つんだぜ? 立派な仕事だろ?」
「はあ。で、今どこに向かってるんですか?」
「お前の仕事場だ、エルガー。そろそろだ」
まったく仕事の概要がつかめなかったが、まあいい。
そう難しいことはないだろう。
仕事なんざやったことないけどな。
「着いたぞ。エルガー」
木が一本立っていた。その先は崖だった。
滝がずっと下の方まで落ちていた。他にはとくになにもない。
「ここですか?」
「ああそうだ。あと言っておかなきゃならないことがいくつかある。まず、お前が歩む人生だからどんな選択をするかはお前の好きにしたらいい。困ったことがあったら《電霊ボックス》を使え。ここに伝言を送れる。あとはそうだな――まあ楽しめ。お前は運がいい」
自分の体が宙に投げ出され、暗黒の淵へと傾いた。
え? おい、ちょ……。
またこの浮遊感だ。
これはすごく気分はいいんだがな。
どうしてこう急なんだ……。