76:荒ぶる女王
銅鑼が鳴り響き、戦いの火蓋は切られた。
意識が戦いに向くと、瞬く間に周囲の喧騒は消える。拡声魔術を使った司会の声ですら、雑音ですら無い何かに成り下がった。
既に緊張はない。こうなってしまえば、あとは戦うだけだ。
「まずは小手調べ!」
照は炎の弾を数発放つ。アリスティアはそれを難なくくぐり抜けて、照に接近する。
「はっ!」
そして掌底を繰り出すも、弾かれる。そこに生じた隙を見逃さず、照はアリスティアの懐に入り込む。
「我が灯火を受けよ!」
炎に貫かれるアリスティア。だが貫かれたはずのアリスティアがぶれた。ぶれたアリスティアは笑みを浮かべる。
「幻かッ!」
照が振り向くと、アリスティアが宙に空間の歪みを複数作っていた。本来不可視のはずの球状の力場は、周囲の景色を歪ませている。それが逆説的に空間の歪みの位置を示していた。
「重力球!」
アリスティアはその歪みを撃ち出す。照はそれを両腕でガードしようとするが、直前で嫌な予感がした。
あの空間の歪みは、ただの歪みではない。最初は物理的な衝撃を加えられるほどに圧縮された空気かと思ったが、もし違っていたら大惨事になりかねない。
そう思って、回避に切り替える。
紙一重で躱した照。だが、照の巫女服の袖がその歪みに触れた時、異変は起こった。
「なっ……、服がっ……!?」
旋盤に巻き込まれるかのような違和感を覚え、左腕を振り払う。すると、歪みに触れた部分が突然ねじ切れた。まるで、そこだけ削り取られたかのように。
「そういうことか……!」
あの空間の歪みは、回転する重力場だ。触れたものを根こそぎ削り取る、まるでノミとヤスリのような。
当然、あれに触れればひとたまりもないだろう。攻撃の規模こそ人間大に抑えてはいるが、恐らくもっと大きなサイズの重力球も打ち出せるはず。
「まだまだ行くぞ!」
「ッ……!」
弾丸の雨のように降り注ぐ重力球。照の見立て通りなら、あれは照の神威では防げないだろう。ならばと照は鏡の翅を展開し、宙を駆ける。
神威"天尊光輪"。鏡の翅と日輪を照の背後に出現させ、空を飛ぶ神威。原理としては太陽帆と同じものだ。鏡面に光を当てれば、光子の反射によって入射方向と逆向きの力が生まれる。この光の反発力によって飛行するのだ。
「逃がすものか!」
重力球が照を追う。照は空中で軌道を直下に変え、地面スレスレで更に軌道を変える。その急激な軌道の変化について行けず、重力球は地面を抉る。
そうして自由の身になった照はアリスティアに向かう。新たな重力球がいくつか飛んでくるが、稲妻を描くような照の機動は重力球を縫うようにしてアリスティアに肉薄する。
「見事、難なく避けるとは!」
アリスティアの称賛の言葉には裏がなかった。純粋なる称賛。だが、それと勝負とは何の関係もない。今もなお重力球は飛んできている。
「神衣・天疎戦ノ装!」
炎の壁を突き破り、鎧を纏う武者へとその姿を変えた照。アリスティアと接触し、その手に生み出した白炎を撒き散らす槍を振るう。
「てやああああああ!」
「はっ!」
槍が白い軌道を描く。白炎が追随する。
アリスティアは後ろに下がり、避ける。照は深追いせず、槍を構えて佇む。
両者睨み合いの数瞬。ピリついた空気が流れる。
「やるのう。ここまでいともたやすく付いてこられるとは」
「何言ってんのさ。本気なんか全然出してないくせに」
「わかるかの?」
「そりゃあね」
ひとつ、ふたつ。
数えた間を置いて、二人は笑い出す。
それ以外には何も起こらない、見ている側としては退屈な間。
だがどうだろうか。見渡してみれば、観客席はまるで凍りついているかのように静かではないか。
