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カンナ

作者: 渋谷楽


 ギターの難関コードと言われるFコードを左手で抑えると、僕は首を伝う汗を肩で拭ってギラついた夜に歌で立ち向かう。

 今日の路上ライブの人入りはまばらで、夢を追いかけている少年を物珍し気に一瞥していくカップルと、仕事終わりのサラリーマンがたまに立ち止まるくらいだ。

 サビの部分は、まるで世界中に響かせるようにゆっくりと、それでいて激しく。自分に欠けている低音の伸びを打ち消すように、心地よく叫ぶように。

 最後のワンフレーズを歌いきると同時にまばらな拍手が起こった。


「お兄ちゃん、良かったよ」


 目の奥が死んでいる中年のサラリーマンが僕に語りかける。


「あ、ありがとうございます」

「それ、俺が好きなバンドの昔の曲だ。よく知ってるね」

「は、はい! 昔、子供の頃に親によく聞かされてて、それからずっと好きで」

「ふーん」


 その人は僕の自作の看板に視線を移す。そこには拙い文字で『プロ目指してます。良ければ聞いてくださると嬉しいです。高槻正人』と書かれている。


「正人君、プロ目指してるんだね。凄いじゃん」

「そ、そうなんです! 僕が子供の頃に貰った感動を多くの人にあげたいと思って! プロになるために最近始めました。路上ライブ」


 僕が何とか噛まずにそう言うと、その人は目をグッと見開き、次に哀れむような視線を向けてくる。


「何と言うか、青春だね。俺にもそんな時期があったよ」


 青春、と言われても僕にはそれがどういうものかよくわからない。


「正人君、今何歳?」

「あっ、えっと、十六歳です。高校二年生で」

「そっか、色々大変でしょ。これ、少ないと思うけど」


 そう言って差し出された五千円札を見ると、僕はその紙に脅迫されたかのような恐怖を覚えて首を激しく横に振る。


「あのっ! そういうのはやってないんです。ごめんなさい」

「え?」


 すると一転、その人は蔑むような視線を向けてくる。


「こういうのは遠慮せず受け取っとくもんだよ? 少年」

「本当にごめんなさい! お気持ちだけで」

 

 そう言って頭を下げると、凍えるように深いため息が聞こえてくる。


「チッ。何だよ。恥かかせんなよ」


 神経質な足音が離れていくのを確認すると、顔を上げるのと同時にため息をつく。


「本当に、そんなつもりじゃないんだけどな」

「じゃあ、どういうつもりなんだ?」


 ちょっと低い、大人っぽい女の人の声が左側の至近距離から聞こえてきて、僕は思わず仰け反るように距離を取る。

 声の正体は僕より少し背の高い女の人だ。その人は灰色のフードを何故か目元が見えないように深く被り、心配になるくらい細い脚をボロボロのジーンズで覆っている。


「あの人は君の歌に感動して、賞賛を形にして寄越してきたんだ。それを受け取らないのは失礼じゃないか?」

「……確かに、その通りだと思います。失礼なことだとも理解してます。けど僕は、お金よりも感情が欲しいんです」

「感情?」


 僕は深く息を吸うと、喉に少し力を込めた。


「僕の歌を聞いて、感動したとか、勇気を貰えたとか、悲しい曲なら辛くなったとか、悲しくなったとかでも良いんです。そういう言葉が僕は欲しくて」


 僕がそう言うと、その人は驚いたような雰囲気の後柔らかく笑った。


「変なの」


 きっとそう言われると思ってたから、僕は予定通り愛想笑いが出来た。


「そうですよね。すみません」

「でも、カッコいいと思う」

「え?」


 その人はすれ違いざまに僕の肩に手を置く。


「全部ひっくるめて、感動したよ。ありがとう」


 そしてそう言って夜の街に向けて歩いていってしまう。

 このまま声をかけなければそのまま消えていってしまいそうな、儚くて小さい背中。


「あ、あのっ!」


 思わず声をかけると、その人は立ち止まって少しだけ振り返る。


「また、聞きにきてください」


 ちょっと傲慢すぎたかなと思っていると、その人は闇の中で小さく笑った気がした。


「また来るよ!」

「はい!」


 その人の背中を見送りながら寒風に吹かれて身震いする。名前を聞くのを忘れていたことを後悔したが、初めて『感動した』と言われたことに感激し、ギターを抱き締めながら喜びに浸る。


「明日も頑張ろう」


 希望を胸に後片付けを始めた、そのとき。


「おい、あれって高槻じゃね?」


 聞き覚えのある不快な声が響く。彼らは瞬く間に僕を取り囲むと、僕の看板を見てケタケタと笑う。


「えー? あのチビが路上ライブ?」

「プロ目指してるって書いてるんだけど! ヤバ!」

「あ、あの、それ」


 あまり触らないで。そう言う前にその中の一人がニタニタと気味の悪い笑みを浮かべながら僕に近づいてくる。


「ねえ、ちょっと向こうで話聞かせてよ」

「あっ、えっと」

「何? 嫌なら嫌って言えよ」


 馴れ馴れしく肩に回されたその手に殴られてしまうのではないかという恐怖に支配され、僕は何も言えなくなってしまう。


「じゃあ良いってことで。おーい皆、ちょっと遊ぼうぜ!」


 それは、秋に呑み込まれる前の最後の夏の日の出来事。

 僕は人生の中でかけがえのない感情を味わい、そして、

 歌うことが、どうしようもなく怖くなった。


   ◇   ◇   ◇


「はぁ、はぁ、もう、最悪!」


 あれから約二か月が経ち、僕はマフラーに口を埋めて学校の前の坂道を自転車で駆け上がっていた。

 今年も僕の好きな紅葉はあっと言う間に終わって、もう秋らしいものと言えば僕を見下ろすこの枯れ木たちくらいだ。

 でも今は感傷に浸っている時間は無い。

 僕は軽音部の部室に『重大な忘れ物』をしてしまったのだから。


「玄関、まだ開いてる。良かったぁ」


 ため息と同時に出た白い息を咄嗟に抑える。もし今教師に見つかってしまえばキツい説教をくらった後にすぐ帰らされてしまうだろう。そうなれば部室に残された僕の忘れ物を明日誰かが見てしまうかもしれない。

