4:その光は福音のように
微かに感じる草の匂いに鼻を刺激され、天宮照は目を覚ます。
起き上がると、周りには背の高い木々と、やや高めに傾いた坂道がある。どうやらここは山中らしい。
空は……暗くてよく見えない。鬱蒼と茂った木々の中で、日が遮られているのかもしれない。もしかしたら夜なのかもしれない。簡単な話、視界はすこぶる悪かった。
立ち上がり、服に付いた土や葉を払い落とす。
あの時のままだから、今の格好は巫女服だった。
「……この世界じゃだいぶ浮くだろうなあ」
ちょうど気になったので、声が出るか確認がてら、照は独り言のように言う。
結果としては、問題は無い。ただ、誰かに聞かれでもしたら、すごく恥ずかしいと思ったので、独り言をつぶやくのは控えようと照は思った。
体に異常がないことを確認したら、その次にすべきことは……周りの状況の把握だ。兎にも角にも、それができなければ話にならない。異邦を訪ねて、何も知らず、何もできずに終わる。そんなことなどあるだろうかと自問する。
耳を澄ます。小さなせせらぎが聞こえる他は何もない。近くに川があるということはわかった。だけどそれ以外の情報は得られそうにもない。
川を下っていけば、山を抜けて開けた場所に出るだろう。そう思い照は歩く。
道の途中で、木々や地面が黒ずんでいる様を見つけた。それも一つではない、かなりの数が見つけられた。
仮想空間に発生したブロックノイズのような、そんな三次元的な位置情報のことごとくを無視して広がる、不可解な染み。
まるで何かに侵蝕されたかのように、そこだけ穴が開けられたかのように。
そんな不気味さを感じつつ、川に沿って進み続ける。やがて斜面は緩くなっていき、視界は開ける。
……その先に広がっていたのは、見果てぬほど続く灰色の雲と、時折降る黒い雨、所々で立ち上る幾何学的な黒い破片たちだった。そして、世界を染める黒があちらこちらで広がり続けている。
本来ならば美しいはずの、目に映る限りに広がる平原は、お世辞にもそうとはいえない惨憺たる有様だ。
言うまでもなく、それは異常だった。
「ひどい世界……」
独り言は控えようと思っていた照だったが、その言葉は自分の意志に反して出てきた。
そうだ。これは紛れもなく酷い世界だ。そうとしか言いようがない。明らかにこの様相は世界の終末、といった……照はそれ以上を考えたくなかった。
――――だってこんなの、夢と思いたいじゃないか。「起きたら終わるもの」だって、そう。
山には生き物の姿はどこにもなかった。陽の光もなく、命の気配もなく、世界を蝕む黒い雨が降りしきる。
現状を把握するにつけ、悩みの種も育っていった。
"救世主"になる……とは言ったが、こんな世界で一体何をすれば良いのか。何かできるのか。そもそも何も説明もなく情報もない時点で、謀られたという思いがすごく強い。
いや、強いというか、謀られているのを承知で来たのだが。やるべきことも単純明快、この世界を救うということなのだが、どちらにせよそれは最終目標で、今の課題とは言えない。
さてどうしたものかとため息を吐いた時、ふと遠くからの音を聞く。
「なに……?」
それは悲鳴にも似た叫声。擦り切れるかのような喚声。
ああ、子供が泣いている。
それを認識した時には、身体は既に動いていた。何が起きているのか……いやそれはどうでもいい。もうとっくに分かっている。
見えてきたのは、ある種これもまた異様な光景だった。
「はぁっ、はぁ、はぁっ……!」
少女と、少女に手を引かれた男の子は走る。ただひたすらに。
彼らに追い縋る、黒い痣を浮かばせた獣達。狼、猿、そして鳥。種々の混沌とした面々が姿形を変えて、我先に「この獲物は自らのものだ」などと言わんばかりに切迫する。その中には鹿や羊もいた。本来ならば草を食むはずのもの達も。
なるほど確かに聞いていた通りだ。人を襲う獣。人を喰らう獣。この世の何もかもが人を追い詰めていく地獄の様相。
それがこの世界、ファルステラの現状だった。
「お、お姉ちゃん……!」
「大丈夫、大丈夫だからっ……!」
そう言う少女の顔を見ると、その顔はひどく曇っていた。焦っていた。その様を言い表す言葉がたとえ男の子に無くとも、その感情は痛いほど伝わってきていた。
大丈夫などではない。安心もできない。もはや希望もなく、ただ死ぬまでの時間稼ぎをしているだけ。もう頼るものは神様くらいしかいない。
だというのに、この世界の神様は…………
だから、もうなんにもない。
現に獣達はすぐそこまで来ている。人間の足程度ではすぐに追いつかれてしまうのだ。それを僅かな時間でも逃げてきたこと自体がもう奇跡と言えた。
