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4失恋こじらせガール

 しかし、何がどんなに違おうとも、私はフミが好きだったのだ。

 フミ。フミ。フミ。

「え、何、踏み絵? るか、いつから隠れキリシタンになったの?」

 購買から戻ってきた小巻は、早くも菓子パンを咥えながら登場した。先程の授業内容を早速活かしている。

 今日の昼休みは、莉々は委員会で不在だ。こういうことはたびたびあって、その日はいつも、中庭のお二人様専用ベンチを陣取ってお昼を食べるのが通例だった。

 弁当箱の包みを解きながら、ぼんやりと校舎を見上げる。隣の小巻が「あ、莉々だ」と指差した。三階の渡り廊下の窓だ。図書委員会の莉々は、大量の本をどこかに運んでいく最中らしかった。

「あいつ、図書委員会似合わないよなぁ」

「じゃんけんで負けたんだっけ」

「そ。本なんて一ミリも読まないのに」

 小巻はけらけらと笑っていたが、そんな明るい気分にはなれなかった。図書委員会ということはつまり、彼もいるということだ。

 そう思ったそばから、窓辺を歩く男子生徒の姿が見えた。――フミだ。

 見たくないのに、目で追ってしまう。それからすぐに後悔した。後ろから現れた女子生徒と親しげに話すフミの姿が目に入ってしまったからだ。あれは確か、うちのクラスのもう一人の図書委員だ。地味で、クラスでも目立たないタイプの女の子。今まで気にも留めていなかった子にすら胸のざわつきを覚えて、溜息をついた。また部室でのあの出来事が脳内再生される。

「思い出したくないことほど何回も思い出すのって、なーんでだ?」

「なんでなぞなぞ風?」

「なんでだと思う?」

 楽しい思い出よりも再生される回数が多いと思うのは、私だけではないはずだ。フミのことを「思い出したくないこと」という言葉で片付けるのは、なんだか違うけれど。

 小巻はクリームパンの袋を破ってかぶりついていた。答えを求めていたわけではないので、私も弁当箱の蓋を開ける。だが、小巻は口内のパンを飲み込んでから、「でも」と返事をした。

「繰り返し思い出すから、耐性ができるってもんじゃない?」

「耐性?」

「思い出した、うっ痛い。思い出した、うっまあまあ痛い。思い出した、もう慣れてきてあんまり痛くない。……的な」

「ああ。……そういうもの?」

「さあ。私はそういう感じ」

 荒療治だな、と思いながら弁当に視線を落とす。長方形の弁当箱のちょうど真ん中を垂直線で区切る、白米の壁。右側は梅干しが乗った白米の領土で、左側にはおかずがひしめきあっていた。まずは我が家の定番、卵焼きを口に放り込む。だしの香りが広がって、最後にほんのりと卵の甘さが舌に残る。

「どこの誰かは知らないし、聞かないけどさ」

 二袋目の菓子パンに手を伸ばしながら、唇を尖らせる小巻。

「るかのこと好きになる男なんて、他にたくさんいるよ。可愛いし、話してて楽しいし。私、友達を見る目には自信あるんで」

 尻すぼみになりながら、そんなことを話してくれた。それから黙ってパンを食べることに集中してしまう。面と向かって褒めるなんて小巻の柄ではないから、すっかり照れてしまったらしい。笑いが漏れてしまいそうになるのを堪えて、嘯いた。

「そうだね。私可愛いからなぁ」

「調子乗るところは可愛くないわ」

 小巻がそっぽを向いた。




 思い出したくないことほど思い出すのと同じように、過ぎてほしくない時間ほど早く過ぎるものだ。

 体感的にはいつもの三倍の速さで午後の授業が終わり、部活動の時間が訪れてしまった。縛られた時間割から解放され、散っていくクラスメイトたち。あちこちにだらだらと居座る人溜まりもできている。

