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いぬみみうさみみ 第8話  作者: 佐倉蒼葉
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第1章

 秋は急ぎ足。

 いつのまにか街路樹が色づき、あるいは葉を落として、冬を迎える準備をしていた。駅から六角屋に向かう道々、街灯に照らされた優しい黄金の銀杏を眺めて歩く。───日が暮れるのも早くなったな。

 今日は木曜日。六角屋でラジオと待ち合わせていた。何か話があるらしい……改まって何だろう?と思いながら六角屋の前まで来ると、メニューを置くイーゼルがない。閉店していた。私はやや緊張気味に地下への階段を降りて六角屋の戸を引いた。

 ゆったりと、ギターの音がする。

 絵の廊下を進んで店の戸口に立つと、暗い室内に灯された明かりが2つ、絵画『北天』を照らしていた。ぼんやりと見えるカウンター席に背を向けて、ギターを弾き続けるラジオ。闇のように暗い店に一歩入ろうとして、転びそうになった。

「きゃっ」

 まるで床がなくなったような感覚。

 一瞬の出来事。

 以前にもこんなことがあったなと思った時、ラジオがギターを傍らの椅子に立て掛けて「ミオさん」と振り向いた。カウンターの隅のレジの横に手をついて、何とか転ばずに済んだ私は「あは、大丈夫」と答えた。

「こうして『北天』だけ照らしてると足元がよくわからなくて」

「ごめんね、今明かり点けるから」とラジオはこちらに歩み寄り、壁のスイッチをパチンパチンと2つ、カウンターの周囲の明かりを点けた。「座って。コーヒーいれるから」

 私はいつもの席に腰を下ろしながら「遠山さんは?」と訊ねた。

「席を外してもらった」

「……」

 ───話って何だろう。

 何か、怖い予感で胸がどきどきする。

 ラジオは黙ってコーヒー豆を挽いている。私から話を切り出すのは躊躇われた。豆を挽き終わる頃にはポットのお湯も沸いて、カタカタと小さな音を立てていた。カップを温め、そしてゆっくり、お湯をドリッパーに注ぐ。私はそんなラジオをじっと見ていた。

 コーヒーをいれて葡萄模様のカップが目の前に置かれた。長い沈黙……。ラジオはカウンターを出てぐるりと回り、私の隣の席に着いた。

「ミオさんは覚えてるかな。バレンタインの日の事だけど」

「バレンタイン?」

 ずいぶん前の事だ───何だっけ、と記憶を手繰った。

 確かラジオには、バレンタイン当日より前の木曜にチョコを渡して……そうだ、伊野さんがAIMの写真を撮ったんだ。ラジオをモデルに───

「東京駅で」

「…東京駅?」

 あ、と思い至った。

 誰かと共鳴した───聞こえてしまった、誰かの心の声。ラジオも聞こえたと言っていたが……

「あの時ね、和泉さんも東京駅に居た可能性が高いんだ」

「え…」

 ───和泉諒介。彼とは大阪で、記憶の共鳴、そして思考の共鳴を引き起こしていた……

 ラジオは萩焼のカップに口を軽くつけて、コーヒーを啜った。そして話を続ける。

「ウェブにね、チャットルームを作ったんだ。遠距離の和泉さんと長い時間話すなら、電話よりチャットの方が都合がいいから」

「うん」と頷いた。電話だと料金がものすごい事になるだろう。

「ログも残るしね」とラジオはカップを置いて、カウンターに肘をついて両手を組んだ。

「あの時、『ちゃんと見ろ』って聞こえたよね。和泉さんも、同じ事をお正月に『彼女』に言ってた事が判ったんだ」

 今頃だけど、と彼は苦笑した。

「正確には『こっちを見なさい、これは君だ』だったけど。『自分を見ろ』っていう意味は同じだよね。そしてバレンタインデーには大阪に帰る為に東京駅に来ていた。時間もだいたい同じくらいだったよ。それで、判ったのが…」

 ラジオは真顔で私を振り向いた。

「大阪に行った時に既に判っていた事だけど、たまたまではなく、ミオさんと和泉さんには、共鳴を起こす何かがある」

「───何か、って…?」声が掠れた。

「それは判らない。和泉さんのプライベートな感情…って言うのかな、『彼女』に関しては、話してくれる事以外は立ち入る事はできないから。ただ、東京駅の話で、大阪での出来事を裏付ける形にはなったよね」

