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いぬみみうさみみ 第8話  作者: 佐倉蒼葉
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第2章

 結局、ラジオに会える木曜日を待てずに、翌日の夜には教えてもらったウェブのチャットルームを覗いてみた。9時過ぎならいるかな?と思ったけれど、『入室:0』という表示を見て、誰もいないのか……と、ラジオに「今、何してる?」と一言メールを送ると、すぐに「夕飯食べたところ」と返事が来た。「話したいんだけどチャットいい?」に「了解」と短く答えがあって、再びチャットルームを見ると『入室:1』となっていた。名前とパスワードを入力して入室ボタンを押した。


  海音さんが入室しました

  海音:こんばんは

  Radio:こんばんは

  海音:伊野さんから話聞いた?

  Radio:聞いたよ

  海音:どう思った?

  Radio:うーん…


 しばしの沈黙。私は彼の返事を待った。


  Radio:伊野さんには「考えさせて下さい」って言ったけど

  Radio:山崎に相談したら「良い話じゃないか」って言われた

  海音:山崎君が?

  Radio:奴が言うには

  Radio:「おまえは感情移入が激しいから

  Radio:大勢の患者を診るのは無理だ」って


 以前ラジオが山崎君の事をこう言っていたと思い出した。

 ≪あいつは優し過ぎるから、悲しむような気がして───≫


  海音:うん。それで?

  Radio:ミオさんもそう思う?


 さすが長い付き合いの山崎君だ。鋭い指摘。彼の言う通りだと思った。『思うよ』と答えた。


  Radio:実際に病棟実習でね

  Radio:その事は痛感してた

  Radio:病院は…苦しい所だよ


 そしてまた沈黙。やけに長く感じられた。ラジオはどんな風に苦しかったのか……それは言えないようだった。

 大阪で倒れて入院した時に言っていたっけ……

 ≪病院は寂しい所だよ≫

 そうして、疲労して苦しんでいた様子を思い出した。茶化してごまかしていた事も。


  海音:ラジはどうして医者になろうと思ったの?

  Radio:えっとね…

  Radio:僕みたいな人が居たら、助けになりたかった

  Radio:だけど実際、何も出来ないとわかった

  Radio:勝手だけど

  Radio:僕自身のこの耳の事を知りたくて医学部に進んだんだって

  Radio:実習で思い知らされた


『思い知らされた』の言葉が重かった。


  海音:勝手じゃないと思うよ

  海音:助けになりたいっていう志があるんだから

  Radio:それは僕が僕をごまかしていたんだと思う

  Radio:本当は違った事に、後から気づいた

  Radio:僕の耳が普通だったら

  Radio:医者になろうなんて思ってないよ、きっと


 そんな───

 自分の能力に否定的なラジオを見るのは初めてだった。

 何か発言しなくては、とは思うが、言える事などなかった。それが伝わったのか、ラジオはまた話し始めた。


  Radio:そんな風に、将来に対して迷っていた時に

  Radio:伊野さんからの話があって

  Radio:山崎にも言われて

  Radio:飛びつきたい気もしたけど。笑

  Radio:今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ


 何と答えたものか悩んで、『うん』としか言えなかった。『笑』の文字が切ない。自分を嘲笑っているように見えた。


  Radio:このチャットは発言が20件残るから

  Radio:ログ流しておくね

  海音:流す?

  Radio:新しく発言して履歴を消す事

  海音:ああ、うん


 ラジオの耳の事や進路に迷っている事は、和泉さんに見られたくないのだろう。パスワード制で入室しないとログが見られないチャットだが、和泉さんだけは見る事が出来るから……

 ラジオは何か、詩のような言葉を並べ始めた。


  心臓をかすめて通るは ビルディングの直線

  直線の嵐の中で 人は気が狂うだろう

  ───


 黙ってログが流れていくのを見ていた。

 長い詩だった。どこか、孤独で寂しい言葉だ……

 これ何?と訊きたかったが、ログを流しているのだから黙っていた方がいいのかな、と思って手を止めていたら、最後に『誰も僕の絵を描けないだろう』と言って、『じゃあミオさんおやすみ』と続いた。私も『おやすみなさい』と一言だけにとどめて退室した。





 秋は深まりゆく。気温はもう真冬並みだ。来年のバレンタイン商戦に向けて、今日はスタジオでの撮影。チョコレートなどの静物はそちら専門のカメラマンがいるが、私はデートスタイルの撮影で、伊野さんとのチームで動いていた。フェミニンな服が可愛い。伊野さんが指示を出し、場を盛り上げながら撮り、アシスタントのひかる君が熱心にそれを見ながら手伝っていた。───いつも通り。

 撮影を終えて、トレンチコートを羽織りストールを巻いていると、伊野さんが声を掛けてきた。

「ミオ、今日はこれで上がりか?」

「うん」

「一杯、どうだ」

と伊野さんも革ジャンを着ながら、何やら言いたげに誘った。───ラジオのモデルの件を聞きたい。多分その話だろうと思って「うん」と頷いた。

 スタジオはグルメの街として知られているエリアの端にあった。「どこにしようか、美味いもん食いてーな」と伊野さん。

「それなら、」と先日テレビで紹介されていた飲み屋に行ってみる事にした。日本酒が美味しいらしい。肴も美味しそうだったと話しながら歩いた。霧雨。空気が冷たい。「顔が寒い」と伊野さんが笑った。