 もしそうなってしまったなら、いっそ死んでしまった方がマシだろう。

 そんなことを考えながら忍び足で階段を駆け上がっていき、とうとう部室のドアに手をかける。


「良かったぁ……えっ」


 それから安堵と共にドアを開けると、僕は思わずその場で立ち竦んでしまった。

 何故ならそこには、まるで他人事のように窓から外の世界をじっと見下ろす、見慣れない制服を着た長い黒髪の少女が立っていたのだから。


「あの、どちら様ですか?」


 少女は弾かれたように振り返る。その大きくて少し吊り上がった目に吸い込まれそうになる。


「あの、軽音部に何か用なら、顧問の竹下先生に言ってほしいんですけど」

「もしかして君、これを取りに来たのかい?」

「えっ?」


 少女はそう言い、スカートのポケットから一枚の紙を取り出す。


「あ、ああっ!」


 得体の知れない少女が持っているその紙は、何を隠そう僕が部室に戻ってきた理由そのものだ。

 少女は、僕が生まれて初めて書いた『歌詞』で顔を扇ぎながらニヤリと笑った。


「なるほどねぇ」

「返してください! それ、僕のなんです!」

「おっと危ない」


 歌詞を取り戻さんと手を伸ばすが、何故か少女は僕より少し背が高いことを利用し、歌詞を掲げて僕から守る。


「何で返してくれないんですか!」

「うーん? 何でだろうなあ?」


 ニヤニヤと笑いながら僕を見下ろす。秩序だったダンスのように僕たちは一定の距離を保つ。


「それ、大切なものなんです!」

「そうか。なら、私にとってもそうだ」

「意味わかりません!」


 らちの明かないこのやり取りに疲れ、膝に手を置いて恨みを込めて少女を見上げる。


「あなた、一体誰なんですか!」


 僕がそう言った次の瞬間、少女は歌詞を持った手を降ろす。そしてそのまま俯きがちに呟いた。


「あの路上ライブ、感動したよ。本当に」

「えっ」


 忘れもしない。あの夏の最後の日、僕を励ましてくれた女の人がいたことを。


『全部ひっくるめて、感動したよ。ありがとう』


 どこか寂しそうに去っていくその人の後ろ姿が、今も脳裏に鮮明に焼き付いている。

 でも、あの人はこんなにハツラツとした雰囲気の人だっただろうか?

 僕がそんなことを考えていると、少女は窓枠に腰かけて足を組み、僕を見下ろす。


「私の名前はカンナ。あてもなく歩いていたら偶然この学校に迷い込んでしまってな。暇潰しにこの面白い歌を読んでいたところだ。君は?」


 偶然迷い込む? 他校の生徒がこの教室に? 聞けば聞くほど謎は深まるばかりだが、今はその『面白い歌』を取り返すのが先だ。


「僕のことよりまず、それ返してください。僕が書いたんです」

「なんとそうだったのか。これはすまない、と言いたいところだが、君の名前を教えてくれたら返してあげよう」


 一体何なんだよ! そう叫びたくなる気持ちをグッとこらえる。


「高槻正人、です」


 不満を隠さずにそう言うと、カンナさんの表情がパッと明るくなる。


「正人君、正人君か! 覚えたぞ。ああ、覚えたとも」


 それは僕も同じですよ。もしそう言うと無駄に喜ばせそうだから何も言わずに歌詞を受け取る。


「じゃあ、僕は帰るので」

「待って!」


 縋るような声に呼び止められ、足を止めて振り返る。


「何ですか? これはあげませんからね」

「もちろん。ただ」


 カンナさんは僕の右手に握られている歌詞をじっと見つめる。


「君のその歌、今ここで歌ってほしいんだ」


 一瞬、何を言われたのか理解出来ず固まる。


「は?」

「だから、今ここでその歌を歌ってみてほしいんだ」


 それは、出来ない。


「でも、一番しか出来てないので」

「メロディーみたいなものはついてるんだろう?」

「まあ、ついてますけど」

「なら、一番だけでも良いから聞かせてくれないか」

「っ! いや、えっと」


 あの夜を経験して僕は、全くと言って良いほど人前で歌えなくなってしまった。

 家や人の見ていないところでは問題なく歌えるのに、僕に向けられる視線と目が合う度に喉が締め付けられるように苦しくなってしまう。


「ごめんなさい。無理です」

「どうしてもか」

「どうしても、です。すみません」

「そうか……」


 カンナさんは窓枠から降りると、また窓の外の景色を見下ろす。


「私な、君の歌が好きなんだ」


 カンナさんのその声には、さっきまでと違って確固たる意志が込められているように感じた。


「君の声が、好きなんだ。可愛い見た目をしているのに、歌声は力強いんだな。驚いた。その声で、青春だとか、夢だとか語られてしまうと、私の悩みが無理やり剥がされて、ゴミ箱に捨てられてしまうようだったよ」


 言葉を紡ぐカンナさんのその背中は、あの夜見たものとどこか似ていた。

 声をかけて呼び止めなければそのまま消えてしまいそうに儚い、小さい後ろ姿。


「可愛いって言われるの、苦手なんですよね」

「それは悪かった。でも、そういう男の子が好きな子も、きっといるぞ」

「それ、若干追い打ちですよ」


 僕はそう言い、部室に備え付けのアコギを手に取って椅子に座る。


「歌うのか⁉」

「いや、あの、努力するだけ、です」

「それでも良い! 楽しみだ」


 カンナさんは椅子を持ってきて僕の正面に座る。

 僕は一番上の六弦から順にE、A、D……とチューニングをしていく。僕を見つめるカンナさんの期待のこもった視線が、やっぱり苦しい。


「じゃあ、歌います」

「うむ!」


 お腹にためるイメージで息を吸い、ギターピックを持った右手を振り上げる。

 しかし、そのまま右手を降ろせずに固まってしまった。


「正人君?」


 僕を見つめるカンナさんと目が合う。その瞬間、奴らに投げかけられた暴言が頭の中を駆け巡る。


「う、歌います」


 この人に限ってそんなことを言うわけがない。わかっているのに、まるで大きな重い物で抑えつけられているかのように身体が動かない。


「正人君!」


 ハッ、として顔を上げると、心配そうな表情のカンナさんと目が合う。


「何か、あったのか?」


 結局、隠し通すことなど絶対に出来ないのだろう。


「実は僕、歌うことが怖くなってしまって」

「えっ⁉ 何でだ⁉」

「それは……」


 あの夜、カンナさんと別れた後目を付けられているクラスメイトに見つかり、心無い言葉を浴びせられたこと。その日から人前で歌うことが怖くなってしまったこと。思い出すことで辛さも蘇ってきたが、僕はそれでも一生懸命に話した。


