7:主よ、我らを救い給え
マリアとラザルは木々の間を走り抜けていく。目的地の影は未だ見えない。
ずっとこんな調子だ。肺が苦しい。息をすることさえおぼつかない。そんな中、マリア達は走り続けた。彼らの避難場所……高台の塔めがけて。
村に着いてからこれまで、マリア達があの黒い紋様の獣達に出会うことはなかった。
「おっ……おねえちゃ……もう、だめ……っ……」
「もう、少しよっ……、あとちょっとっ……がんばって……!」
自らの息ですらも危うい状態だったが、今にも止まりそうなラザルの手を引っぱり、マリアは走る。
胸は痛むし、喉は渇く。足はもつれるし、身体も熱い。頭に血も回らなくなってきているような気さえする。きっと、ラザルも同じなのだろう。
それでも、マリア達は今立ち止まってはいけなかった。いつ獣達に出くわすかもわからないこの場所で……
「テラスお姉ちゃん、大丈夫なのかな……」
「……大丈夫よ。あの方なら……!」
「でも……」
走りながら、そんな会話をひとつ、ふたつ。マリアは天宮照を信じていた――それは盲信とも言える――が、ラザルの顔には一抹の不安がちらりと見えた。
「……今は急ごう、ラザル」
それから、マリア達は走ることに専念した。とうに身体は限界を迎えていたが、マリア達は駆け続けた。その先に生きる道があると信じて。
だが、その道は阻まれる。
「お姉ちゃん!」
「回りこまれた……!?」
群れから外れたのだろうか、目の前に黒い紋様を身体に刻んだ狼が一匹。その輪郭はどこかぼやけて見える。しかしその持つ双眸はぎらぎらと目の前の獲物を映していた。
獣は体勢を低くして、飛びかかってくる。
「っ……!」
恐怖が一瞬脳裏を過ぎり、それからすぐにマリアは照に言われたことを思い出して、手に持った札を投げた。
獣の勢いは留まらず、マリアの喉元を狙う。
だが、牙は突如その場に現れた見えない力に阻まれ、折れる。大きく肥えたその牙が、獣から切り離されて地面に突き刺さった。
甲高い鳴き声を上げて倒れる獣に対して、しかしマリアの投げた札は容赦もなく追撃にとその身を炎で包み、獣の身体を穿った。
そして、獣は沈黙する。
「……すご……」
呆けている場合ではない。気を取り直して、二人は山道を駆ける。
少しずつ塔の頭が見えてきた。マリアとラザルの足が心なしか早くなる。
そして、彼女達はたどり着いた。
「マリアちゃん達、無事だったのか!?」
「ええ、私達は……!」
「親父さんと奥さんは!?」
「お母さんは――――」
「無駄口叩くな! 扉開けるぞ。ロック外せ早くしろ!」
「ロックなんかしてねえよ! どうせヤツらすり抜けてくんだぞ!」
マリア達は、先に避難していた村人の手引きを受けて塔の中へと入ろうとする。最初にラザル、それからマリア。
だが門を開いている最中、塔の頂上で見張りをしていた男性が上げた声によって、その行動は止まる。
「お……おい、ウソだろ? サムソンまで!」
地鳴りと共に巨大な影が姿を表す。
マリア達がふり返ってその姿を見ると、そびえ立っていたのは大人の男性が五人縦に並んでも足りないような大きさの、身体からいくつもの植物を生やした巨人だった。
「サムソンって、"怒涛のサムソン"か!」
「まじかよ、山の守護者が?」
マリアは巨人の姿に、小さい頃に聞いた話を思い出す。
その巨人は、異様な姿と岩をも砕く怪力から、村の住人たちからは"怒涛のサムソン"という名で呼ばれてた存在だ。
誰をも寄せつけず、誰をも吹き飛ばす。しかしサムソンは温厚な性格で、山の秩序を守る守護者――そう昔から云われ続けてきたのだ。
そのサムソンが今、黒い紋様を伴ってマリア達の前に佇んでいる。人を襲わせる、黒い紋様を伴って。
「ああ、もう嫌っ。なんでこんな目に遭うのよ!」
「怖いよ、ママぁ……!」
恐怖に怯える人々の声。
胸から伝わる鼓動と脈の音が早まるのを感じながら、マリアは息を吐く。
