第2章
結局、ラジオに会える木曜日を待てずに、翌日の夜には教えてもらったウェブのチャットルームを覗いてみた。9時過ぎならいるかな?と思ったけれど、『入室:0』という表示を見て、誰もいないのか……と、ラジオに「今、何してる?」と一言メールを送ると、すぐに「夕飯食べたところ」と返事が来た。「話したいんだけどチャットいい?」に「了解」と短く答えがあって、再びチャットルームを見ると『入室:1』となっていた。名前とパスワードを入力して入室ボタンを押した。
海音さんが入室しました
海音:こんばんは
Radio:こんばんは
海音:伊野さんから話聞いた?
Radio:聞いたよ
海音:どう思った?
Radio:うーん…
しばしの沈黙。私は彼の返事を待った。
Radio:伊野さんには「考えさせて下さい」って言ったけど
Radio:山崎に相談したら「良い話じゃないか」って言われた
海音:山崎君が?
Radio:奴が言うには
Radio:「おまえは感情移入が激しいから
Radio:大勢の患者を診るのは無理だ」って
以前ラジオが山崎君の事をこう言っていたと思い出した。
≪あいつは優し過ぎるから、悲しむような気がして───≫
海音:うん。それで?
Radio:ミオさんもそう思う?
さすが長い付き合いの山崎君だ。鋭い指摘。彼の言う通りだと思った。『思うよ』と答えた。
Radio:実際に病棟実習でね
Radio:その事は痛感してた
Radio:病院は…苦しい所だよ
そしてまた沈黙。やけに長く感じられた。ラジオはどんな風に苦しかったのか……それは言えないようだった。
大阪で倒れて入院した時に言っていたっけ……
≪病院は寂しい所だよ≫
そうして、疲労して苦しんでいた様子を思い出した。茶化してごまかしていた事も。
海音:ラジはどうして医者になろうと思ったの?
Radio:えっとね…
Radio:僕みたいな人が居たら、助けになりたかった
Radio:だけど実際、何も出来ないとわかった
Radio:勝手だけど
Radio:僕自身のこの耳の事を知りたくて医学部に進んだんだって
Radio:実習で思い知らされた
『思い知らされた』の言葉が重かった。
海音:勝手じゃないと思うよ
海音:助けになりたいっていう志があるんだから
Radio:それは僕が僕をごまかしていたんだと思う
Radio:本当は違った事に、後から気づいた
Radio:僕の耳が普通だったら
Radio:医者になろうなんて思ってないよ、きっと
そんな───
自分の能力に否定的なラジオを見るのは初めてだった。
何か発言しなくては、とは思うが、言える事などなかった。それが伝わったのか、ラジオはまた話し始めた。
Radio:そんな風に、将来に対して迷っていた時に
Radio:伊野さんからの話があって
Radio:山崎にも言われて
Radio:飛びつきたい気もしたけど。笑
Radio:今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ
何と答えたものか悩んで、『うん』としか言えなかった。『笑』の文字が切ない。自分を嘲笑っているように見えた。
Radio:このチャットは発言が20件残るから
Radio:ログ流しておくね
海音:流す?
Radio:新しく発言して履歴を消す事
海音:ああ、うん
ラジオの耳の事や進路に迷っている事は、和泉さんに見られたくないのだろう。パスワード制で入室しないとログが見られないチャットだが、和泉さんだけは見る事が出来るから……
ラジオは何か、詩のような言葉を並べ始めた。
心臓をかすめて通るは ビルディングの直線
直線の嵐の中で 人は気が狂うだろう
───
黙ってログが流れていくのを見ていた。
長い詩だった。どこか、孤独で寂しい言葉だ……
これ何?と訊きたかったが、ログを流しているのだから黙っていた方がいいのかな、と思って手を止めていたら、最後に『誰も僕の絵を描けないだろう』と言って、『じゃあミオさんおやすみ』と続いた。私も『おやすみなさい』と一言だけにとどめて退室した。
秋は深まりゆく。気温はもう真冬並みだ。来年のバレンタイン商戦に向けて、今日はスタジオでの撮影。チョコレートなどの静物はそちら専門のカメラマンがいるが、私はデートスタイルの撮影で、伊野さんとのチームで動いていた。フェミニンな服が可愛い。伊野さんが指示を出し、場を盛り上げながら撮り、アシスタントのひかる君が熱心にそれを見ながら手伝っていた。───いつも通り。
撮影を終えて、トレンチコートを羽織りストールを巻いていると、伊野さんが声を掛けてきた。
「ミオ、今日はこれで上がりか?」
「うん」
「一杯、どうだ」
と伊野さんも革ジャンを着ながら、何やら言いたげに誘った。───ラジオのモデルの件を聞きたい。多分その話だろうと思って「うん」と頷いた。
