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いぬみみうさみみ 第8話  作者: 佐倉蒼葉
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第3章

 私の部屋に着いて明かりをつけると、蛍光灯がやけに眩しかった。タクシーの中は薄暗かったから……目を瞬いた。「どうぞ」と和泉さんを振り向くと、彼も眩しそうに目を細めていた。

 キッチンのテーブルを挟んで椅子が二脚。一つを勧めると「お邪魔します」と彼は会釈して座った。ストーブをつけて、奥の間へ道具箱を取りに行き、蓋を開けて接着剤やセロハンテープなどあるのを確かめて戻った。向かい合って座る。

「眼鏡、貸してください」

「……」彼は無言で眼鏡を差し出した。

 ぐるぐると巻かれていたセロハンテープを剥がす。

「わ、真っ二つ」

「直らないでしょう」

「まっすぐに付けるくらいなら出来ますよ」

 私は手を動かしながら訊ねた。

「喧嘩でもしたんですか?」

「え?」

「眼鏡が折れるくらいの」

「…ああ、違うよ」彼はフッと苦笑した。「自分で叩き壊した」

「え?」と今度は私が言って顔を上げた。

 ───東さんの座っていた椅子。

 そこに、今は違う人がいる。

 不意に胸が詰まった。心の動きを悟られないように、私はまた視線を眼鏡に落とした。

「…今日は接待があったんだけど…」

「はい」

「相手は悪くないんだ。その親玉が嫌いでね」

「親玉?」

 手元に目を凝らして弦の割れ目をぴったり付けて指で押さえ、空いた手でセロハンテープを取った。───私が見ていないからか、彼はのんびりとした口調で怖い事を言った。

「いつか復讐したくて」

「…復讐…?」どきりとした。

「僕が今の会社にいるのは、そいつを失脚させる為だよ」

 言葉を失って、ゆっくりとセロハンテープを巻いた。「でもね」と彼は静かに続けた。

「前の会社と今の会社と、同じ企業グループの傘下で、結局はそいつの持ち駒に過ぎないんだ、僕は。簡単に言えばラスボスだね」

 そう言って何がおかしいのか、クッと笑った。

「何が一番腹が立つかって、そいつが───」

と彼は言い淀んで、右手の指先でキュッと目頭を押さえた。

「父親だって事」

 ───父親。

 テープを巻き終えて、眼鏡が曲がっていないか確認した。そうでもしないと怖かった。

「出来た?」と彼は手を伸ばした。眼鏡を渡すと、彼はゆっくり眼鏡を掛けて、「お、まっすぐだ。器用だね。ありがとう」と、穏やかに微笑んだ。

 まるで別人のように。口調は同じなのに、先刻と今とのギャップが大きく、私は戸惑った。

 長い沈黙の間が空いた。

 微笑む和泉さんは優しげな瞳をしていた。───これが、偽りだと言うのだろうか。

 その笑顔から目が離せなかった。目を逸らしたら、もっと怖い事を言いそうで。

「それで…ね、今日の接待も父親のセッティングだと思ったら腹が立って、眼鏡を持った手で、こう…ガツンと、壁を叩いてしまった。それで折れちゃったって次第」

「……」頷くしかなかった。

「それを由加───彼女に見られてね」

「…はい」

「彼女はまた落ちそうになった。その、空間の歪みにね」

 そう、呟くような小声で言った。

「僕から逃げ出したいほど怯えたんだね。───落ちなかったけど。澤田…ああ、トモね、あいつがいるから…」

 『澤田』と言った時、彼の瞳の色が揺れた。……泣きそうなのかと思った。

「あいつの存在が、彼女を空間の歪みから守ったんだろう」

 ≪いずれにせよ、僕は彼女を守りきれない。それが出来るのはトモだけだ≫

 和泉さんが以前言った通りになった、という事か……

 でもそれじゃ───

「…でも、それじゃ…、今まで和泉さんがしてきた事は…」

「───何だったんだろうな」

「……」

「僕にもわからないんだよ」

 痛い。…胸が痛かった。

 微笑む和泉さんの発する波動は、痛くてたまらなかった。

「先月、こっちに来た時…元同僚の結婚式だね、あの後…」

 彼は眼鏡を外してテーブルに置いた。見つめていると視線を逸らされた。

「彼女と話してるうちにね…父親の事もどうでもよくなって、その…ね、愛しいと思って…。これまで彼女に触れないようにして来たのに、キスしてしまった。その事を…彼女は『忘れるから』って言ったんだ。前のようにね…いい友達のままで…なんて、後戻り出来ると思う?」