「僕は夢を諦めないって主張するために歌を書き始めたんですけど、それも上手くいかなくて。ほんと情けないですよね」

「いいや、そんなことない。君は立派だ。しかしそうか、君の夢を馬鹿にする人がいるのか」


 カンナさんはおでこに手を当てて項垂れる。


「なるべく苦しめて殺したいな。そう思わないか?」

「お、思わないですよそんな物騒なこと!」

「そうか、君は優しいんだな」


 カンナさんは自分を納得させるように何度か頷き、僕に向かって手を伸ばす。


「それ、貸してくれないか」

「え、はい」


 カンナさんはギターを受け取ると、不器用に弦を弾き始める。


「実は私、もうすぐここからいなくなるんだ」

「えっ?」


 恐らく僕の真似なのだろう、カンナさんはFコードを弾くが何とも言えない音が響く。


「引っ越すんですか?」

「まあ、そんなところだ」

「どこに?」

「ずっと、ずっと遠くだ」

「いつ?」

「延ばせてあと一週間だろうな」


 静まり返った部室に不協和音が響く。僕の頭の中は意味の無い計算とカンナさんのことでいっぱいだ。


「最後に、君の歌を聞きたかった」

「……」


 あのとき僕に希望を与えてくれたカンナさんがもうすぐいなくなってしまう。しかし無力感に飼いならされた僕は、何も言えず俯いてしまう。


「正人君」


 ふと名前を呼ばれて顔を上げると、何故かカンナさんの顔が目の前にあった。


「へ?」


 そしてそのまま、その綺麗な顔を僕に近づける。唇に柔らかいものがくっつくと息が上手く出来なくなって、息を吸おうとすると意図せずその柔らかいものを引き寄せてしまう。

 カンナさんは顔を離すと両手で僕の顔を包み込み、どこか寂しそうに笑った。


「ファーストキス」

「え?」

「だから、君は自分の歌を書いて、そして私に歌うんだ。わかるな?」


 わからない、と言ったら、僕はどうなってしまうのだろうか。


「じゃあ、また明日」


 カンナさんは立ち上がると、手を後ろに組んで僕の顔を覗き込むように小首を傾げる。


「期待してるよ」


 カンナさんのその一言とどこか寂しそうな表情だけが僕の頭の中に残った。

 それからのことはよく覚えていない。

 気が付けばカンナさんは僕の目の前から姿を消していたし、すっかり日は落ちて部室には夜の世界が訪れていた。きっと突然のことに脳の処理が追いつかなかったのだろう。

 辛うじて家に帰った僕だが、いつまで経ってもさっきのことが忘れられず、ご飯も喉を通らなかった。そんな僕を心配する親と妹をよそ目に、僕は部屋に引きこもって相棒のアコギを抱えた。


『最後に、君の歌を聞きたかった』


 快活で偉そうなカンナさんにあんな表情は似合わない。

 でも、そんな表情をさせたのは誰だ?

 そして、そんなカンナさんにあんなことをさせたのはどこの腑抜けだ?


「一週間、間に合うかな」


 書きかけの歌詞と睨めっこしながら、僕は絶望的な状況を前にして挑戦的に笑った。

 何にせよ僕はもう一度ペンを取り、久しぶりにギターの弦の感触を思い出した。

 そしてその夜、僕は大幅に歌詞を書き直し、初めて『あなた』という代名詞を使ったのだった。




「やあ、来たか」


 夕日が差す部室で、カンナさんは口角を少し吊り上げて挑戦的に微笑む。


「あっ、えっ?」


 まさか本当にいるとは。というのが率直な感想だ。

 カンナさんはそんな僕を横目に椅子から立ち上がると、まるでドラマの探偵のように手を後ろに組み、ふらふらと歩き出す。


「ずっと君のことを待っていたよ。このギターに君を重ねて話し相手になってもらったり、この夕日を見ながら、昨日のことを思い出したり」


 それから伺うような上目遣いで見られると、僕の頭は簡単にオーバーヒートする。


「な、何でっ……!」

「何でというのは無しだ。わかるだろ?」


 カンナさんは僕に人差し指を向け、くるくると小さく回して僕をからかう。

 この人の言っていること、やっていることはずっと滅茶苦茶だ。でも、何も言い返せないのもまた事実で、無力な僕は家から持ってきたアコギを床に降ろす。


「はあ、全く」

「私は昨日から君のそんな表情しか見ていない」

「そりゃ、そうですよ」

「え?」


 そうやって無邪気に首を傾げられると文句を言う気も失せてしまう。


「とりあえず、始めますか」

「うむ! 始めよう!」


 カンナさんは元気に返事をすると目にも止まらぬ速さで机と机を向かい合わせ、素早く椅子に座ると机をバシバシと叩いた。


「さあ! 早く!」


 カンナさんの期待に輝くその表情を見ると、自分でも驚くくらい自然に笑えた。


「何で笑ってるんだ?」

「何でもないです。わかるでしょ?」

「何だよ! わからないぞ!」


 頬を膨らませるカンナさんを横目に、僕はポケットから書きかけの歌詞を出してアコギを抱える。


「歌詞、一応少しだけ書いてきたんですよ」

「え、本当か⁉ 見せてもらって良いか⁉」


 はい、と返事をする前にカンナさんは歌詞を半ば奪い取る。

 カンナさんは何か感想を言うでもなく、僕の歌詞を無言でじっと見ている。


「書き直したんだな」

「はい、こっちの方がしっくりきて」

「ちょっと思ったんだが」

「はい?」


 カンナさんは僕に歌詞を見せると、その中の一部分を指さす。


「この、あなたというのは、一体誰のことを指しているんだ?」

「えっ」


 しまった。


「あの、えっと、小学生の頃の初恋の人のことです」


 嘘だ。小学生の頃そんな人はいなかったし、まだ初恋すら経験したことがない。

 カンナさんは僕の目をじっと見つめる。僕はその視線から咄嗟に目を逸らす。

 ヤバい。流石にバレたか?


「正人君」

「はい?」


 カンナさんは歌詞を机にそっと置くと、両手で机を押すようにして立ち上がる。


「それ、凄く良いじゃないか!」


 はぁ~っ! 鈍くて助かったぁ。


「小学生の、初恋……! 甘酸っぱいな! 想像するだけでこう、胸の辺りがキュッと締め付けられて、思い出したいような、思い出したくないような気分だ」

「そ、そんなもんですかね」

「そういうのをいちいち覚えていられるのも、作詞の才能の一つなのだろうか」

「えっ? いやぁ、それほどでも」


 咄嗟についた嘘でも褒められるのは満更でもなく、テンプレのように照れてしまう。

 すると、カンナさんは何かを思い出すように顎に手を当てた。


「カンナさん?」


 カンナさんは僕の方をチラッと見ると、何か言いたげに口を開き、閉じたと思ったらまた恐る恐る口を開いた。


「昨日のキス、存外気持ち良かった」

「ブッ!」


 突然ボディーブローのような衝撃をくらい、思わず咳き込む。


「だ、大丈夫か⁉」

「きゅ、急にそんなこと言うから」


 カンナさんは僕の背中を擦りながら、何故か不貞腐れたように口を尖らせる。


「だって、昨日の君のキス、意外に上手だったから、もしかしたら初めてじゃないのかなと思って」


 そう言って僕に不安そうな目を向けてくるカンナさんを見て、僕は思わず吹き出す。


「な、何がおかしいんだ!」

「だって、経験あるわけないじゃないですか。カンナさんて、意外と臆病なところあるんですね」

「……ふふ、そこまで言うか?」


 僕につられたのか、カンナさんもくすぐったそうに笑いだす。


「でも、良かった。君が笑ってくれて」

「え?」

「だって、ずっと難しい顔してただろ? だから、嬉しい」


 そう言われると途端に恥ずかしくなって、僕はカンナさんから目を逸らして咳払いをする。


「だ、脱線ですよ。再開しましょう」

「うん、そうだな」


 カンナさんは席に戻らず僕の机の傍にしゃがむと、書きかけの歌詞を指さす。


「ということは、歌のテーマは初恋か?」

「いえ、テーマは……」


 言われてみれば、テーマというのを深く考えたことがなかった。復讐心や反骨心だけで書き始めたが、じゃあそれらの気持ちはどこから来たのだろう。


「自分の大切なものを大切にしながら生きていく、っていうことかな」


 ん? あれ?


