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ネノシマ04―狐のこと―  作者: 白河 夜舫
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第十二章【解放】狐子

◆第十二章【解放】狐子


 尾裂が目覚めたという連絡に、狐子は驚くほど緊張した。

ほどなく、理玄と朔馬は稲荷社にやってきた。


「離せ! 離せぇ!」

 尾裂は朔馬に噛みつかんばかりに暴れていた。尾裂は昼間と同様に、柴犬ほどの大きさの白いキツネの姿をしている。朔馬は微動だにせず、尾裂を脇に抱えたままである。

 朔馬の腕で暴れる尾裂を、どんな気持ちで見つめていいのかわからなかった。

 尾裂の目が狐子の姿を捕らえると、白い獣は懇願するような目を向けた。

「狐子ぉ、私はうまくやったじゃろ? よくやったじゃろ? もう解放してくれ」

 尾裂は心の底から助けを乞うようにいった。解放してくれと、そういった。

「尾裂の声、聞こえる?」

 朔馬は狐子にいった。狐子は「はい」と短く答えた。

「私は、何度も狐子の役に立ったじゃろ? 狐子を傷つける者は、みな痛い目に合わせてやったろ?」

 尾裂は泣きそうな声でいった。

 畏れていたものが、こんなに小さく、そして弱々しく思えるのは不思議だった。

「でも、ここにいる人たちは、私を傷つけなかった」

 狐子は意図せず、尾裂を責める言葉を吐いた。

「こいつらは、狐子の心を揺らしたじゃろ? 平穏に暮らしたいと思っている狐子を惑わすからじゃ!」

「昼間もいったけど、尾裂は今、いつもより凶暴になってるんだ」

 朔馬はいった。

 その後で理玄は、狐子に「今からいう名に、聞き覚えはあるか?」と四人の名をあげた。

「狐子と同じ大学らしいんだが、おそらく尾裂の影響を受けてる」

 理玄は影響といったが、四人はケガをしたのだろう。

 一人の名には聞き覚えがあった。授業の手伝いをしているうちに、顔見知りになった学生である。数日前、大学の構内ですれ違ったことも、声を掛けてくれたことも覚えている。

 前期試験が終わったので、これから打ち上げなのだといっていた。その場に何人いたかは分からないが、理玄の口ぶりからすると四人なのだろう。

「一人は知り合いです」

 狐子は正直に答えた。

 どれほど尾裂が弱々しく思えても、狐子を悩ませるすべての元凶なのは明白だった。

「もう嫌じゃあ! 解放してくれぇ! 狐子、お願いじゃぁ!」

 尾裂は再び叫んだ。

 狐子がなにもいえないでいると、尾裂はふと「母親を殺せなかったことを恨んでおるのか?」といった。

 その場にいた全員が、息を飲む気配が感じられた。

「狐子に折檻する、ひどい女じゃったな。よほど殺してやりたかった! しかしそれはできなかった。それを、恨んでおるのか?」

身体がかっと熱くなるのが感じられた。

 母親に暴力を振るわれていたことを、ずっと気にしていたわけではない。しかし他者にそれを知られたことが、想像以上に恥ずかしかった。今まで以上に自分が醜い存在に思えた。