だが、それも長くは続かない。
獣達に追いつかれるよりも先に、男の子の足はもつれ、つまづく。そして、崩れた。
少女は後方で倒れた男の子に気付いて振り返り、そして叫ぶ。
「ラザル!」
悲痛な声。意にも介さず、獣はラザルと呼ばれた男の子に食ってかかろうとした。
少女は今にも消え入りそうなか細い声で、居もしない誰かに祈った。来もしない何かに願った。
自分はいいから、あの子だけは。
大切な、大切な弟だから。
「誰かっ……誰か助けてっ……!」
ああ。それでも。
祈りは決して届かない。奇跡なんか起きはしない。人の言葉も介さない獣はそんなものを聞き入れようとはしないのだ。
だが――――その祈りを聴き届ける者がいたとしたら。
そんな存在が在ったとしたら。
少女と男の子の眼の前を、獣達の爪牙の前を、火の弾丸が横切った。
風を切り、空気を燃やし、熱風とともに照は獣達の鋭い眼光の前に立った。
獣は半歩下がり、突然の乱入者を睨め付ける。
「――――届いたよ、おねーさんの言葉」
獣の視線を無視して、振り向きざまに照は言った。
突然現れた乱入者に獣達は足を止めた。だがそれも恐らくは一瞬のこと。今この瞬間にも、獣達はまた襲い掛かってくることだろう。
だから、この隙に言いたいことは全部言っておく。
「ここは任せて。絶対離れないでね。それから……よく頑張ったね、ふたりとも」
「あ、あなたは……?」
「私? ……そうだね、とりあえずこれだけ言っとくよ」
少女の訝しむ目を尻目に、照は獣達へ向き直る。そして、告げる。
「どこか遠くから来た救世主、みたいなものかな」
「救、世主……?」
獣達が殺到する。とうに彼らの標的は照へと移り変わっていた。
無論、それは照の意図したことだ。このような形で割って入れば、そうなるのも必定。敵意を向けられて大人しくできる獣などいない。
だからこそ、照がそれらを一掃することは簡単だった。
右の手を上げ、五本の指をぴんと張る。目を閉じて、呟く。
「我が灯火を受けよ――――!」
照は自らの体の中の何かが少しだけ削れていくような感覚を覚える。指先からひとつずつ小さな炎が灯る。
開眼し、睨め付ける。
炎の灯った指を折り、空気を弾き飛ばす要領で右手の指を広げる。
すると炎は照の手元を離れ、襲い来る獣達に一直線に飛ぶ!
弾丸のような炎は獣の群れを貫き、その尽くに火を燃え移らせる。獣達は炎の一撃だけでほぼ即死していたようだったが、一部生き残った者は自らの身体に燃え上がった炎に悶え苦しむ。
だがそれもすぐに収まり、静寂が訪れる。
その場に残された炎だけが、黒に蝕まれ暗雲に閉ざされた世界の中で、燦々と明るく輝く光だった。
「さて、と……」
振り返って、照は尻餅をついたままの男の子を見る。
そこで気付いた。
――――ああ、この男の子も、少女も、今二人は同じ目をしている。
それは、知っている目だった。
空いた口を閉じるのも忘れ、惚けたように何かを見つめている。
それは、眩しいものを見るかのような目だった。
超常的な存在を前にした時の人間の反応は、大きく分けて二つ。その存在に恐怖を抱くか、はたまた畏れ敬うか。
それは、何かを崇めるかのような目だった。
視線の先は、一人の"少女"。
彼らは、小さな太陽を見ていた。
・・・
――――その時、わたしは、突然現れて、怪物たちを焼き払ったその人に見惚れていました……。
少女マリアは語る。その邂逅を。
炎によって空気が弾けるその音が、まるで福音にも似た響きを以て体を伝う。
熱く、赫い何かがマリアの胸で早鐘を打つ。
――――だってその人は、炎が放つ光が後光となって照らすその人の姿は、とても綺麗で、かっこよくて、神秘的でしたから。
一撃で獣を屠った何者かは、見た目にはマリアと歳はそんなに変わらないように見える。それでも、確かに感じられる何かがあった。
救世主……その人はそう言った。もしそうなら、マリアの願いは届いたといえる。
――――ああ、でも。
――――この光は、この輝きは、この暖かさは……
救世主という言葉では足りない。
根拠などない。だがどこかそう想えた。
マリアの弟ラザルもまた、そうしたものを感じていた。ともすれば、マリアよりも強く想う所があったのかもしれない。
故に……その場の危険さも忘れ、二人はただその者を見つめていた。二人にとって、この一時はとても長く感じられた。実際の時間がどれだけ流れていたのか、二人にはわからない。
――――でも、どうでも良かったのです。
だって。
だって――――――




