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いぬみみうさみみ 第8話  作者: 佐倉蒼葉
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第5章

 涙のわけを、ラジオも遠山さんも訊かなかった。ラジオは感じ取っているかもしれないと思ったが、心の耳を塞いでいてくれていたようだった。

 東さんの声がする───


 ≪きれいでいろよ。俺が居なくなったからって、またひとりで生きなくちゃって、意地張るなよ≫

 ≪それはほんとのおまえじゃないんだから≫


 本当の私。

 それは泣き虫で、寂しがりで……

 こんなにも、脆い。

 あの人も同じだった───いつのまに、身を寄せ合い抱き合って。

 壊れそうな心を互いに委ねて。

 うさぎ同士。

 あれは一夜の過ち。その事実が、悲しかった。


「…ごめん、大丈夫だから…」

 やっとおさまった涙。頬を拭うと、「いいんだよ」と優しい掠れ声。

「本当なら医者としてね、こんな風に言えるようになりたかった。だけど山崎に無理だって言われてね、それなら…」

 ラジオが目を細めると、瞳の中の光が瞬いた。

「せめてそばにいる人たちを守れるようになりたいって思うんだ」

 彼の優しい波動が私を揺らしていた。

 そばにいる人たちを……せめてもの愛情と優しさで包み込む。

「うん…。ラジなら、出来るよきっと…」

「ありがとう」

 この上ない優しい笑顔だった。

「やだな、優しくされると…」また涙が溢れそうになる。「パソコ」と遠山さんも微笑んで、私の頭をぐりぐりと撫でた。「まだ泣くとシャンプーの刑だぞ」と笑いながら。すっかり髪がボサボサになってしまった。

「僕らがいるよ」

「…うん」

 ありがとう、という声が掠れた。





 翌日、思い立って美容院に行った。背中に届く長い髪を梳いてくれた東さんの手。そして和泉さんの手───東さんを忘れたくなくて長くしていた髪を、切ることにした。

「どのくらいに切りますか?」

「んー…」少し、迷った。「肩に届くくらい…?いえ、もっと短く…顎くらいまで」

「思いきり行きますね」

と美容師さんが笑った。私も笑って「バッサリやっちゃってください」と言った。

 シャキシャキという、鋏の軽快な音。髪が切られてゆく。あっけなく短くなった。

「前髪はどうします?」

「このままで」とワンレングスのボブにしてもらった。

 形を整えながら細かく鋏を入れる。こうして、人の手に委ねて変わるのは、結構いい気分転換だなと思った。


 ≪きれいでいろよ≫


 東さんはそう言った。意地を張るなと。

 今、私は美容師さんの手によって、新しく、きれいになろうとしている。ひとりで生きるなら形振り構えよ、とも言っていた東さん。

 ───これからもひとりなのだから。

 無論、ラジオの言った『僕らがいるよ』を忘れてはいない。菜摘姉ちゃんもいる。ただ……恋はしないだけ。

 ちくりと胸が痛む。

 和泉さんには、彼女……恋人じゃなくても、好きな人がいるのだから。





 そうして月曜、出勤すると部内がざわついた。

「どうしたのミオ!」

「可愛い」

などと、口々に言って寄ってくる。「気分転換?」と笑って答えると編集長が「リフレッシュしたところで春号、頑張って行こう」。皆「おー!」と盛り上がった。

 一人を除いて。

「どうしたんだおまえ」

「何が?」

「髪」

 伊野さんは開口一番、どうしたと訊ねて真顔でまじまじと私を見た。

 今日は伊野さんの事務所で打ち合わせ。彼はお茶を淹れる手を止めて私の返事を待っていた。

「あ、これ?ただの気分転換よ。特技の貞子が出来なくなったけどねー」

 あは、と笑って伊野さんの反応を見た。

 伊野さんはまた首の後ろに手のひらを当てて……目を逸らして「あれか?」と訊いた。

「この前言ってたやつ」

「何?」

「もし好きな人がいて、離れなくちゃいけない時ってどんな時って訊いたろ」

「ああ、うん…。訊いたけど、それとは関係ないよ?離れるような人も、そもそもくっついた人もいないし」

 半分は嘘かもしれなかったが、私には本当の事だった。

「仁史とも何もないのか?」

「伊野さん、誤解してない?」

 山崎君が無用な気を利かせる事を思い出しながら、

「仁史君とは付き合ってる訳じゃないよ?」

「何の問題もないんだな?」

「もちろん」

「…そうか」

 静かにそう言ってお茶を啜る伊野さん。心配かけたのだろう、少し話した方がいいのか───でもどう話せばいいのかわからない。高瀬真臣、彼が降らした薔薇は、彼の愛の象徴だと思った。