「ルルカ」の衣装が入っているせいで、重さの割にはパンパンに詰まったバッグを肩に掛けたところで、莉々が話しかけてきた。

「るか、今日は部活なの?」

「あー、うん……」

「なあんだ、残念。なかったら遊びに行こうと思ってたんだけど」

「ごめん、またの機会で」

「そっか。ま、息抜きしたくなったらいつでも言ってね」

 いつもの甘えた調子の誘い方ではない。莉々は明らかに気を遣って誘ってくれていた。

 笑いが溢れると、「なんで笑うのぉ」とじゃれついてきたが、私は私自身に対して笑っただけだ。小巻にも莉々にも、相当心配させてしまったらしかった。私は少し周りが見えていなかったのかもしれない。

「るかダメだってぇ」と叫びながら小巻の元へ向かっていく莉々の後ろ姿を見送る。向こうにいた小巻と目が合ったので手を振ると、向こうも口角を吊り上げて振り返してきた。私は良い友人に恵まれた。

 ――が、やはり「混ぜるな危険」であることには変わりない。教室の入り口から顔を覗かせる鈴子が目に飛び込んできたので、慌てて駆け寄った。二人に気付かれたら何かと面倒だ。特に小巻は、鉢合わせたら微妙な空気感になることは明白である。

 鈴子は私を見つけた途端に、ぱっと顔を明るくした。

「いたいた、るかちゃん! 今日は部活来るでしょ?」

「うん、今日は部誌会議だしね。早く行こっか」

 ぐいぐいと鈴子の背中を押して、逃げるように教室を出た。鈴子はそんな私の心配などどこ吹く風で、「じゃあ今日は全員集まるね!」と喜んでいる。

 全員とは言っても、うちの部員数はたったの四人だ。来年の新歓で一年生を確保しなければ即廃部の弱小文芸部である。

 放課後は始まったばかりだ。人で賑わう部室棟を、鈴子は軽やかな足取りで進んでいる。飛び跳ねるように歩く鈴子の踵を見つめながら、後に続く。

 脳味噌が勝手にシミュレーションを開始する。フミが私を見てどんな反応をしたとしても平静を振る舞えるように、あらゆる可能性を想像する。普段の私ならオーバーヒートしているくらい、フル稼働で頭が回転している。

「文芸部」のプレートがぶら下がった扉の前に着くと、鈴子は躊躇うことなくドアノブに手を伸ばした。そんな、まだ心の準備が! なんていう私の密かな叫びは届かない。無情にも扉は開かれた。

 部屋の窓は開いていて、少し冷たい風がひゅうと吹き抜けた。机上の紙束が重石に押さえつけられてもがいている。壁際の本棚代わりのメタルラッグの前に、彼は立っていた。本棚の整理中らしかった。

「フミくん、やっほー!」

 鈴子が声を掛けると、黒々とした目がこちらを向いた。

「鈴子……と」

 フミの視線が順番に注がれていく。拳に力を入れて、目を逸らさないように努めた。

「お疲れ、フミ」

 なんでもないように振る舞いたい。胸を掻きむしりたくなる衝動を抑え込む。

「うん。天音も、授業お疲れ様」

 フミはそう言いながら頷いた。いつもより丁寧に言葉を並べているように感じられた。フミは宣言通り、私との関係を今までのまま継続するつもりなのだろう。そのための努力をして、働きかけてくれている。出来る限り、私もそれに応えたい。目を伏せて走り出したい気持ちを、なんとか堪えた。

 フミは手にしていた本をひとまず戻して、席に着いた。「もうすぐ全員集まると思うよ」と促されたので、私たちも自分の席に向かう。廃棄されかけの古い長机を拾ってきて、二つくっつけただけのそれが、文芸部の会議机だ。

 私と鈴子が隣り合って座り、向かいの机にもう一人の部員とフミが座る。フミは私の斜め前で、一番遠い位置にいる。今日、初めてこの席順に感謝した。正面では顔を上げられなくなるし、隣なんて至近距離では息ができなくなる。

 そんなことを思っているうちに、扉が乱暴に開け放たれて、最後の一人が到着した。

 悪目立ちすること必至の金髪頭と、指定外のジャケット。睨まれたら大抵の人が竦み上がりそうな不良ぶりだ。この北条雪嗣という男も、似合わないことこの上ないが、我が文芸部の一員である。