「なるほど。だから君の思い出が入ってるのか」


 もしかして、声に出てた?


「それにしても、やっぱり強いな。君は」

「あっ、えっと」


 しかし、カンナさんは狼狽える僕など眼中にないといった様子で、顎に手を当てて何度も頷いている。


「すみません、ダサいですよね。あはは」

「そんなことないっ! カッコいいぞ!」

「そうですかね」


 愛想笑いを浮かべていると、カンナさんは僕に鋭い目を向けてくる。


「お世辞だと思ってるだろ」

「え?」

「君は、自分に一生懸命で、自分に対して素直で、そういうところがカッコいいんだ」

「や、やめてくださいよ。恥ずかしいです」


 しかし、カンナさんは机に寄りかかったまま依然として僕を見上げている。


「私は、君のそういうところに憧れたんだがな」


 それから、カンナさんは何故か悪戯っぽくにやける。


「どうやら私は君に信用してもらう必要があるらしい」

「はい?」


 カンナさんは立ち上がると窓の傍まで歩いていく。


「安心してくれ。後悔はさせない」

「な、何をする気ですか」


 僕がそう聞くと、カンナさんは人差し指を勢い良く窓の外に向けた。


「まず正人号の発進だ!」


 未だ状況が呑み込めない僕を見て、カンナさんは何故か得意げに笑っていたのだった。




 自転車の後ろに慣れない重さを感じながら、僕は緩やか坂を一生懸命に登っていく。


「何で、こうなるん、だぁ」

「もう少しだぞー! 頑張れー!」


 無責任な応援を背に坂を登りきると、僕は足を止めて下り坂に身を任せる。


「それにしても、何で僕の小学校に行く必要が?」


 カンナさんが突然、『君の母校の小学校に行くべきだ!』と啖呵を切ったのは、僕に正人号の発進を命じたすぐ後のことだった。

 まるで僕は指揮官の理不尽な命令に従うしかない兵隊のように、半ば強制的にペダルを漕ぎだして今に至る、というわけだ。


「そりゃ、君が青春を過ごした場所だからだろう」

「それにしても……」

「歌詞の執筆が進まないのも、つまりは自分の大切なものや大切な思い出がわからないからだろ? だからそれを探す必要があるのは火を見るより明らかじゃないか」

「んぐっ」


 こういう人に真理を突かれるのが何故こんなにも悔しいのだろう。


「それに、私も興味あるしな」

「普通、他人の小学校時代に興味あります?」

「興味が出たんだからしょうがない」

「そういうもんですかね。そういえば、カンナさんって出身どこなんですか?」


 しかし、このまま続いていくと思われた会話は意外な沈黙を迎えてしまう。


「カンナさん?」

「まあ、私のことは良いじゃないか」

「え? 何でですか」

「何でもだ。私のことは良いんだよ」

「……」


 僕はカンナさんのことを殆ど何も知らない。せいぜい他校の先輩だということくらい。何故毎回僕の高校に忍び込めるのか、普段は何をしているのか、好きなもの、嫌いなもの、何故こんなに僕に構うのかもいまいちよくわからない。


