73:グノーシス的宇宙論
「宇宙卵、という概念を知っているか?」
「宇宙卵……?」
突如として出てきた概念に、天宮照は戸惑いを見せた。
宇宙卵――――聞いたことはある。ただ、聞いたことがあるだけで説明ができるかと言えばそうでもない。せいぜいが、
「確か、宇宙が生じる前の状態を卵に例えたもの、だったような……」
というくらいのものだ。
実際に宇宙卵という概念は、世界各地の神話を紐解けば出会うことができる。例えばインド神話におけるブラフマンの卵、オルペウス教における創世神話などだ。卵が割れるというイメージから、天地開闢を連想したものだろう。
ただ、それはアリスティアの言わんとしていることからは少しだけズレているようだった。
「この場合は宇宙を卵に例えた概念じゃ。それがこの宇宙の真理をうまく表しておる」
……この語り出しから想像はついていたが、いきなり途方も無い話が飛び出してきた。
「なんだそりゃ。いきなり付いていけねえぞ」
と、エルタイルも困惑の表情だ。
「しっ。黙って聞く」
照はエルタイルを諌めるが、正直な話、照自身も困惑の色を隠せなかった。他の二人、カンマとルゥコはというと、カンマの方は……寝ている。早い。ルゥコは話を必死に理解しようと努めているようだった。ともすれば頭から湯気が出そうな。
そんな照たちにはお構いなしといった様子で、アリスティアは語り続ける。
「この宇宙はな、閉じた卵のような構造をしておるのじゃ。宇宙の中心に天界、その周りを覆うように境界、更にその周りに外殻……この世界のある場所といった具合にな」
「この世界は、私たちが住んでいた世界の外側……?」
言われて初めて、照は「そんな話あったな」と思い出した。
あれは誰にされた話だったか……そう、オモイカネだ。あいつの話はそれはもうつまんなかった。生まれたばかりの照に教育と言っていろいろな情報を詰め込まされたものだ。それを思い出せなかったのは、照たちの文化では呼び名が違ったからだろう。
それはともかく、この宇宙卵という概念は、天界を卵の黄身とすれば、境界を白身、外殻を卵の殻として考えるものだ。照が最初考えたような創世神話上のものではない。
ではこの宇宙とはどうやってできたのであろうか。照が記憶しているオモイカネの話を引っ張り出してみれば、確か、「何も無い海があった。そこに波が立った。波はうねりを増し、ゆらぎとなった。ゆらぎは広がり、やがて天地となった」というものだ。まあ、これは一つの説だが。
「そうじゃ。と言っても、外殻の殆どは、不安定で星など生まれぬ脆弱な環境じゃがな。実際、この宇宙の質量の殆どが境界に集中しておる。物質も魂も、境界に集まりやすいんじゃよ」
なのに境界と言うのは不思議だな、と照は失笑を漏らした。
「じゃあ、天界ってのは、何なんだ?」
エルタイルの問いに照が答えることは恐らくできたであろうが、アリスティアに任せることにした。
「天界とは、簡単に言えば、"神の住む場所"じゃ。そこには魂の神性を高め昇華した真なる神が存在する。そうじゃな、お主らの言葉で言うならば、プレーローマ。高天原。真なるオリュンポス。デーヴァローカ……辺りかの」
天上の世界、プレーローマ。解脱を果たした魂、救われた魂が行き着く場所。完全なる世界、永遠の世界。
そのように呼ばれる天界は、その魂の波長が親しい者同士でコミュニティを形成する。日本神話で言う高天原もその中の一つだった。
「随分とこっちの神話に詳しいようで」
「ここで重要なのは、いずれも神というものは人がその魂を昇華させたものということじゃ。その意味、わかるかの?」
確かに、神というものの興りはそれだ。高潔な魂、優れた指導者、英雄……そういった存在が信仰を集め、その魂の次元を昇華した者達……それが神。
だがそれがどうしたのか、てんで話が見えない。
「いや……」
「……魂を昇華できなかったものもいる……ってこと?」
「それだけならまだいい」
まだいい……とはどういうことか。
……まさか。
「魂を昇華させるものもおれば、その逆、魂を転落させるものもおる。では、昇華した魂が天界に向かうならば、転落した魂はどこに行く?」
その答えは、照の予想通りのものだった。
その逆。つまり、境界から魂の次元が「落ちる」場合もあるということ。そしてその魂は、どこへ行くのか。
……そう。
「外殻だ」
「その通りじゃ。このように、高次から低次へ魂を下ろすことを"存在の流出"と呼ぶ」