――――嗚呼。
この光景は、まさしく絶望と言っていいのかもしれない――――
「お、お姉ちゃん……!」
思わずマリアは虚空を見つめ、全てを投げ出そうとしていた。照に渡されていた札も、サムソンに通じるかどうかわからない。
黒い紋様に侵された獣達には、人間の造った防壁など意味をなさない。彼らはそのことごとくをすり抜けてくるからだ。
巨人の肢体がその特性を持ったのなら、その解は誰にでも導ける。
即ち……圧殺。
「あ……ああ、来るな、来るなぁ……っ!」
「死ぬの……? 私達、こんな形で死ぬの……!?」
「ヤダ……ヤダよぉ……っ!」
塔の中から聞こえてくるのは、悲痛なる声。
だが現実はその声に対してさらなる恐怖の種を植え付けるかのように、サムソンの影から獣の群れを彼らに見せた。
一歩一歩、サムソンが足を踏み鳴らして塔に近付く。まるでそれは彼らに迫る死へのカウントダウン。
「あ……あ……」
鼓動も呼吸も、とっくに臨界。
それでもなお、まだ早く打ち鳴らそうと心臓はその鼓を打ち続けている。
早く、もっと早く。
今にも張り裂けそうな胸がマリアに痛みを訴えるが、それでも焦りと恐れは留まることを知らない。
地に膝をつき、両腕を垂らし、虚ろな眼で空を見上げ、マリアは力なくただ思案に明け暮れる。
――――嗚呼、神様。
あなたは本当にいらっしゃるのですか。
いるのであれば、わたし達をお救いください。
暗雲に呑まれたこの世界に、どうか光をもたらしますよう――――
そう願った時、マリアの脳裏に、照の声が過ぎる。
「もしどうしようもなくなった時は、この言葉を繰り返し唱えること」
それは、村で別れる前に照から伝えられた言葉。「きっとあなた達を救けてくれるはずだ」と、照はそれをマリアに授けたのだ。
……その言葉を唱える時があるとしたら、それは今だった。
両手を組み、身を屈ませ、目を瞑り、何度も何度もその言葉を繰り返す。
みなに幸いがありますように。みな災いを振り祓いますように。
どうか、昏き世界に光を賜りますように。
どうか、神様。
どうか――――
「祓いたまえ、清めたまえ、守りたまえ、幸いたまえ……」
魔獣の足音、地鳴り、巨大な何かが振るわれたかのような、鈍く空を切る音。
迫る轟音。
猛る咆哮。
巨人の雄叫び。
湧き上がる悲鳴。
なにもかも。なにもかも。
すべてがマリアの意識から閉め出されていた。
そうして一心に、その言葉を繰りかえし、繰りかえし、繰りかえし声に出す。
「祓いたまえ、清めたまえ、守りたまえ、幸いたまえ……!」
強風に煽られ、マリアとラザルは吹き飛ばされる。
塔の壁面にぶつかり、とうに限界を迎えていた意識が朦朧とする中、マリアは巨人の硬い肌に覆われた拳が迫る瞬間を見た。
サムソンの右腕がマリア達めがけて振り下ろされたのだ。
とうとう終わり――――
そう思った時、暗雲の立ち込めた空に光が現れた。
強い、それは強い光だった。木々の向こうから昇る、夜明けを告げる朝陽のような明々たる光だった。
光に反応したのか、巨人の拳は止まる。獣達の動きもまた。
「……何の、光……?」
突然のことに、マリア達は空を見上げる。
マリア達だけではない。塔の中の人々、サムソン、獣達。この場に存在するあらゆるものが、光の球を見つめていた。
光の球には人型の影があった。それは、逆光によって描き出されたシルエットだった。
マリアはその姿を知っていた。
六枚の透き通る翅を広げ宙を舞う姿。
背負った光輪から発せられる光に照らされてきらきらと光る、黒く長く、綺麗な髪。
白い肌、白い衣に赤い下衣。
目もくらむほど強いはずなのに、その光はとてもやさしくて、暖かくて。
この光は、この輝きは、ただの「救世主」という言葉では言い表せない。あの時感じたことは、今再びの実感となってマリアの中に訪れた。
――――嗚呼。
やっぱりあの方は。
あの方は――――――――