「ここってこんなに田んぼ多いんだな」

「……そうですね」


 そして何より、初めて僕と出会ったときの、あの重苦しい負のオーラは何だったのだろう。


「あまり私のことが知れなくて不満か?」


 しかしカンナさんは僕の気持ちなどお見通しだと言わんばかりに、僕の背中に顔を擦りつける。


「ま、まあ」

「大丈夫。近いうちに話すさ」

「約束ですよ」

「ああ、約束だ」


 それ以上聞くとカンナさんが僕から離れてしまうような気がして、僕は何も言えなくなる。

いつかカンナさんは自分のことを話してくれるのだろうか。さっきみたいにはぐらかされたりしないだろうか。

 そして、僕はそれを受け止めることが出来るのだろうか。

 そんなことを考えながらペダルを漕ぎ続け、とうとう僕の母校が見えてきた。


「さ、着きましたよ」


 歩道に自転車を停めると、カンナさんは自転車を飛び降りて興味深そうに校舎を見上げる。


「へー、綺麗な学校だな」

「僕がいた頃に何回か改修されたんです。元は凄く古くて幽霊が出るって言われてたくらいで」

「なるほど。それは興味深い」


 カンナさんは学校の敷地を囲っている柵を両手で掴むと、グラウンドを見渡す。


「あ、正人君、あそこ」

「え?」


 見ると、低学年らしき男の子と女の子が二人、ブランコに揺られているのが見えた。


「可愛いな」


 二人はブランコに身を任せながら、時折顔を見合わせて笑い合っている。


「子供って、何であんなに純粋なんだろうな」


 カンナさんはそんな二人を見ながら、羨ましそうに目を細めてそんなことを言う。


「あまり世の中を知らないからでしょうか」


 思わずそう言うと、振り返ったカンナさんに少し笑われる。


「まるで君は世の中というものを知っているかのような口ぶりだな」

「いえ、そういうわけじゃなくて! だって、凄く幸せそうだから、そう見えて」

「確かに、幸せそうだ」


 そのとき、男の子の方が僕たちの方を振り返り、女の子に耳打ちする。女の子は僕たちの方を見ると首を傾げ、男の子に耳打ちする。

 ヤバい。不審者だと思われたかな? そんな僕の心配を他所に、カンナさんは二人に視線を送り続ける。


「私が思うに、彼らはまだ疑うことを知らないのだよ」

「疑うことを?」

「そう。人間関係も、自分の夢も、全部自分の手の中にあると信じて疑わない」


 どこか物悲しく聞こえたその声に、カンナさんの表情を見ようと横を見るが、タイミング悪く吹いた風がその長い黒髪を大きく揺らし、僕はまるでこの世に一人ぼっちだ。


「そう考えると、僕たちって不幸ですね」

「何故?」


 カンナさんはまだ僕を見てくれない。


「だって、もう世の中の殆どのものが、自分の手じゃ掴めないところにあるってわかってるじゃないですか」


 砂を蹴り上げる足音が聞こえる。顔を上げると、二人が楽しそうに笑いながら遊具から離れていくのが見えた。


「君にとっては自分の夢もそうなのか?」


 横を見ると、僕を鋭く睨みつけるカンナさんと目が合う。


「えっ?」

「簡単に諦めるような人間は挫折を経験しない。すぐ逃げるからな。でも、君は違うだろう?」

「それは、そうですけど。でも」


 僕は、胸中の本音を言って良いものかと逡巡(しゅんじゅん)する。


「でも?」

「何でもないです。きっと僕のこと嫌いになりますから」


 僕がそう言うと、カンナさんは口に手を当てて笑う。


「大丈夫、ここまで来て嫌いになるわけがないだろう? 良いから、言ってごらん」


 ここまで来て、というのはよくわからなかったが、僕はカンナさんの笑顔を見て覚悟を決める。


「怖いんです。いつも不安でしょうがなくて、こんな調子で僕の夢は本当に叶うのかって」

「……そうか」


 次の瞬間、長い髪が頬を撫でる感触と共に風が遮られる。

 カンナさんは僕の右手を優しく包み込むと、僕の耳に口を近づけた。


「じゃあ、私の夢を教えてあげようか?」

「ひゃ、はいっ」

「君の夢が叶うこと」

「……は?」


 カンナさんは呆気に取られる僕の手を取り、自分の胸に当てる。


「絶対に叶うと確信している」


 カンナさんの心臓の音は静かだ。まるで動いていないんじゃないかと思うほどに。きっとカンナさんは冷静でありながらも、言葉通り自分の夢に確信を持っているのだろう。


「カンナさんこそ子供だ」

「そうとも。私は疑うことを知らないからな」

「よく言うよ」


 しかし、そんな子供じみた考えが今の僕には必要だったらしい。


「僕、夢が変わったかもしれません」

「は、え?」

「僕も、あなたの夢を叶えます」


 そう言うと、カンナさんはまるでライバルを見るときのような、目の奥が燃えている視線を向けてくる。


「君、中々ズルいな」

「カンナさんこそ」

「いいや、私はただ本心を話しただけだ。君は私が喜ぶ言葉を意図的に選んだだろ」

「カンナさんて、妖怪って言われたことありません?」

「安心しろ。私は君以外の人の前では大人しいんだ」


 そんなやり取りが馬鹿々々しく思えて、僕たちは同じタイミングで笑い出す。

 やがて訪れた沈黙の後、僕の心は雨上がりの空のように晴れ渡っていた。


「僕、頑張ります」


 小声で呟くと、カンナさんは小首を傾げる。


「何か言ったか?」

「いいえ、何でも。そういえばブランコ、空きましたね」

「ん? そうだな」

「よしっ」


 僕はカンナさんの手を離し、両手で柵をしっかり掴むと、次に右足をかける。


「正人君⁉ 何を⁉」


 鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているカンナさんを見下ろすと、僕は仕返しとばかりに悪戯っぽく笑う。


「何って、不法侵入ですよ」

「なっ! えっ?」

「カンナさんだっていつもしてるじゃないですか」

「全く君は……よし! どっちが先に着くか勝負だ!」


 僕たちは子供よりも子供らしく、柵を乗り越えてブランコに向かって走り出す。

 ほぼ同時にブランコに到達した僕たちは、お互い自分が先に着いたと言い争い、やがて大声で笑い合った。


「こうしてると、子供の頃を思い出しますね」


 控えめにブランコに揺られながら夕暮れの空を見上げると、今にも雲を掴めそうな錯覚に陥る。


「そうだなぁ」


 僕はふと、子供の頃お父さんに聞かせてもらった曲を思い出す。

 曲の中の『君』は、『僕』が知らないうちに殻に閉じこもって出てこなくなってしまった。『僕』はどんなときも『君』に寄り添い、痛みも温もりも半分こにすることで『君』を助け出そうとする。

『君』がどんな姿になっても『僕』が支え続けると誓う、辛いけど優しい、そんな物語。


「それ、あのとき歌ってた曲だろ」

「え?」


 この人超能力者か?


「今、鼻歌で歌ってた曲」

「え、今僕歌ってました⁉」

「うん、わりと大きめでな」


 僕は顔に手を当てて項垂れる。


「うわマジか。恥ずかし」

「正人君」

「はい?」


 指の間からカンナさんを見ると、カンナさんは頬を赤らめてはにかむ。


「私、きっと君のことが好きなんだと思う」


 それからまるで花が咲くように笑った。


「ほら、ちゃんと話しただろ?」


 そしてカンナさんはまた、身体を上手に使ってブランコを揺らし始める。


「カンナさんて本当ズルいですよね」

「君ほどじゃないさ」

「いえいえそんなことは。って」


 カンナさんのブランコはみるみるうちにスピードを上げていき、やがてスカートが捲れてしまうのではないかと心配になるほどの振れ幅になる。


「ちょっとカンナさん! 揺れすぎ!」

「あはは! あの頃とは筋力が違うからな!」

「そういうことじゃなくて……! もう、好きにしてください」


 この世の何も恐れない一輪の花と、怖がってばかりの弱虫の時間は刻々と過ぎていく。そんな僕たちを置いて沈んでいく夕日が、まるで僕たちに嫉妬しているみたいだと、柄にもなくそんなくだらないことを思ったのだった。

 そうして僕はまた部屋で一人、大事な思い出を抱えたままペンを手に取る。

 二番に差し掛かった歌は、シャーペンを媒介して僕の記憶を驚くべきスピードで消化していく。


「カンナさん、明日驚くぞぉ」


 あのはにかんだ笑顔を思い出すと、僕はまたシャーペンを走らせる。

『あなた』とのハチャメチャなストーリーはいよいよ大詰めを迎えようとしていた。




「やってしまった」


 小学校のグラウンドに侵入した日の翌日、登校した僕は頭を抱えていた。

 原因は、机に立てかけた僕のアコギだ。


「何て、ことを」


 普段なら軽音部室に置いたり空き教室に隠したりして『奴ら』に見つからないようにしているのだが、昨日の一件で舞い上がっていた僕はそれらの小細工をすっかり忘れ、愚かにもルンルン気分で相棒を戦場に持ち込んでしまったのだった。