 テレビの効果で店は客でいっぱいだったが、平日だからか何とか三人、滑り込みで入れた。まずは飲み物を頼んで乾杯。「お疲れ様です」と皆、笑みがこぼれた。

 ひかる君はラジオの件を知っていた。伊野さんが言っていた通り、撮影の時にまでスカウトマンが押しかけていたからだ。

「…で、仁史君から返事はあったの?」

「ああ、昨日な」

 ……という事は、一週間以上、ラジオは悩んでいた事になる。「それで?」と続きを促した。

「事務所の人の話を聞いて考える、って」

 ───なんと。ラジオがモデルの話を前向きに考えているらしい。

「ほら、あいつ…、T美の山崎君?彼が説得したってな」

「山崎君が…」

 ラジオには医者は無理だと言い切った山崎君。彼ならモデルも強く勧めただろう……

 刺身や唐揚げなどが運ばれて来た。店員がテーブルに肴を並べる間の沈黙。

 ≪今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ≫

 パソコンの文字だったが、ラジオの苦悩が伝わった一言だった。

「…自分を試してみるのも一つの手としてアリだ、って言われたそうだ」

 自分を試す───

「自分を試せるのも学生のうちかもしれないっすね」と、ひかる君。

「そうだな」

 伊野さんは頷いて、暖房か熱燗で暖まったのかスンと鼻を鳴らした。

「仁史ももう二十五だろ?ひかるより上か?」

「はい、そうっすね」

「決めるなら、もう決めないとな。ミオは何か聞いてるか?」

「うーん…」と冷酒をぐい呑に注ぐ。

 『病棟実習で自分の勝手だと思い知らされた』という言葉は言いづらかった。

「…実習で…何か感じるところはあったみたい…迷うような、ね」と言葉を抑えた。

「そっか…」

 伊野さんは深いため息を吐いた。「まあ、後は事務所との話し合いだな」

「うん」

「仁史がモデルになったら俺に撮らせて欲しいな…」

「ちゃっかりしてる」クスッと笑いが洩れた。伊野さんも「はは」と力なく笑った。





 雨は本降りになっていた。傘を差して長い坂を下って、地下鉄入り口の前で伊野さんとひかる君と別れた。私はもう少し歩いて、JRの駅から帰る。階段を降りてゆく二人の背中に手を振っていると───

 ピーン…と耳の奥で音がした気がした。

 やだ、耳鳴り───


 ≪たまたまではなく、ミオさんと和泉さんには、共鳴を起こす何かがある≫


 まさか───

 心臓をぎゅっと絞られる感じに、私はもと来た坂道を振り返った。

 スーツ姿に透明なビニール傘を差した人物が、少し離れてこちらを見ていた。

 ───和泉さん。

 東京に来てたのか、と、ぼんやりと的外れな事を考えた。その時───


 ≪それは本当のおまえじゃないんだから≫

 ≪僕は君が本当の由加だと思ってる≫


 耳鳴りが強くなっていく。───耳が痛い。


 ≪いかないで、大阪≫

 ≪いかないで、東さん…≫


 ───バチッ

 斜め前の店の看板が音を立てて、灯していた明かりを消した。

 私と和泉さんの間に立つ街灯が、パンと言ってガラスが割れ───

 通行人が「わあっ」「きゃあっ」と悲鳴を上げていた。

 通りがパニックになっていた。パン、パン、パン、と街灯が次々に割れていく。降ってくるガラスの破片に驚いて逃げる人々。その中にあって、私と和泉さんだけが、呆然と互いを見つめ合っていた。よく見ると和泉さんの眼鏡が曲がっている…また場違いな事を思った。

 もうガラスの割れる音も聞こえない。破片が飛び散るので割れているのがわかった。聞こえているのは───わんわんと鳴る空気の振動だけだった。

 不意に、和泉さんが駆け寄って来た。私の手首を掴むと「ここを離れよう」と言って大通りへ走る。引っ張られて足がもつれた。彼が私の手を強く引いた。

 大通りにはタクシーが行き交っている。手を挙げてタクシーを止めると、ドアの開いた後部座席に私を押し込み、次いで彼も乗り込んだ。「家はどこ」と訊かれて答えると、運転手に「お願いします」と言った。

 重い沈黙……

 和泉さんの横顔を見ると、眼鏡の弦が曲がっていた。セロハンテープでぐるぐる巻きにとめている。

「…眼鏡…どうしたんですか」

「え?…ああ、これ…間違えて折ってしまった」

「曲がってますよ」

「うん。さっきもみんなに…ああ、取引先の人だけど…笑われたよ」

「直しましょうか?」

「え?」

「私、得意なんです。そういうの」

 ───おかしな事を言っているな、と思った。

 さっきの事を言いたくない……それは二人とも同じだと感じていた。


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