それもそのはず、今までの戦いが前哨戦に過ぎないことを、魔族たちは理解しているのだ。これから始まるであろう激戦を皆期待しているのだ。
照とアリスティアはほぼ同時に笑いを止めた。
「それじゃ、ギア上げていこうかの!」
「来い、魔王様!」
アリスティアは両手と片足で正三角形を作り、クラウチングスタートの体勢を取る。その手の指先から蹴り込む足にかけての地面に電流のような魔力光が走り、踏み込んだアリスティアは猛烈な速度で照に切迫する。
「ッ、縮地かッ!」
瞬間移動にも似たその移動法は、"縮地"、あるいは"ハイ・バウンス"と呼ばれる仙術、というよりはグリッチだ。地面を踏み込む瞬間、その一瞬にのみ魔力を地面に流し、生まれた反発力によって飛ぶように動く。その移動法を極めれば、一晩にして万里を駆けると言われている。
アリスティアの行った縮地は、刹那にも満たない時間で照の懐に潜り込んだ。そのような速度で駆け出したのにもかかわらず、既にアリスティアは照への攻撃の構えをとっている。縮地の精度といい、体勢を整える速さといい、凄まじいまでの練度だった。戦い慣れしていると言ってもいい。
アリスティアは右手の爪を下方から切り上げるようにして突き出す。
「はぁっ!」
急接近したアリスティアの攻撃を槍で受けるが、猛スピードとともに繰り出された攻撃を受けきれずに体制が崩れた。その隙を狙いアリスティアは足払いをかけ、浮いた照の身体を打ち上げる。
「ガフッ……!」
だがアリスティアの連撃はそこで止まらない。電流のような魔力光と共に地面を蹴り、アリスティアは跳躍。打ち上がった照を瞬時に追い抜き、締めとばかりに両の拳を鉄槌のように振り下ろした。
「ぬん!」
「ッ――――」
墜落。そして砂埃が舞う。
アリスティアは空中で静止し、砂埃の向こうの照を見据える。
照はきっとすぐに出てくる。その上でアリスティアに一撃を入れるだろう。大したダメージは受けてないはずだ。
だってそれなら、こんなに砂埃が舞うことはないのだから。
「はああああっ!」
砂埃の中の照が飛び出てきた。まっすぐアリスティアに向かっている。
「正面……!?」
それは下策だった。警戒している相手に真正面から向かってくるなど、その攻撃は防がれて終わりである。
……アリスティアが「それは違う」と理解したのは、照の攻撃がみぞおちに綺麗に入った後だった。
正面から向かってきていた照は幻だった。本物はそのすぐ後ろにいて、アリスティアの防御のリズムが狂ったその隙を突いたのだ。
「ごは……ッ」
「っし、入った……!」
今度はアリスティアが墜落した。この短い間に、二人の立ち位置は目まぐるしく入れ替わる。
砂埃が器官に入ったのか、アリスティアはむせながら立ち上がる。
「ごほ、げほ、あーやられた。まさかやり返されるとはの」
心なしかその声は、照には嬉しそうに聞こえた。この短時間で意趣返しをされたのは、アリスティアにとってよほど喜ばしかったのだろう。
アリスティアは飛び上がり、空を蹴る。山吹色の魔力光がアリスティアの足先から一瞬だけ放たれ、アリスティアの軌道を変える。"エア・タッチ"と呼ばれる、空中の極小面に対して魔力障壁を展開し、ごく小さな壁を作り出すグリッチ。
アリスティアは山吹色の魔力光を発しながら、複雑な軌道を描き照へ向かう。
そして、再び照とアリスティアは組み合う。
「おいテラス。今の何じゃ?」
「何って、光の屈折率を変えて、幻を生み出す神威だよ! 名は不知火! 蜃気楼とも言うね!」
「成程、蜃気楼か!」