「せめて部室にっ」


 そう思って立ち上がった次の瞬間、一気に血の気が引いて立ち竦む。


「あれぇ?」


 あの夜、僕に恐怖心を植え付けた張本人たちは、教室の入り口に立って不気味な笑みを浮かべる。


「あれれぇ? 正人君、それってギター?」


 着崩した制服、大袈裟なくらいに刈り上げた短髪、スラッと伸びた長身たちがぞろぞろと集まってきて僕を見下ろす。


「あ、えっと、その」

「うーわ、あのときのおんぼろギターか」


 僕が言葉に詰まっている間に、その中の一人が僕の相棒をいやらしくなぞる。


「まだやってんの? ギター」

「まだ、やってるよ」

「だっさ」


 僕は何も言い返せず、唇を噛み締めてただ俯く。

 僕の態度にイラついたのか、ギターをなぞった男は僕の肩に腕を回す。


「あのさあ、下手くそのくせに人前で歌って恥ずかしくないの?」

「っ……!」


 教室のどこからかクスクスと笑う声が聞こえる。


「お前みたいな奴がプロになんてなれるわけねえのに何夢見てんの?」

「そ、そんなの、わからない、じゃないか」

「そうやって一人で熱くなって、また人様に迷惑かけんだな」


 心臓が締め付けられる。恐怖で身体が竦んで倒れることも出来ない。


「ま、そういうわけでこれ、預かっとくから」

「あっ」


 その男は僕のギターを荒々しく掴み上げる。

 意味不明な歓声が上がる。

 僕はただ、それを見ている。


「何度も何度も、こいつほんと惨めだなぁ」


 そんな声が僕の心に突き刺さる。

 こいつらの言う通り、僕は惨めなのかもしれない。いや、惨めだ。事実、相棒が奪われそうになっても何も出来ないじゃないか。

 わかっていた。所詮僕なんて、惨めで、何も出来ないただの弱虫だってこと。


『じゃあ、私の夢を教えてあげようか?』


 記憶の中のカンナさんは僕の右手を優しく包み込むと、僕の耳に口を近づけた。

 あのときあなたは一体どんな表情をしていたのだろう。


『君の夢が叶うこと』


 きっと、いや絶対、あなたは落ち着いた表情をしていた。それがさも当然のことのように、それを言うことを予定していたかのように、疑うことを知らない子供のように。


『私、きっと君のことが好きなんだと思う』


 ああ、カンナさん。今だけで良い、僕に勇気をください。


「待てよ」


 僕は、今まさに相棒を奪わんとする暴漢の腕をしっかりと掴む。


「あ? 何だよ」

「……」

「黙ってちゃわかんねえぞ?」


 僕は、目線でそいつを殺すように鋭く睨み上げる。


「返せよ。それ、僕のギターだ」


 僕の思わぬ反撃に、そいつは面食らった表情をする。

 こう見ると案外、僕と同じくらい可愛い顔だ。


「お前らみたいな奴が、僕の夢に気安く触るな」

「は? 何調子乗ってんのお前? 下手くそのくせによ」

「はっ、下手くそ、か」

「あ?」


 そうかわかったぞ。こいつはきっと怖いんだ。僕みたいな奴に先を越されて、自分が惨めな思いをするのが怖いんだ。

 そうか、この人も僕と同じように闇を抱えているんだ。

 そうか、そうかそうか。


「批判されるのがそんなに怖いか、臆病者」


 でも、僕の闇の方がずっと深くて強い。


「今、なんつった?」

「実力をさらけ出して、批判されるのがそんなに怖いかと言ったんだよ。臆病者」

「なっ……!」


 僕はそいつから相棒を掴んで取り返す。


「僕はお前らとは違う。僕は一人でもずっと戦ってきた。お前らは逃げていただけだ」


 言葉に詰まって目を泳がせるそいつを見て、僕の舌はさらに回る。


「僕はまた歌えるようになって、何度でも歌で戦って、何度でも立ち上がって、何度でも夢を叶えるんだ。お前らとは違う」

「よくそんなに堂々と、恥ずかしいこと言えたな」

「確信してるからだよ。僕ならそれが出来ると」

「っ……!」


 そして最後に、嫌味なくらい真っ直ぐにそいつの目を見る。


「お前らは、そんな僕をただ黙って見てればいい」


 みるみるうちに顔を真っ赤に染めたそいつは、右の拳を僕に向かって振りかざす。


「ぶっ殺す……!」


 とっくに殴られる覚悟が出来ていた僕は咄嗟に目を瞑る。


「ちょっと先生来る! ヤバいよ」


 恐る恐る目を開けると、教室の前で女子生徒が廊下の奥へ向かって手招きしているのが見えた。


「お前、覚えてろよ」


 そいつはお手本のような捨て台詞を吐くと、渋々自分の席へつく。

 駆け付けた男の先生からの質問をはぐらかすそいつらを見て、僕は相棒を強く抱き締めた。

 今このときをカンナさんが見ていたなら、どんな言葉を僕に投げかけてくれるだろうか。千切れるくらい褒めてくれるだろうか。もう一度、好きと言ってくれるだろうか。

 間もなく、机に相棒を立てかけたまま僕の日常は始まった。

 しばらくずっと、カンナさんが僕を守ってくれているような、僕がカンナさんを守っているような、幸せだが落ち着かない感覚が続いたのだった。




 やがて今日の授業が終わり、トイレから出た僕は未だ達成感に満ちていた。

 結局あいつらは今日一日僕に一切手を出してこなかった。きっと今朝の騒動のせいで本格的に先生たちに目をつけられたのだろう。ざまあみろ。


「今日もいるかな」


 手を洗いながらそう呟いて、ハッと口を抑える。

 既に僕にとってカンナさんはかけがえのない存在になっていた。思い出だけで勇気をくれて、傍にいるだけで幸せをくれる。

そして今日もまた、最高の思い出が増える。


「高槻君!」


 突然、クライメイトのあまり話したことのない女子生徒に名前を呼ばれ、弾かれたように振り返る。

 彼女は膝に手をつき、乱れた呼吸を整えている。


「ど、どうしたの?」


 彼女は窓に近づき、不安とも絶望とも取れる表情を僕に向けてくる。


「今日、ギター持ってきてたよね」

「そう、だけど」

「じゃあ多分、あれって」


 彼女がそう言って指さしたのは、窓から見下ろせる人気の無い校舎裏。

 僕も彼女につられてそこを見下ろす。

 そして、気が付けば僕は走り出していた。


「何で」


 意味も無いのに、全身がわなわなと震える。


「何で!」


 そして僕は、『それ』に近づくと地面に跪いた。


「何で、ギターまで」


 冷たい地面の上、無残に叩き折られたギターを見下ろす。

 辺り一面に木の破片や弦が散らばっていて、もはや殺人現場と言って差し支えない。

 思い出すのは、奴の最後の一言だ。


「僕が、あんなこと言わなければ」


 そんな言葉が口をつき、僕は思わず両手で口を覆う。

 ギターの姿と僕の心が、ピッタリ重なって見えた。




 ネックが真っ二つに折られ、ボディは鋭い物で残酷な傷を付けられている。

 カンナさんは、蹂躙されて殺された僕たちを見下ろして立ち尽くしていた。


