81:神を否定する者
神の宮殿では、イーデアとアストラが悪魔と対峙していた。
だが、イーデアもアストラも、まるで息が上がっているかのようにその肩を上下させている。心なしか、その目に映る光も弱々しく感じられた。
「く、くそ……」
「強イ……!」
二神がそれぞれ呟く。神と悪魔、その力の差は歴然だった。こうして正面から対峙してみると、それを否が応でも感じられる。
「どうした。息巻いていた割にはその程度か」
悪魔は退屈そうにイーデアとアストラを眺めるのみ。明らかに神々を下に見た態度だった。
それもそのはずである。お互いの力量を鑑みても、神々が下なのは変わりない事実なのだから。
悪魔の言葉も、そうなれば挑発でもなんでも無い、単なる事実の指摘だった。
だが、その指摘こそ、神の怒りに触れる重要なポイントでもあった。
だからこそ愚かと言えた。
「な……なめるなよ悪魔!」
「待テ、イーデア」
レーヴ十神、イーデアは水の槍を生成して悪魔に襲いかかる。『水』の権能を持つがゆえの、高度に圧縮された水流の槍。当たればダイヤモンドですら切断せしめるものだ。
だが、当たればである。
あまりにも直線的な攻撃。これを避けるのは難しくはなかった。
だが悪魔は避けさえしなかった。
水の槍の穂先が悪魔を捉える。だが、悪魔の表皮に触れた瞬間、水の槍は霧散して消えた。まるで悪魔に触れるのを拒むかのように。
そして、イーデアはいとも簡単に悪魔に組み伏せられる。
「ぐ……あああああっ!」
苦悶の声を上げるイーデア。それを聞いても、悪魔の心は如何様にも動かない。
ただ、哀れみがあるだけだ。
「愚かだな。挑発ですらない言葉に乗せられるとは」
悪魔はイーデアの頭を押さえつけ、ぎりぎりと締めつける。イーデアはなんとかその拘束から抜け出そうと足掻くが、全く効果はない。元々イーデアはそれほど膂力のある方ではないが、それを加味してもなお、歴然たる差がそこにはあった。
「く、そっ……どうなってる。さっきから、アタシらの攻撃、効いてないじゃん……」
「教えてやる義理はないな」
悪魔の締め付けが強くなる。イーデアは言葉にならない叫びを上げる。
「起動、《ブラスト》!」
悪魔の背後から、アストラが魔導による突風を発する。
魔導の神アストラの放つ魔導は、それ自体が神威のようなものである。故に、その魔導にはコーザル体が纏わりつく。それで以て、アストラの魔導は悪魔にも干渉できる力となる。
魔導によって引き起こされた突風に、悪魔は吹き飛ばされる。空中で体勢を取り、悪魔は着地。
そのまま悪魔は動けたが、自らの右手を見つめ、その拳を握りしめて動かない。
その隙にイーデアは体勢を直し、アストラの下へと跳ぶ。
「大丈夫カ、イーデア」
「げほ……なんとかね」
だが、この力の差だ。イーデアとアストラだけでどうにかできる相手ではないだろう。いや、レーヴ十神総出でかかっても倒せるかどうか。
どうしたものか。二神が考えを巡らせていると、悪魔に動きがあった。
「なるほど。魔導の神たる貴様なれば、神性を帯びた魔導を放つこともできよう。ともすれば我に傷をつけることも叶うやもしれぬ」
一歩一歩、悪魔は神々に歩み寄る。だが神々は一歩ずつ後退る。一見するとそれぞれの距離は変わらぬように見えた。
方や余裕の表情、方や焦燥に駆られた様子。
そして、
「だが、それも――――」
悪魔は一歩深く踏み込み、神々との距離を一気に詰める。
「力が拮抗していれば、の話だが」
悪魔はアストラの目の前に一瞬で移動していた。そして、アストラの鎧を貫き、その内部の中核を引き抜く。
「が、は……」
「ッ――――――――」
アストラの目の光が失われ、かの神は悪魔にもたれかかる。
その神、その抜け殻を、悪魔は乱暴に投げ捨てた。
地に落ち、転げ回るアストラ。
「ア……アストラァァァ!!」
イーデアはアストラに駆け寄る。何度も何度も、その神の名を呼ぶ。まるで家族を失った子供のように。
アストラの手を握り、必死に呼びかけ続ける。
だが、その手に力が入ることはない。
「アストラ……アストラァ!」
アストラはまだ生きていた。だが、直に死ぬだろう。
最後の力を振り絞って、アストラはたった一言だけを紡ぐ。
「イ……イーデア……逃げ、ロ……」
「アストラ……!」
それきり、アストラは物言わなくなった。体の崩壊は既に始まっている。
まず腕から崩壊が始まった。イーデアの手の中で、アストラの身体を構成していた鎧が砂となって分解していく。
次に脚。それから胴体。
首だけが最後に残り、その首も砂になって消えていった。
アストラの身体の崩壊を見届けると、イーデアは無言で立ち上がった。
「貴様……!」
そして、イーデアは悪魔に向き直る。
「覚悟しろ、アストラの仇!!」
両腕を広げ、神の宮全体を光の壁で覆う。
そして、イーデアは自身の持つ最大の神威を発動させる。