 彼は鋭い目つきで私たちを見渡すと、「どうも」とぶっきらぼうに言った。

「来たな。雪嗣が最後だよ」

 隣に座った雪嗣に、フミが気安く話しかける。正反対のこの二人、実は幼馴染みであるらしい。

「それじゃあ、全員そろったところで、部誌の原稿の読み合わせを始めます」

 ポケットから取り出した眼鏡を掛けるフミを目で追いそうになる。フミの進行で、「文芸部春号部誌読み合わせ会議」が始まった。全員分の原稿が印刷されたものが配られて、しばらくの沈黙が落ちた。

 窓の外のざわめきが、風に乗って運ばれてくる。今日は風が強い。木々が揺れる音が聞こえる。

 読んで、噛み締めて、紙をめくる。紙をめくる。たまに後に戻りつつ、また読んでめくる。最後の一行まで辿り着いて顔を上げると、みんなはもう読み終えていたようだった。

「はい! まずは私の、よろしくお願いします!」

 元気良く手を挙げたのは、飛田鈴子。音楽を聴いているみたいに小さく体を揺らして、浮ついている。鈴子は自分の作品を読まれることが好きだ。

 今回、鈴子が提出したのは、いわゆる青春小説だ。少女は同級生の少年に恋をして以来、世界の全てが色づいて見えるようになる。――今の私と真逆の状況だ。

 隣の鈴子は感想を心待ちにしている。正面の雪嗣は溜息をついた。

「相変わらずへったくそな文章だな」

 ぐさり、と刺す音が聞こえそうなくらいの一言。鈴子の動きが止まった。

「いつものことながら、飛田の文章はめちゃくちゃだな。人の小説にあれこれケチつけるような真似はしねえけど、それ以前の問題なんだよ、お前のは」

 鋭利な言葉は、躊躇なく次々に繰り出されていく。軽くて小さくて真っ直ぐな鈴子が踏み潰されてしまわないか、私は気が気ではなかった。でも、口を挟むことはできない。雪嗣は何も、悪気があってきついことを言っているのではないと、わかっているからだ。雪嗣が小説に口を出す時は、相応の覚悟を持っている時だ。

「意味も把握してない言葉は使うな。ここ、ここなんて真逆の意味で使ってる。小説の表現は自由だから、あえてそうしてるならそれでも良い。けど、飛田はそういうのを計算してるわけじゃないだろ。なら基本は守れ」

 一通り言いたいことを言い終えたのだろう、雪嗣の容赦ない口はやっと閉じられた。

「……なるほど。参考になるなぁ」

 手元の原稿をじっと見つめて、鈴子はぽつりと呟いた。

 この気まずい空気を打破しなくては、と思い立ち、何か言おうとしたところで、雪嗣が「ああ、でも」と付け足した。

「読みにくいところは多々あったけど、面白かった」

「……え?」

「そうだな……主人公が恋に舞い上がって、校庭の花を見つけたシーンなんか、特に。ただの赤い花って表現せずに、花弁に触れた感触や、蕾の先端の様子を描き出してるのが、青い恋心を暗示してていいと思った。以上」

 鈴子の表情は、花開いたようにぱあっと明るくなった。

 雪嗣のこういうところは、ずるいと思う。普段は口が悪いし、意見は心が折れそうなほど辛口のくせに、こうやってたまに嬉しいことを言ってくる。私たちの書くものをよく見ていてくれているのだ。だから悪いところは指摘してくれるし、良いところはきちんと褒めてくれる。