「多分、クラスのいじめっ子の奴らの仕業で」


 カンナさんは何も言わない。死んでしまったのかと思うほどだ。


「僕、今日教室にギターを持ってきてしまって」


 つくづく、自分の惨めさが本当に嫌になる。


「きっと、僕があいつらに夢を語ったから……僕のせいで」


 僕がそう言った次の瞬間、カンナさんは肺一杯に空気を吸い込み、そして骨が軋む音が聞こえそうなほど強く拳を握り締める。


「君にそんなことを言わせるのか」


 顔を上げてカンナさんの表情を見ようとするが、カンナさんは素早く後ろを振り向く。


「私が憧れる夢を踏みにじり、挙句の果てには自分を責める言葉まで吐かせるか」


 小刻みに震えるカンナさんのその後ろ姿から黒いものが滲み出てくるのがはっきりとわかる。


「そいつらは君に恨みでもあるのか」

「あの人たち、元は僕と同じ軽音部の部員なんです。今も一応軽音部なんですけど、僕が一人で本気になっちゃって、それで反感を買ったんだと思います」

「わかった。ちょっと行ってくる」


 そう言ってカンナさんは、おびただしいほどの殺気をまとったまま部室を出て行こうとする。

 僕は、そんなカンナさんの肩を思わず掴んでいた。


「何故止めるんだ」


 決して振り返らず、カンナさんは僕を問いただす。


「何しに行くんですか」


 僕が逆にそう聞くと、カンナさんは少し笑った気がした。


「殺しに行く」


 端的で明確なその一言に、ただならぬ信ぴょう性と遂行能力を感じた。


「そんなこと、ダメですよ」


 カンナさんは振り返る。

 僕は胸に剣を突きつけられたように動けなくなった。

 カンナさんは、まるで子供のようにしわくちゃに泣いていたのだから。


「私の夢なんだよ!」


 そう叫ぶと(せき)を切ったように大粒の涙を流し始める。


「ふざけるのもいい加減にしろっ! これは私の尊敬する人の夢なんだよっ!」


 カンナさんが訴えかけるように叫ぶと、僕の喉から熱いものが込み上げてくる。


「私は、いつだって君の歌う姿を思い出すんだ。小さくても力強くて、叫んでいるけどどこか悲しくて、真摯に人生に向き合うその姿勢に、私は何度勇気づけられたか! いつだってそうさ。夢を諦めた奴がまだ頑張り続ける人の邪魔をするんだ!」


 俯いてしゃくり泣くカンナさんのその姿を見て、僕もやっと涙を流した。


「私には君のような生き方はもう出来ない。出来ないんだよ」


 そう言って涙を拭うカンナさんの姿は、触れたら消えてしまいそうなほど儚くて、だからこそ守りたかった。


「だから、君を守りたいんだよ」


 僕は、少し背伸びをしてカンナさんを思い切り抱き締める。高い体温とサラサラの髪、僕の胸の中でしゃくり泣かれると怖いほど愛おしい。


「ごめんな。きっと私のせいだ」

「カンナさんは何も悪くないですよ」

「私はただ、君のためを想って」

「大丈夫。全部わかってますから」


 僕はカンナさんの頭を撫でると、僕の目から流れる未練がましい涙をせき止める。


「僕はまた歌います。何があっても、何度でも」


 僕の心に、もう迷いは無かった。


「あなたのために」


 本格的な冬の訪れを予感させる寒さの中、カンナさんとそうしている時間が長ければ長いほど、僕の中の炎はその勢いを強めていったのだった。


   ◇   ◇   ◇


 それから三日間が経ち、その間僕はカンナさんに一切会わなかった。

 僕がその間歌詞の執筆をしていることは二人の暗黙の了解だった。

 そして遂に最後の一フレーズを書き終えたそのとき、僕は自転車に跨いで衝動的に学校へと向かっていた。

 それは偶然にもカンナさんと初めて出会った日と同じような日。違うところがあるとすれば、僕は自信に似た何かを手に入れていて、そこにカンナさんがいるという確信を持っているところだろう。


「カンナさん!」


 部室のドアを開け、あの日と同じように冷たい風を浴びる。

 カンナさんはさも当然のように振り向いて微笑んだ。


「待ってたよ」

「そうだろうと思って、急いで来ました」

「とうとう完成したのか」

「はい」


 急いで部に備え付けのギターをチューニングしていると、その間にもカンナさんの熱い視線を手元に感じる。


「歌えるのか?」

「もちろん」


 僕は少し顔を上げると自信満々に微笑む。


「死んでも歌います」


 僕がそう言うと、カンナさんは口を抑えて少し笑う。


「死んでもって、本気か?」

「本気です」


 間髪入れずそう答えると、カンナさんはどこか遠い目をして顔にかかった髪をかき上げる。


「じゃあ、信じるよ」

「がっつり信じちゃってください」

「君、キャラ変わってるぞ」

「僕は最初からこんな奴です。興奮すると我を忘れて、何も考えられなくなって」


 そしてチューニングが終わると、ふっと一息ついた。


「楽しいことで頭が一杯になるんです」

「ふふ、そのギラついた雰囲気、あの頃にそっくりだ」


 そう言うカンナさんも何だかあの頃に似てますよ、とは死んでも言えなかった。


「じゃあ、始めます」

「ちょっと待ってくれ」


 カンナさんは椅子を二つ向かい合うように置いて座わる。冷静なようだがどこか必死なその視線に射抜かれる。


「私あのとき、そろそろ遠くへ行くと言ったな」

「え? はい」

「でも、たぶん君が思っているよりずっと近くにいるんだ」


 何だそれ? 混乱していると、カンナさんは何故か必死さを増していく。


「でも、凄く遠くもあるんだ。わかるか?」

「い、いえ。すみません」

「いや、良いんだ。言うべきじゃなかった。言わないつもりでいたのに」


 それからカンナさんは胸に手を当てて深呼吸をする。


「待ってくれ。本当に。心の準備が出来なくて」

「良いですよ。待ちますよ」


 きっと、それくらい僕の歌を楽しみにしてくれていたのだろう。そう思うと一気にプレッシャーが襲ってくる。


「最後に言わせてくれ」

「はい?」


 カンナさんは自分の胸に手を当てると、小さく頷いて微笑んだ。


「君と出会えて良かった」


 そして、唐突にそんなことを言う。やっぱり今日のカンナさんは何だか変だ。久しぶりに会ったからそう感じるのだろうか。


「僕も、カンナさんに会えて良かったです」

「そ、そうか。良かった」


 そうして訪れた沈黙の正体が僕には掴めず、足が宙に浮くような不安を憶える。


「そ、そういえば、曲のタイトルは?」

「タイトル、ですか。実はそこだけまだ決まってなくて」


 最後のワンフレーズを書き終えたそのとき、タイトルが空白であることに気づいたが、カンナさんに聞かせるのが先だと思った。何より、カンナさんに聞かせてからじゃないとピッタリのタイトルをつけられないような気がした。