存在流出。高次から低次への魂の転移。その際、まるでエネルギー状態が高い真空から低い真空へ相転移するように、膨大なエネルギーが放出されるのだとか。
「……でも、何だってそんなことを」
正直な所、未だに話が全く見えない、というのが照の感想だった。
「急くな。今までのは前提の話じゃ」
アリスティアは息を吐き、一拍置く。
「こんな話を知っておるか? グノーシス主義神話において、低次アイオーン・ソピアーのプレーローマからの転落とその救済の話を」
その話なら知っている。グノーシス主義神話に語られるソピアーは、至高神プロパトールから流出して生まれた神の、その最下位のアイオーンである。
至高神プロパトールは、同じアイオーンであっても見知ることのできない神だった。唯一プロパトールを見知ることができたのは同神から直接流出した"ヌース"のみ。
しかしソピアーは伴侶となるテレートスの了解なしにプロパトールを知ろうとした。その企ては失敗に終わり、絶望によって彼女は天上界プレーローマから転落してしまう……そんな話だった。
「結局、ソピアーは境界の神ホロスによって救済されるが、その間にソピアーは自らの情念から切り離された分身を中間世界に生み出してしまうのじゃ。それが世界の創造主、ヤルダバオトであり、そうして創られたのがコスモス、悪の宇宙」
この宇宙はアイオーン・ソピアーの過失によって生まれたヤルダバオトの創ったものであり、真なる神、至高神プロパトールの創ったものではない。故にこの世界は悪である。
それが、グノーシス主義の伝える創造神話だ。
「……話を戻そう。存在流出した魂は、それが真性神のものであれ人間のものであれ、例外なく神性を持つ。その魂が受肉すれば、新たな神の誕生じゃ」
魂が真空の相転移のようにエネルギーを放出するのであれば、神性を持つのも不思議ではない。受肉もそう難しい話ではないだろう。
「そして外殻には星になれない物質達が充満しておる……ここまで言えば、もうわかるじゃろう?」
「……まさか」
今までの話を総合してみると、分かる気がする。
存在流出。グノーシス主義の創世神話。神性を持つ魂。星になれない物質たち。
それらをつなぎ合わせると、答えが見えてくる。
その答えを、アリスティアは静かに語った。
「この世界は、生前報われなかった境界の魂たちによって築かれた世界なのじゃよ」
そう考えると、不可解だった部分の説明が付く。
例えば、あの太陽神サン・ビュナスの最後の言葉……。
「……そうか。だからあのカミサマはアマテラスの名前を……」
となると、サン・ビュナスはワカヒルメが存在流出した姿だということになる。とはいえ似ても似つかないあの姿、わからないのも無理はなかった。
そもそも照自身は記憶の中でしか知らないのだが。
「世界の成り立ちはわかったけど、それが悪魔と何の関係があるんだよ」
「そう急くな。話はこれからじゃ」
焦れったいと思ったのか、エルタイルが詰め寄るも、アリスティアはそんなエルタイルを制して話を続ける。
「存在流出し、外殻の海に流れ着いた偽性神は、己が生前に果たせなかった願望、欲望を果たすための世界を創造する。じゃが、奴らには一つ欠陥があった」
「欠陥……?」
「テラスよ、お主は神威を使う時、どういう心持ちでいる?」
そう言われて、答えが浮かんできた。
「そうか、自律心……!」
「その通り。奴らは神威を使用する際に重要とされる自律心を持ち合わせてはおらぬ。それが意味するところは、テラス、お主がよくわかっておろう」
確かに、その通りだった。
「権能の行使……神威を使う時、宇宙に歪みが生じる。だから本来は余計な歪みを産まないように自らの心を律さなければならない……」
波風を立てず、凪いだ海のように、されどうねりを内包した心持ちを維持すること。照たちはこの境地を"凪の境地"と呼んでいる。
それは、そうすれば神威の威力が強まるとかそういう話ではない。もっと根本的な、宇宙そのものの維持に関する話だ。
「自律心無き神威は宇宙を大きく歪ませる。結果、宇宙に穴が開く。穴が空いたらどうなると思う?」
「外殻の更に向こう、宇宙の外、虚無の世界にエネルギーが漏れる」
「エネルギーが漏れれば?」
「新たな宇宙が、漏れたエネルギーから生まれる……」
「……って、おい。まさか……」
話を聞いていたエルタイルが、なにか思い至ったようだった。
そして照も、この問答の中で既に答えを得ていた。
「そのまさかじゃ」
どうやらその答えは、正しいもののようだった。
……つまり。
「虚界悪魔とは、偽性神が世界を創造した時の歪みから生まれた存在じゃ」