7魔法少女は眠る
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生まれてこの方、長編小説を読み切ったことなんて一度もない。本を読むよりも、友達と喋っている方がよっぽど楽しい。少しばかり日記をつけるのは好きだったから、小説を書くのは嫌いではない。でも、好きでもない。文芸部なんて、入る柄ではなかった。
「急ぐっぴ!」
空き教室で着替え終え、フリルとレースをたなびかせながら走った。中庭を突っ切った時、あそこのベンチから校舎を見上げたことを、また思い出した。雑草や小さな花々をヒールで踏みしめて、駆け抜ける。ルルカル・ロッドを握り直して、校庭へと続く裏口の扉を開け放った。
「魔法少女ルルカ参上! 悪事はそこまでよ!」
いつもの前口上を叫ぶ。校庭には大きな地割れができていた。何本もの亀裂が走り、その隙間からは黒い奈落が見えている。足を踏み外したら最後、二度と這い上がって来られないように思われた。
ルルカル・ロッドを構えたまま、辺りを見回す。校庭は静まり返っていて、人影どころか怪物の姿もなかった。
「……いない?」
「いや、まだ近くにいるっぴ。気を抜いちゃダメっぴ」
とはいえ、音から推測するに、今回の怪物はかなりの大型だったはずだ。近くにいるのなら、すぐに気付くと思うのだが。
「それ、ほんと? 何も見えないけど――」
口から出かかった言葉は、最後まで発せられることなく失われた。
校庭に刻まれた亀裂のうち、最も大きいもの。その闇の底から、赤い眼光がこちらを睨んでいた。ずるり、ずるりと這い上がってくる音がする。背筋が粟立った。
丸太のように太い右腕が、亀裂から伸びてきた。次いで左手。頭。胴体。足。その怪物は、地上に現れた。黒くて、私の背丈の何倍もの大きさで、凶悪な二本の角を持った――牡牛。
呼吸が浅い。
まさかこんなにも唐突に、なんの脈絡もなく仇に巡り合うなんて、誰が予測できるだろうか。牡牛は一年前に私を食い殺した時と寸分違わぬ姿で、そこに立っていた。
「ルルカ、チャンスっぴ。復讐を果たす時が来たっぴね」
私の肩から降りたピッピは、感情のない目で私を見上げた。ライトパープルのふわふわの体毛。うさぎのような長い耳。薄い羽。愛らしいピッピの姿が、なぜだろう、今はやけに恐ろしげに見える。
「さあ、平和のために戦うっぴ」
敵の方へ向き直る。私の脳はあの怪物をデフォルメして認識していたのだと知った。牡牛は記憶の中よりも何倍もグロテスクだった。二足歩行の立ち姿は、ミノタウロスを彷彿とさせる。両腕はだらんと垂れ下がって、教科書で見た猿人のようだった。それでいて下半身は異様に発達している。あの巨体なら校庭に地割れをつくるのも容易だろう。しかし、何よりも目を背けたくなるのは、その顔だ。醜いなんて言葉では言い表せない。大きな口からは篭った息が絶えず吐き出されていて、口角の辺りから唾液が漏れていた。血のように赤い目は、ぎょろりぎょろりと周囲を窺っている。目が合った。
――平和。私はそんなありふれた言葉のために、あれと戦わなければいけないのか?
竦む心を奮い立たせる。ルルカル・ロッドを構えた。大丈夫、大丈夫。私は魔法少女だから。猛然と迫ってくる怪物を迎え撃つ。
――そう、私は魔法少女。他の人とは違う。フミとは違う。
友達だと言っていたくせに、心の中では私に線を引いていたフミが許せない。あれは裏切りだった。
「ルルカル・ショット!」
フミの心に触れたと思った瞬間は、何度もあった。フミの小説を読んでいる時。私の小説の感想をもらっている時。部室で何気ない会話を交わしている時。それらも全て、フミにとっては壁の向こうでの出来事だったということか。
「マジカル・リリカル・ルルカルチャージ!」
私はずっと、フミを見ていたのに。友愛と恋愛の差はあれど、二人の関係に愛情はあると思っていたのに。フミは対等な目で私を見てはいなかった。
「ルルカ・エターナルインパクト!」
――本当に?
ステッキから放出された七色の光線は、すんでのところで牡牛に当たらなかった。空振りの光線は光の矢となって、昼時の青空へと突き抜けていく。
急に、ひどい思い違いをしているような気がしてきた。対等な目というものは、果たして私に備わっていたのだろうか。
フミと話していた図書委員の彼女が思い浮かぶ。クラスでは地味で、目立たない子。以前からフミとは親しげだったけれど、気にも留めなかった。……それはなぜ?
私の方が勝っていると、心の奥底で見下していたから。
私の方が可愛いと見下していた。あの子だけじゃない。鈴子のこともちょっと変な子だと見下していた。クラスで怖がられていて友達がいない雪嗣を協調性のない奴だと見下していた。静かで控えめなフミを、下に見ていた。
鈴子、自分が浮いてることに気づいてないでしょ。鈴子は空気が読めないもんね。でも私は鈴子と仲良くしてあげるよ。雪嗣ってさ、人と違う自分がかっこいいとでも思ってるの。恥ずかしいやつ。クラスでまともに話せるのは私だけだよね。仕方ないから私が話してあげるよ。
ねえフミ。私、可愛いでしょ。私と付き合いたいでしょ。いいよ、付き合ってあげる。……なんていう、上から目線。
「再チャージ、フルスロットル! マジカル・リリカル・ルルカルチャージ!」
そういう悪魔が、私の中に潜んでいたのだ。
「ルルカ・エターナルインパ――」
突然、私の右腕に衝撃が走った。牡牛の拳が直撃して、右手の力が抜けた。私の手を離れたルルカル・ロッドが宙を舞うのが、スローモーションで見えた。
カラン、とその重さにしては軽い音を立てて、ルルカル・ロッドが地に落ちた。それを拾い上げる前に、牡牛の大きな手が私を捕らえた。私の胴体を掴み上げて、おもちゃのように持ち上げる。
「うっ……ぐ……!」
腹が圧迫されて苦しい。牡牛の手は火傷しそうなくらい熱かった。熱い。痛い。苦しい。このまま握り潰されるのかと思ったが、牡牛は凶暴な牙を見せびらかすように大口を開けた。
そうか、食べるつもりなのか。そういえばあの時も、ぐちゃぐちゃに食い殺されたんだった。
間近に迫ると、皮膚のあちこちにある歪な凹凸まで良く見えた。おまけに吐き出される息からは、鼻につく異臭がする。ああ、なんて醜い。
いや、私の方がずっと醜かった。今ならわかる、異形の怪物は私の心が生み出したものだった。
空を見上げる。雲一つない晴れやかな青空だ。日差しが暖かい。もうすぐ夏が来る。
口を開けた怪物の影で空が覆い隠された時、力を抜いて目を閉じた。目元がぬるい。
***
ぐちゃ。ぐしゃぐしゃぐちゃぐちゃぐしゃぐしゃぐちゃぐちゃ。
ごっくん。