「雪嗣の批評っていいよな。褒めるのうまいし」

「は? なんだそれ」

 雪嗣は思いきり眉をひそめた。フミも同じことを考えていたのだと思うと、ちょっと面白い。

「私も思ってた。なんか、愛があるっていうか?」

「ね」

「…………は、なんだそれ」

 照れ隠しの舌打ちをする雪嗣に、思わず吹き出した。フミと目が合う。フミも笑っていた。驚いた。私たちは今、自然に喋って笑い合っている。

「あの、雪嗣くん、ありがとう!」

 突然立ち上がった鈴子は、雪嗣の手に飛びついた。握手会に来たファンのように握り締めている。目を輝かせている鈴子に、雪嗣は面食らっていた。

「急にどうした」

「私、雪嗣くんやみんなに意見をもらって、だんだん文章を書くのがうまくなってきた気がする。だから、ありがとう」

「はあ、そりゃどうも」

 雪嗣は右手を握られたままそっぽを向いた。

 その後も、それぞれの小説に対して感想や意見を述べ合った。

 雪嗣の文体は、彼の派手な外見に反して、硬い三人称だ。難解な言葉も上手に用いていて、技術が垣間見える。だが、決してそれらを見せびらかすように使ったりはしていない、奢らない姿勢が好ましい。高校生の教科書に掲載できるような端整な文章だ。全く、本人の気性とは似ても似つかない。

 一方、今回フミが提出したのは、優しい童話風の物語だ。正義の心を持つ青年は、森の魔女と恐れられる少女と出会い、友達になる。青年は人々の噂に左右されることなく、心の目で少女を見つめ、関係を築く。フミの書く物語には、いつも優しさがある。こちらは本人の心根にそっくりだ。

 フミは優しい。諦められなくなるくらい、優しい。諦めさせてくれないのは、むしろ残酷なのかもしれないが。いや、人のせいにするのは良くない。これは私の問題だ。

「最後に、天音の作品についてなんだけど」

 矛先が私に向いた瞬間、用意していた謝罪を述べた。

「間に合いませんでした」

 神妙な面持ちの私に、フミは苦笑した。

「そんなことだろうと思ったよ。天音は締め切り破り常習犯だしね」

「ほんと、ごめんって」

「うそうそ、そんなに怒ってないよ。とりあえず、今日は途中までの感想を言っていこうか。それでもいい?」

 こくりと頷くと、フミも頷き返して感想を述べ始めた。

 鈴子と違って、私は自分の文章を読まれることがあまり得意ではない。頭の中を覗かれているみたいですうすうと落ち着かない。でも、私の内部に足を踏み入れているのは他でもないフミなのだと思うと、恥ずかしさと同時に妙な高揚感も覚えた。鼓動が高鳴る。この感覚は、とっておきの飾り付けをした部屋に友達を招く時のそれと似ている気がする。

「いつも言ってるけど、天音の小説の真髄は、丁寧な心理描写だと思うんだよね。感じたものをそのまま素直な言葉にしていて、わかりやすくて小気味いい。引き算の最高形態って言えばいいのかな。あと、独自の言葉選びが光る比喩表現は、特に好きだな」

 フミが私の文章を褒めるたびに、私自身が褒められているような錯覚を覚えた。

 好きだな、と言った。それは、私の文章が好きってことだ。でもそれって、私のことが好きってことにならない?




「いやならねえよっていうか全然諦めきれてないじゃんかこの馬鹿野郎わたしぃいい!!」

 私の怒りと羞恥心で勢いを増したルルカ・エターナルインパクトは、大きな黒虎の怪物を一撃で木っ端微塵にした。

「ああもう、恥ずかしい奴だな私! いっぺん死んでこいよっ。ていうかなんであんなかっこいいんだろフミは、ふざけてんの? また好きになっちゃうじゃん! いっぺん消しゴムのカスにでもなってこいよ! 私を幻滅させてよ!」