実際の蜃気楼は密度の異なる空気が存在する場合に発生するものだが、そこは神威、因果は逆である。「結果を先に起こす」ことで現象が追随して発生する。つまりは場所を選ばずにこの幻は発生させられるということだ。
なお"不知火"によって生み出された幻は、本体の照の動きに連動する。いわゆる"逃げ水"というものだ。
「魔王様こそ、最初の幻、アレ何なの!?」
「妾のか? 妾のも屈折率の変化、と言えなくもない!」
アリスティアは距離を取る。
その空隙を縮めるように照が動く。
「魔王様の巫術って重力でしょ!」
「うむ、強い重力は光にも影響を及ぼすからな! 細かく重力を変化させれば、ほれ!」
照の背後にもうひとりのアリスティアが現れる。
「このように幻が生み出せる! しかもこれは――――
もうひとりのアリスティアは照に向けて爪を振りかぶる。照はそれを避け、もうひとりのアリスティアに向けて白刃を振るう。
照の攻撃をもうひとりのアリスティアが受ける。ただ、それはまるで幻とは思えない感触があった。
「っ、手応えがある……!?」
「ただの幻ではないぞ、質量を持った幻じゃ」
白炎を撒き散らす刃に触れた幻は炎とともに消えていく。
なるほど、細かい重力制御によって屈折率を変え、重力場がトラップした塵によって"質量のある人形"を生み出す……細かい芸当だ。
「大雑把そうに見えて結構繊細なんだ!」
「それはお主も同じじゃろう!?」
槍を持ち、右に振るう。剣閃を躱し、爪を立てる。
お互い一撃を入れられない攻防が続く。
何度目かの激突。アリスティアが突き立てた爪を、照は柄で防ぐ。摩擦が起こり、火花が舞う。
アリスティアの爪を振り払って、両者、再び距離をとっての睨み合い。
しばしの沈黙。
その沈黙を破ったのは照だった。
「もう一つ聞いていい?」
「なんじゃ?」
「まだ本気じゃないよね?」
アリスティアは黙ったままだった。
重く冷たい、鉛にも似た空気が立ち込める。
「……はっ」
ようやく口を開いたかと思えば、アリスティアは大声で笑い出した。
「にゅあははははははは!!」
ひとしきり笑った後、アリスティアは照に向き直り、満面の笑みを浮かべた。まるで新しいおもちゃを得た子供のような笑みだ。
「よい、良いぞお主。こんなに楽しいのは久しぶりじゃ!」
「それはどうも」
「……よし。では見せてやろう。我が本気をな!」
そう言ったアリスティアの纏う雰囲気が変わった。目つきも鋭く、顔つきも強張る。
照は未だ感じたことのない怖気のようなものを覚えた。目の前の、見た目にはちんちくりんな魔王の姿からは想像もつかないほどの、巨大な何かが潜んでいるように思えた。
「……来る……!」
とてつもない予感を感じて、照は一言だけ呟く。
「はああああああああ……!!」
アリスティアが気合いを入れると、周囲の空気が収縮して、アリスティアに吸い寄せられる。……否。空気が収縮しているのではない。アリスティアの体内の魔力が収縮しているのだ。空気は魔力の収縮に伴って吸い寄せられているに過ぎない。
アリスティアの身体が薄い緑色の光の膜に覆われる。
「……、なんて魔力……! 体中にビリビリ来る……!」
「でやあああ!!」
掛け声とともに収縮した魔力が解放されると、アリスティアの全身から緑色の魔力光が炎のように吹き出す。立ち上る緑色の魔力光がアリスティアの"凄み"を表しているかのようだ。
「……すご……」
これには照も思わず口に出してしまった。これほどまでに練り上げられた魔力を持つものを、照は知らない。
まさに達人の域。そこに達するまでにどれだけの年月が必要なのか、照には想像もつかない。
アリスティアは緑色の魔力光を纏ったまま構える。
「では行くぞ。ここからが本番じゃ!」