 彼は頼りなく眉を下げ、それでも口元は微笑んで…目を細めた。


 ≪失いたくなかった≫


 ───そう、聞こえた。気のせいだったかもしれないが、そう感じられた───和泉さんの波動は。失いたくないから偽っていた……のだろう。穏やかな笑顔で。


 ≪そんなふうに泣かないでよ≫


 ───ラジオ。

 ラジオの思いがよくわかった───私は知らず、言葉にしていた。

「…そんなふうに泣かないで」

「…え?」と和泉さんがこちらを見た。

 左目からぽろりと涙が落ちるのが自分でわかった。

「…どうして君が泣くの?」


 ≪どうしてラジが泣くの…?≫

 ≪ミオさんが泣いてるからだよ≫


「和泉さんが泣いているからよ」

 そうだ───和泉さんは泣いている。笑顔の下の、その心で。

 この人は私と同じ───

 うさぎなんだ。

 強く頼もしい獅子のような力で彼女を守り続けて、だけど心には父親への復讐心を隠して。たった一人で───生きて来た。

 強くならなくちゃ、一人で生きなくちゃ、と意気がっていた私を、東さんは『うさこ』と呼んだ。私の弱さを見透かして。

 この人も同じなんだ。うさぎなんだ……

 私は立ち上がって彼の傍らに立ち、彼の頭を胸に抱き寄せた。いつか夜道でラジオが私を抱きしめたように。アルバートが身を寄せたように。

 そうせずにはいられなかった。

 ふわりと香る、懐かしい匂い。───東さんが好きだった匂い。

 私達が共鳴を起こす理由がわかった。

 わかった、と思った瞬間、私はそれまで痛く感じていた波動から解放されて、足の力が抜けて床にへたり込んだ。涙が止まらない───

 大きな手のひらが頬に触れて涙を拭った。

 和泉さんは椅子から降りて床に膝をつき、私の泣き顔を覗き込んだ。

 そして───

 彼の暖かな…涙に濡れた唇が私の唇に触れた。





 明け方、目を覚ました。

 隣に、眠るひとがあった。

 閉じた瞼の縁の睫毛の思いがけない長さ。すっとした眉の形。やわらかく流れる、髪。

 それらの黒い流れの先に青白いなだらかな広がりがあった。

 部屋は明けてゆく空の淡い光を湛えた水の底のように、青く、静かだった。私はそっと手を伸ばし、指先で軽くその頬に触れてみた。

 ゆっくりと指を滑らせる。

 頬の稜線から首筋へと下って肩をカーブする。鎖骨に触れて手を止めた。

 肌の下の確かな感触。

 なつかしいにおい。あたらしいにおい。───まざりあった、そのひとのにおい。

 そのにおいとあたたかさに頬を寄せて目を伏せると、そのひとはかすかに声を洩らして、私がいるのに気がついた。

 大きく重い手のひらが、そっと私の頭に載って、髪を軽く撫でた。

 すると、再び静かに眠りが寄せて、私の意識は水に溶けるように消えた。

 次に目覚めた時、そのひとは私に背を向けて、袖口のボタンを留めていた。ゆっくりと振り向いて目覚めた私を見つけると、頼りなく寂しげに微笑み、深くやわらかな囁くような小声で、おはよう、と言った。

 そうして上着を手に立ち上がり、枕元にあった眼鏡をかける。わずかに、痛みを堪えるように目を伏せて、何か言いかけ逡巡しているようだった。上着に袖を通す広い背中。その隙に床に落ちた服を拾い上げた。ブラウスの袖を探る手が縺れる。ふいに振り向いたそのひとは私の肩に手を置いて顔を寄せた。

 肩と唇に伝わる体温。

 それが、───ゆっくりと、離れた。

 寒かった。和泉さんは、静かに部屋を出ていった。


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