「なるほど、何だか君らしい」

「僕らしい?」

「そう、臆することなく一直線に気持ちを伝えにくる、君らしい」


 きっと僕も変なのだろう。カンナさんにそう言われて、飛び上がるほど嬉しい。


「とにかく、いきます」


 このままだとこの時間が永遠に終わらないような気がして、僕はギターピックを持った右手を軽く上げる。


「ああ」


 カンナさんが目を閉じる。

 それを合図に、僕はギターピックを弦にぶつける。

 歌い出すと不思議な感覚に襲われた。まるで、いつも孤独で一人歩きしていた『詩』が、徐々に人に届く『歌』に昇華していくような。それと同時に、カンナさんと駆け抜けた思い出が次々と蘇ってきた。

 路上ライブをしていた僕に声をかけてくれたあの日、心の底から嬉しかった。しかしそれと同時に自分の弱さも味わった。

 部室で再会したあの日、真剣に先生に通報するか迷った。しかしあなたの熱意に押されて瞬く間に懐柔されてしまった。でも満更でもなかった。

 あなたの思いつきで僕の小学校に行ったとき、正直言うと周りの視線が痛かった。でもあなたは恥ずかしげもなく僕を励まし、堂々と僕の背中を押してくれた。勇気が出て、何だか世界が広がったように感じた夜。

 そして僕が辛いとき、あなたは僕以上に泣いて苦しんでくれた。僕はあのとき生まれて初めて泣けたような気がした。言葉にならないあなたを見て、僕は確固たる言葉を手に入れた。


 あなたのために。


 サビの部分は、まるで世界中に響かせるようにゆっくりと、それでいて激しく。自分に欠けている低音の伸びを打ち消すように、心地よく叫ぶように。

 ああ、もう終わっちゃうのか。最後のフレーズの余韻が消える頃になって、そんなことを思った。


「はぁ、歌え、た」


 ギターを持ったまま言葉を失ってしまったのは、カンナさんの身体が向こうの壁を透かしてしまうくらい透明になっていたからだ。


「カンナさん!」

「ふぇ?」


 カンナさんは目に涙をためて、自分のその身体を見て狼狽えるでもなく諦めたように笑った。


「ああ、もう、そうか」

「だ、大丈夫ですかそれ⁉」

「ああ、多分大丈夫じゃないな。はは、何だろう。視界もぼやけてきたぞ」


 涙を拭う。カンナさんのその仕草にも危うさを感じて、その細い腕を、掴む。

 が、掴めない。掴んだ、と思っても手が虚空を走ってしまう。


「何だよこれ! 何で!」


 伸ばせど伸ばせど、掴もうとしても嘲笑うように、僕の手は何も掴めない。


「正人君」


 残酷なほど冷静な声。顔を上げると、カンナさんはくしゃくしゃの僕を見て微笑んでいた。


「思い返せば、君、忘れ物を取りにここに来たんだろう?」

「そ、そうですけど、そんなことより今は!」

「私にとってのそれが、君の歌だったんだよ」


 すっと心に入ってくるその言葉を、僕は拒絶することが出来なくてそれが悔しい。


「良い歌だった。感動した」


 そんなことを言ってカンナさんの身体は、蛍の最期の輝きのように強く光っては点滅する。

 僕は床にへたり込み、拳を握り締める。

 カンナさんも床に座り、僕の顔の輪郭をなぞる。


「でも、良かった。君がまた歌えるようになって」

「良くないです。こんなの」

「君は強情だな」

「行かないでください」


 カンナさんの手がピタリと止まる。


「ずっと僕の傍にいてくださいよ。僕が夢を叶える瞬間も、一番近くで見ててくださいよ」

「……もちろん、一番近くで見てるよ」


 僕は唇を噛み締める。血の涙が頬を伝う。


「こうして君にまた会えると知っていたら、あんなことはしなかった。信じてくれるか」

「信じますよ。もちろん」

「私は待つことが出来なかった。弱い私を、どうか許してくれ」


 その瞬間僕は、あのときカンナさんと交わした約束と、その後に自分がしてしまったことを思い出し、全てを悟った。


「行かないで」


 カンナさんはいつものように優しく微笑む。


「ごめんな」

「カンナさん!」

「今まで、ありがとう」

「待って!」


 僕はまだお礼も言っていないんですよ。声まで、虚空を走っていったようだ。カンナさんの泣き笑いの表情を胸に閉じ込めておくように、ギターを力強く抱いた。

 僕は急いで家に帰り、テレビをつけた。どうやら近くの高校に通う女子高生が自殺していたことが発覚したらしい。原因は義理の両親による虐待だった。彼女の遺書には『次の人生は、もっと力強く』そんな言葉が残されていたらしい。

 部屋に戻り、手汗でぐちゃぐちゃになった歌のまだ空いているタイトルの欄に、シャーペンを近づけた。

 赤く、力強い幹の先に、色鮮やかな橙色の花を咲かせるカンナの花言葉は『永遠』だ。あなたにぴったりだと思って少し笑った。

 でも僕は、あなたのせいで忘れ物が増えた気分ですよ。呟いたその言葉は、今度はこの心をしっかりと掴んだようだ。溢れ出てくる涙を、いっそ全て吐き出すように、心地よく、叫んだのだった。




                「カンナ」


 水をあげる、その前に枯れてしまった花。僕はまだ子供のまま。無邪気な声で何と言った。

 苦痛も忘れたまま。あなたのことを知らないままで。僕はやっと気づくのか。あなたに夢を貰ったことを。

 戦う。負ける。その繰り返しのこの世の中。誇り高く、咲いてたあなたのように僕は、なりたい。

 全部忘れちまっても。あなたの思い出が僕を。

 全部嫌になっても。あなたの希望がいつまでも。

 僕を、

 嫌いになっても。あなたのことを僕はずっと。

 二人死んでしまっても。

 あなたのことを僕がずっと。


 子供みたいにあなたが、両手を叩いて笑った。

 僕も初めて笑えた。

 このままで良いさと思えた。

 チャンプも、スターも。全部自己中のなれ果てなら、全部くそくらえさ僕は。あなたの一番でいたい。水をあげて抱き締めたい。

 僕は、

 歌えないけど。

 しゃがれた声も出せないけど。

 醜い虫みたいでも。

 許されたあなたの傍で。

 笑っているあなたを守りたい。


 (間奏)


 花は枯れたままで。

 勘違いの僕は惨めで。

 立ち上がる勇気も湧かない。

 このまま終わるのか。

 いいやまだだ終われない。

 一輪の花がそこにあるんだ。

 他でもないあなたのために。


 あなたの一番になっても。

 僕の夢は終わらぬままで。

 たとえ死んでしまっても。

 僕は月と一緒に歌うよ。

 花が枯れそうなときは。

 僕の涙を少しやるよ。

 他でもないあなたのために。

 僕が愛したあなたと、永遠に。


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