スタジオはグルメの街として知られているエリアの端にあった。「どこにしようか、美味いもん食いてーな」と伊野さん。
「それなら、」と先日テレビで紹介されていた飲み屋に行ってみる事にした。日本酒が美味しいらしい。肴も美味しそうだったと話しながら歩いた。霧雨。空気が冷たい。「顔が寒い」と伊野さんが笑った。
テレビの効果で店は客でいっぱいだったが、平日だからか何とか三人、滑り込みで入れた。まずは飲み物を頼んで乾杯。「お疲れ様です」と皆、笑みがこぼれた。
ひかる君はラジオの件を知っていた。伊野さんが言っていた通り、撮影の時にまでスカウトマンが押しかけていたからだ。
「…で、仁史君から返事はあったの?」
「ああ、昨日な」
……という事は、一週間以上、ラジオは悩んでいた事になる。「それで?」と続きを促した。
「事務所の人の話を聞いて考える、って」
───なんと。ラジオがモデルの話を前向きに考えているらしい。
「ほら、あいつ…、T美の山崎君?彼が説得したってな」
「山崎君が…」
ラジオには医者は無理だと言い切った山崎君。彼ならモデルも強く勧めただろう……
刺身や唐揚げなどが運ばれて来た。店員がテーブルに肴を並べる間の沈黙。
≪今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ≫
パソコンの文字だったが、ラジオの苦悩が伝わった一言だった。
「…自分を試してみるのも一つの手としてアリだ、って言われたそうだ」
自分を試す───
「自分を試せるのも学生のうちかもしれないっすね」と、ひかる君。
「そうだな」
伊野さんは頷いて、暖房か熱燗で暖まったのかスンと鼻を鳴らした。
「仁史ももう二十五だろ?ひかるより上か?」
「はい、そうっすね」
「決めるなら、もう決めないとな。ミオは何か聞いてるか?」
「うーん…」と冷酒をぐい呑に注ぐ。
『病棟実習で自分の勝手だと思い知らされた』という言葉は言いづらかった。
「…実習で…何か感じるところはあったみたい…迷うような、ね」と言葉を抑えた。
「そっか…」
伊野さんは深いため息を吐いた。「まあ、後は事務所との話し合いだな」
「うん」
「仁史がモデルになったら俺に撮らせて欲しいな…」
「ちゃっかりしてる」クスッと笑いが洩れた。伊野さんも「はは」と力なく笑った。
雨は本降りになっていた。傘を差して長い坂を下って、地下鉄入り口の前で伊野さんとひかる君と別れた。私はもう少し歩いて、JRの駅から帰る。階段を降りてゆく二人の背中に手を振っていると───
ピーン…と耳の奥で音がした気がした。
やだ、耳鳴り───
≪たまたまではなく、ミオさんと和泉さんには、共鳴を起こす何かがある≫
まさか───
心臓をぎゅっと絞られる感じに、私はもと来た坂道を振り返った。
スーツ姿に透明なビニール傘を差した人物が、少し離れてこちらを見ていた。
───和泉さん。
東京に来てたのか、と、ぼんやりと的外れな事を考えた。その時───
≪それは本当のおまえじゃないんだから≫
≪僕は君が本当の由加だと思ってる≫
耳鳴りが強くなっていく。───耳が痛い。
≪いかないで、大阪≫
≪いかないで、東さん…≫
───バチッ
斜め前の店の看板が音を立てて、灯していた明かりを消した。
私と和泉さんの間に立つ街灯が、パンと言ってガラスが割れ───
通行人が「わあっ」「きゃあっ」と悲鳴を上げていた。
通りがパニックになっていた。パン、パン、パン、と街灯が次々に割れていく。降ってくるガラスの破片に驚いて逃げる人々。その中にあって、私と和泉さんだけが、呆然と互いを見つめ合っていた。よく見ると和泉さんの眼鏡が曲がっている…また場違いな事を思った。
もうガラスの割れる音も聞こえない。破片が飛び散るので割れているのがわかった。聞こえているのは───わんわんと鳴る空気の振動だけだった。
不意に、和泉さんが駆け寄って来た。私の手首を掴むと「ここを離れよう」と言って大通りへ走る。引っ張られて足がもつれた。彼が私の手を強く引いた。
大通りにはタクシーが行き交っている。手を挙げてタクシーを止めると、ドアの開いた後部座席に私を押し込み、次いで彼も乗り込んだ。「家はどこ」と訊かれて答えると、運転手に「お願いします」と言った。
重い沈黙……
和泉さんの横顔を見ると、眼鏡の弦が曲がっていた。セロハンテープでぐるぐる巻きにとめている。
「…眼鏡…どうしたんですか」
「え?…ああ、これ…間違えて折ってしまった」
「曲がってますよ」
「うん。さっきもみんなに…ああ、取引先の人だけど…笑われたよ」
「直しましょうか?」
「え?」
「私、得意なんです。そういうの」
───おかしな事を言っているな、と思った。
さっきの事を言いたくない……それは二人とも同じだと感じていた。