 ≪彼女はどこかで幸せでいてくれればいい≫

 そんな───静かで深い湖のような愛情。

「それより」と私は仕事の話を切り出した。「今度の新作の撮影の日取りと…」

 打ち合わせは滞りなく済んだ。「じゃ、社に戻るね」と席を立つ。一緒に立ち上がった伊野さんがドアを開けて、「お疲れ」と拳を握った。「おう」と私も拳をぶつける。

 開けたドアに手を掛ける伊野さん。また出られないっての。「何?」と顔を上げると、彼は真顔で「俺じゃダメか」と言った。

「…え?」

「東からおまえを頼まれたけど、俺じゃダメか」

 どういう意味……?

「俺じゃおまえを支えられねーか?保護者として心配してるんじゃねーぞ」

「……」

「何も問題ないんなら…」

 ゆっくり、伊野さんの顔が近づいた。私は思わず、手にしていた茶封筒で顔を庇った。彼はフッと苦笑して「ダメか」と小声で言った。かがめた身を起こして、伊野さんが「ん、お疲れ」とドアを少し開いた。私は顔半分を茶封筒に隠したまま、「失礼します」と事務所を転がり出た。





 ───何やってるんだろうな、私……

 駅への道をとぼとぼ歩いた。社には電話で早退すると連絡した。「大丈夫?」と心配されたが、「家で休みます」と言ってごまかした。

 まさか伊野さんが───

 電車に乗った。空いた電車のシートに腰掛け、また茶封筒で顔を隠した。

 慣れない駅で降りる。私が向かっていたのは、お寺だった。

 東さんの眠る墓がある。

 お寺に着くと住職さんに声をかけて、水桶を借り、線香を買う。花くらい持って来れば良かった……


 ≪もういいのよ。いつまでも祐朗にしばられていないで、いいひと見つけて幸せになって≫


 ≪そろそろ東を安心させてやれよ≫


 東さん。

 私がひとりじゃ心配ですか。

 ずっとあなたを想っていてはいけませんか。

 ───他の誰かなんて……

 北風が切ったばかりの髪を揺らす。私は合わせていた手を下ろして、呆然と立ち尽くした。

 眼鏡を掛けた細い人影が脳裏に浮かんだ。

 ずっと東さんを想っていたいのに───

 心は変わるものなのですか。

 墓石に刻まれた文字が滲んで見えた。私は身じろぎも出来ずに、ただ、涙を堪えた。

 東さん。東さん。

 東さん。

 辛く悲しい時、神様のように呼んでしまう名前。

 忘れるのが怖かった。東さんはもういない。だからせめて、忘れずにいようとそう思っていた。───なのに……

 心が変わってゆく。『東に頼まれた』と側にいる伊野さんも。医師を目指していたラジオが違う道を選んだ事も。和泉さんと一夜を過ごした事も。髪を切った私も。みんな、変わってゆく。

 今もそう、隣に誰かいるような気配を感じるのは───それを望んでいるからだ。

 ごめんなさい。あの人に会いたい……

 両手で顔を覆った。

 冷たい風になぶられて、涙が温かかった。


 ≪もし海音がうさぎになったら、おいで≫


 約束通り、ここへ来ました。

 だけどこんな気持ちになる日が来るなんて、思っていなかった。

 足の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。覆った顔を上げられない。東さんに見られたら……彼は何て言うだろう。

 私を軽蔑しますか…?

 返事がないから、私は声もなく泣き続けていた。


おまけのあとがきちゃん

https://roku-zero.com/inumimi/08/inu08note.html

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