 夕暮れの住宅街に私の罵詈雑言が響く。消し炭と化した怪物を、ヒールの踵でこれでもかというほど踏みにじった。

「魔法少女の力の源って、鬱憤じゃないと思うっぴ」

 家の塀の上にいたピッピがぼやく。私もそう思っていたけれど、ここ最近の魔法少女活動を振り返ってみると、それが最も燃費の良い燃料である気がしてきた。

「ていうかさ、ピッピ」

「ぴ?」

「どうすんの! いきなり部室飛び出してきちゃって、絶対変に思われたじゃん」

「そう言われても、平和の妖精はただ怪物の出現を告げるだけだっぴ。文句は怪物に言ってほしいっぴ」

「その怪物はとっくに消し飛んでるってば……」

 数十分前。部室で私の作品への批評が交わされていたところで、ピッピがブレザーの中に潜り込んできた。突然のセクハラに驚いた私は、慌てて女子トイレへと駆け込み妖精をつまみ出した。平和の妖精が無垢な顔で「怪物が現れたっぴ。魔法少女ルルカ、出動っぴ」と告げてきた時は、引きちぎって中の綿を撒き散らしてやりたい衝動を抑えるのに、とても苦労した。急ぎ部室に戻った私は「親に帰ってこいって言われちゃって」と苦しい言い訳をして、机上に置きっ放しだったスマホを掴み、バッグを抱えて飛び出したのだった。あの後、部室は「天音るかはテレパシーで自宅と連絡を取っている」という話題で持ちきりだったに違いない。せっかくフミと自然に話せていたところだったのに、あれでは台なしだ。

「ぴ、ぴぴ」

「ちょっとピッピ、聞いてるの?」

 怪物の出現は仕方がないこととはいえ、責任の一端はピッピにもある。ピッピがあんな素っ頓狂な知らせ方をしてこなければ私もあれ程動揺しなかったし、せめて「電話で自宅から呼び出された天音るか」程度の認識で済んだかもしれない。

 小鳥のふりでもしているつもりなのか、誤魔化そうとしているピッピに、もう一言何か言ってやろうとした時だった。

「…………何?」

 不意に、何かに見られている気がした。ピッピの視線をゆっくりと追う。向こうの家の生垣。その茂みの中から、黄色い双眸がじっとこちらを見つめている。

「黒猫?」

 その名を口にした途端、朧げだった既視感が急速に鮮明になった。昨日の夕方。今日と同じ橙色の空に紛れて、猫が駆けていった。あの時の猫も、確か黒色だった。

「追うっぴ!」

 ピッピの声に弾かれて走り出す。黒猫は茂みの奥へ逃げ込んでいた。

「家の裏に回るっぴ!」

「わかってるっ」

 同じ猫だ、と直感が告げていた。一度ならず二度までも、結界をくぐり抜けて侵入してくるなんて、どう考えても異様なことだった。

 角を曲がる。茂みから飛び出した猫の後ろ姿を捉えた。ちらりとこちらを見やって、無人の道路を駆けていく。好機だ。直線距離なら追いつける。ヒールがアスファルトを力強く蹴る。距離が縮む。目算であと七メートル、六、五、四、三、二、

「ルルカル・ショット!」

 ルルカル・ロッドを一振りして七色の弾を撃ち込む。後ろ足に掠って、黒猫はもつれながら角を右に曲がった。次こそ足を封じるつもりで、もう一撃分の力を込めながら後を追うが――

「…………え?」

 右折した先には、無人の住宅街が広がっていた。人影どころか、生物の気配は微塵も感じられない。黒猫はどこにもいなかった。

 身を隠すような時間はなかったはずだ。怪我も負っているし、走ることもままならないだろう。それなのにいないということは、一体どういうことなのか。なんにせよ、あれがただの猫ではなかったことには変わりない。

 呼吸を止めて、耳を澄ます。だが、どれだけ待っても風の吹き抜ける音ばかりが辺りに響いていた。結界の中は静かで、打ち捨てられたゴーストタウンのようだった。

 しばらくすると、「ぽてぽて」と気が抜ける足音を鳴らしながら、うさぎのぬいぐるみが塀の上を伝って歩いてきた。

「あの猫はどうしたっぴ?」

「逃げられた」

「逃げられた?」

「言っとくけど、私は本気で追いかけたからね。確かに追い詰めた、って思ったんだけど、視界から外れた途端に消えちゃった」

 ピッピは顎と推測される辺りを、短い手で撫でながら唸った。

「相手が一枚上手だったのか、ルルカの目が節穴だったのか、判断に迷うっぴね……」

 本気で言っているのか冗談なのか、表情のないピッピの言葉は判別がつかない。どちらにせよ腹が立つことには変わりないので、引きちぎって中の綿を撒き散らしてやりたい衝動を抑えるのに、とても苦労した。


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