「契約は、解除するってことでいいんだよな?」

 尾裂との会話が耳に入っていなかったように、朔馬は飄々とした口調でいった。

 狐子は、朔馬の問いにうなずいた。

「お前が解放されるには、どんな条件が必要なんだ?」

 朔馬は尾裂に問うた。

「互いの合意が必要なだけじゃ! お願いじゃ、狐子ぉ。もう私を解放してくれ。私がみえるんじゃろ?」

 解放されたがっていたのは、自分よりも尾裂の方だったのかも知れないと思うほど切実な叫びだった。

「契約を解除したら、どうなるんですか?」

「互いの合意が必要なだけなら、なにも起こらない。ここで嘘をつくほど、尾裂は器用ではないと思う。でもお前、人に憑かなくても生きていけるのか?」

「うるさい、うるさい! 人に憑かなくても、もう充分に生きていける!」

 わさわさと暴れる尾裂を脇に抱えたまま、朔馬は「そういえば、どうだった?」と波浪を見た。

「やることはやったけど、普通の神社とは違う気がする。それがなんなのかは、うまくいえないんだけど」

「今、契約解除はしない方がいいかもしれないな」

 朔馬はぽつりといった。

 理玄は「なんで?」と朔馬に聞いたが、それをかき消すように尾裂が「嫌じゃぁあ!」と叫んだ。

「嫌じゃあ! 解放してくれ! なぁ、お願いじゃ」

 尾裂の目には涙が浮かんでいるようだった。

 尾裂と目が合うと、狐子は反射的にうなずいた。

 尾裂は安堵したようで、絶望したような、そんな表情のまま、つぅと涙を流した。

 金属がこすれるような音がすると、尾裂はするりと朔馬の手から逃れた。

 朔馬から逃れてしまうと、尾裂はみるみるうちに大きくなった。そして尾裂はまっすぐに狐子に襲いかかってきた。

 狐子の意識が途切れる直前、朔馬が素早く尾裂を制圧するのが見えた。

 その場面は、胸を締め付けられるほどには辛いものだった。


◆◇◆


 この世界には、色んな生き物がいる。

 それでもずっと、ひとりだった。

 ずいぶん永くひとりでいる気がして、もうこのまま消えていくのだと思っていた。

「君は、普通のキツネではないね?」

 あたたかい人間の手が、尾裂を包んだ。

 両手で救い上げられた自分の命は、もうこの男のものだと思った。

 尾裂は自ら契約を持ちかけた。自分が人間に憑けば、その者はお金に困らないことは知っていた。

 なにより、側にいることを許してほしかった。そのためだけの契約だった。

「それもいいかも知れません。あなたは、私の側にいてください」

 その日から尾裂は、男の側を離れなかった。

 男は見鬼であったが、それを理解する者は周囲にはいなかった。

 そのせいか、男は人間と関わることはあまりなかった。男は人々に畏れられたり、笑われたりして生きていた。

 尾裂はその度に、その者らを呪っていった。

 男に近づくと、ケガや病に襲われるとの噂が立ち、男はさらに一人になった。

 しかし人間とは不思議なもので、ある程度お金があれば、ある程度は幸せになれるようだった。

 男は憑き物筋の家系から、嫁をもらうことになった。

 しかし男の嫁は、尾裂を見ることはできなかった。

 嫁をもらっても、男は一人で過ごしていた。尾裂とはずっと一緒だった。

 子どもができても、男は一人で過ごしていた。尾裂とはずっと一緒だった。

 孫ができても、男は一人で過ごしていた。尾裂とはずっと一緒だった。

 しかし最期の時、男は一人ではなかった。

「私に家族ができたのは尾裂、君のおかげだ。どうかこの先も末永く、僕の家族をよろしく頼む。君が憑いた者が死ぬ時に、一番若い血縁者に憑いてやってくれ」

 尾裂は力強くうなずいた。

 こうして男との契約は更新された。

 男は大勢の者に囲まれて、息をひきとった。

 男はずっと一人で過ごしていたが、自ら人と関わることを避けるようになったことに、尾裂は気付いていた。

 しかし尾裂は、誰かと寄り添えることがうれしかった。居場所を与えてもらえたことがうれしかった。

 尾裂は男との約束を守り続けた。しかし狐子の何代か前から、男の家系には見鬼が生まれなくなった。それでも尾裂は寄り添い続けた。

 だからずっと、さみしかった。

 居場所を与えてもらう前よりも、ずっとさみしかった。

――もう嫌じゃあ! 解放してくれぇ!


◆◇◆


 目を覚ました時、自分がどこにいるのかわからなかった。

 狐子の意志とは無関係に、暗闇の中を進んでいる。このまま地獄へ向かっているといわれても、おそらく驚かないだろう。


「お、起きた? 色々大丈夫か?」

 理玄の声だった。

 自分は今、理玄の運転する助手席に乗っているらしかった。

 しかしこの車がどこを走っているのかは、わからなかった。

「大丈夫、です」

 狐子はそういって姿勢を正した。

「今、二人を送ってる途中だよ」

 後部座席には、朔馬と波浪が眠っていた。

 狐子の部屋に勝手に入るのは気が引けたので、二人の送迎に付き合わせることにしたのだと理玄はいった。

「体調どうだよ? 勝手に付き合わせて悪かったな」

「いえ。目覚めた時に一人だったら、すごく心細かったと思うので、ありがとうございます」

「そういってくれると助かるよ。ケガはしてない?」

「今のところ、どこも痛くないです。あの、尾裂は?」

「詳しくは知らないけど、たぶん朔馬が持ってる。契約はちゃんと解除されたらしい」

「そうなんですね」

 狐子は脱力した。

 長年の憂いが晴れた感覚は不思議となかった。虚しさのようなものが胸を支配している。

「さっきまで、尾裂の夢をみてたんです」

 狐子は先ほど見た夢の話をした。

 理玄にとって興味のある話だとは思えなかったが、彼は黙って話をきいていた。


 男と尾裂はさみしくて、ただそれだけで契約をした。

 しかしそれが埋まったかといえば疑問である。尾裂も、自分の役目を果たしながら、長くさみしい思いをしていたのだろう。

 それを理解した上でも、尾裂に同情する気にはなれなかった。今まで狐子も充分に苦しめられてきたからだった。

「私にとっても、尾裂にとっても、呪いみたいな契約でした」

 理玄は一瞬だけこちらをみて「えっと、なんだったかな」と口を開いた。

「呪いってのは、その時の想いが更新されないまま残ってるだけだって、そんなこと朔馬がいってた」

「それは、そうなのかも知れません」

 尾裂は男の前では、ひどく穏やかな表情をしていた。それはもうずっと昔に失われた、満たされた日々だった。


 車内は静かで、まるで深海を走っているようだった。後部座席で眠る二人の帰るべき家がどこなのか、狐子は知らない。今は少しでも長く、この車内にいたかった。このまま目的地につかなければいいと心から思った。

 一人になりたくないと、そう思う。

 しかし同時に、誰かに寄り添ってしまったら、もう二度と一人で立てなくなりそうで怖かった。

 人に近づけることを、初めて怖いと思えた。

 一人だった自分のかたわらには、きっといつも尾裂がいた。これからは本当に一人で生きていくのだなと、窓に映る自分の姿をみて思う。今後は、特定の誰かを恨んだりすることもあるかもしれない。

「ありがたいと思ったことなんて一度もないんですけど、私は護られていたんですね」

 理玄は「そうかもな」とだけいった。

 尾裂に感謝はできずとも、恨むこともできそうになかった。

 一人とひとりでいても、一緒にいることはできなかった。

 それを今、かなしく思う。

 願わくば、もう二度とあんな顔で泣くことがなければいい。








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