「理解せよ、其は根絶する水なり!!」
どこからともなく大洪水が押し寄せ、悪魔もろとも神の宮殿を飲み込む。
イーデアは消え入りそうなアストラの砂を抱き抱えながら、神の宮殿を覆う光の壁に満ちる水を眺めていた。
「……これで……」
終わりだ、と言おうとした矢先。
「満足したか?」
ゆっくりと、津波の中から姿を表す悪魔。まるで、津波など初めから存在していないかのように。
イーデアは驚愕の表情を浮かべる。
「……なんで……少しも効いてないンだよ……!」
何も言わず、悪魔はイーデアの背後に周り、その心臓を砕いた。
「貴様らに仲間意識など無いと思っていたのだがな。意外なこともあるものだ」
「ち、くしょう――――」
力なき言葉とともに、イーデアは自らが呼び出した洪水の中へと落ちていく。
荒波に飲まれ、身体が朽ちて、削られていく。アストラの砂は、もはやそれが本当にアストラのものなのかわからなくなっていった。やがて自分も砂となり、アストラの砂と交わり消えるだろう。
……そう考えると、なぜだか悪くないような気がした。
ふと、遠くを見やると、小さい光の流れが見える。
「御座船――――」
そういえば、自分もあれに乗ろうとしていたのだったか。
イーデアはそれがまるで遠い昔のことのように思えて仕方なかった。
……遠い昔と言えば、そうだ。
「――――ああ。ああ。そういえば遠い昔に、こんな光景があった気がする……」
あれは、確か……
なんだったっけか。
あ、ああ。そうだ。そうだった……
「ああ。体が覚えている。この寒さ。この冷たさ」
機能を停止しようとしている脳内に過ぎるのは、いつかの自分。イーデア自身は覚えていない、過去の出来事。
「この感触を、いつか感じた気がする。あれはいつだったんだろう。……でも。ああ、ああ。どうだっていいか……」」
ああ。鼻以外の体中の穴という穴を塞がれ、毛布に包まれ、最後には船から川に落とされた哀れな女。
お前はあの時、何を思ったのだろうか……。
・・・
「イーデア……アストラ……」
御座船の船首に立ち、シェキナーダは呟く。
普段の冷酷さを見せるかの神とは思えない態度に、ソフィアは失笑を漏らす。
「フン。残った奴らのことなんか考えるなよ。時間の無駄だ」
「ソフィア様」
クラウンの嗜めるような言葉も、心なしか弱く感じる。
クラウン自身も分かっているのだろう。それがあまりにも無為なことだと。
シェキナーダも、また。
「……いや、その通りだ。奴らは自分の意志で残った。ならば何も言うまい」
「ほう。そいつは殊勝な心がけだ」
声がして振り向けば、そこには悪魔が甲板の手すりに腰掛けていた。腕組みなどしてなるほど余裕の様子だ。
「……!」
「……追ってきたか」
シェキナーダが静かに呟く。だがその声には、僅かばかりの怒気が感じられた。
「ではイーデア様とアストラ様は――――
「言うほどのことか?」
そう。言うほどのことではない。悪魔がここにいることが何よりの証だ。
クラウンが身構えるも、シェキナーダはクラウンを制した。
「下がれ、クラウン、ソフィア。ここは私がやる」
「おい、勝手に決めんなよ。全員で行ったほうが――――
「下がれと言った」
ソフィアは食い下がるも、シェキナーダの鬼気迫る様相に、「勝手にしろ」と言いながら引き下がった。
対して悪魔は余裕を崩さない。
「お好きにどうぞ、母上」
「何を分からぬことを……!」
剣を生成し、悪魔の爪と切り結ぶシェキナーダ。
右、左、そして右。剣と爪は幾度となく交わり、火花を散らす。
シェキナーダの一閃。悪魔は体勢を低くして避け、下から爪を突き上げる。シェキナーダはそれを弾き飛ばし、袈裟懸けに斬りかかる。
そして、再び切り結ぶ。
「ふむ、これはなかなか」
「その余裕、消してくれる!」
悪魔を蹴り飛ばし、船の外に追い出すと、シェキナーダは自らの魔力を解放する。
「万物切り裂く剣、神の名の下に!!」
シェキナーダの剣閃から巨大な光の刃が現れ、悪魔を襲う。それは悪魔のみならず周囲の星になれない光たちをも飲み込んで、巨大な爆発を起こした。
立ち上る爆炎。シェキナーダはその中心を見据え、佇む。
煙が晴れる――――
だが、その中から姿を表したのは、傷一つ無い悪魔の姿。
シェキナーダの渾身の一撃は、悪魔に全く通用しなかった。
「凄まじい威力だな。他の者ならどうなっていたことか」
「……な、何だと……」
あまりの事実に茫然自失になり、ただ棒立ちになるシェキナーダ。
そんなシェキナーダに、悪魔は賞賛の言葉を述べた。
「この素晴らしい斬撃に免じ、我が名を明かそう。我はネガ。お前達神々を否定する者」
一瞬にしてシェキナーダに接触するネガと名乗った悪魔。シェキナーダは反応すらできない。
「――――」
そして、ネガの爪牙がシェキナーダを引き裂いた。