「……」

 また、沈黙。

 こうして黙っていると、時間の速さがゆっくりになったようだ。ラジオは私の返答を待っているのかそうでないのか。彼は煙草をくわえて火をつけた。

 この前、和泉さんと会った時には───

 ≪いずれにせよ、僕は彼女を守りきれない≫

 そう言っていた……暗い瞳で。彼女の前では、自分を偽っていると。

 彼女の前では、どんな風に振舞っているのだろう。≪本当の僕を知ったらどうなるかわからない≫───本当の和泉さんとは。私が知る限りの彼は、明晰な頭脳で不可思議に挑み、険しくこちらを見つめ……固い言葉をぶつけてくる。彼女が怯えないように、と言っていた……そんな一面を見せていないという事だろうか。私が見ているのも、一面に過ぎない。彼女に見せているだろう笑顔や穏やかな語り口は、偽りではなく、本来の和泉さんの違う一面なのではないかと思った。

 それを察知したらしいラジオが「うん」と言った。

 逢坂仁史。自称≪ラジオ≫。

 心が発する波動を感じ取って、心の声を聞く能力者。プライバシーを侵さない為に、聴覚を制御して、いつもその耳を塞いではいるが、人の心にとても敏感だ。その事はごく限られた人しか知らない。彼はその時々の判断で≪ラジオ≫と名乗り、人の心の声を届ける。それ以外は───どんなに親しくても自分の能力については秘密にしている。

 今、私達の背後にある絵画『北天』の作者、空木秀二もまた、人には見えないものを見る能力者だったと言われている。空木と親しかった画家、高畠深介氏によれば、ラジオは空木秀二と同じ目をしているらしい───能力者である証の輝きを持つ瞳。

「…それでね、和泉さんからその事を聞く為に、ミオさんにも聞こえていた事を話しちゃったんだ。勝手にごめんね」

「ううん、私は平気だけど…」ふと不安になった。「和泉さんは何て…?」

「『そうか』って言ったきり、黙ってたよ。…何か、元気がなかった」

「そんな感じがした?」

「うん…」

 ラジオの『そんな感じがした』は大抵、当たっている。回線越しにも伝わる『雰囲気』や『気配』は私にも経験があるくらいだから、ラジオなら尚更わかるだろう。

「チャットのURL、メールで送っておくね」

「ん、ありがと」

 ラジオがデニムのシャツの胸ポケットから、眼鏡を取り出した。見覚えのない、べっ甲のボストン。「眼鏡変えたの?」と訊くと、「うん、前のは壊れちゃったから」。前の眼鏡のレンズには度が入っていなかった事を思い出して訊いてみた。

「ラジ、視力いくつ?」

「両目とも2.0」

「そんなに良いの?」びっくりした。

「うん。小さい星も結構見えるよ」とラジオはクスッと笑った。

 ───薄々、気づいていたけれど。

 ラジオが眼鏡をかける時は、疲れている時だ。そんな時には、瞳に光が宿っている。彼にとって聴覚の制御は、体力を消耗する事なのではないかと思っていた。

 私は手を伸ばして、ラジオの頭を引き寄せた。彼のこめかみを肩に載せる。軽く頭をポンと叩いて「お疲れ様」と言った。またクスと笑って「ありがとう」と言う声が掠れていた。





 伊野さんから意外な話を持ちかけられたのは、その次の週明け、月曜日だった。

「おはようございます」と編集部に入って来た伊野さんは、「ちょっと大事な話があるんで」と改まった口調で言った。

「石崎さん、時間もらえる?」

「は?」思わず彼を上目で見た。「今ですか?」

「うん、今」

 今日はデスクワークばかりの予定だったので、編集長に言って許可を得た。

 ───話って何だろう。こんな事が続くな……

「社食でいい」と伊野さん。時間短縮の為に気を遣ったのだろう。社員食堂でコーヒーをいれた。窓際の席について、向かい合った。

「仁史の事なんだけど…」

 歯切れの悪い口調だった。

「俺のとこにモデル事務所から話があってよ」

「…モデル事務所?」

「春のAIMの案内ハガキな?あれ見たって言って、モデルを紹介してくれっつー話だった」

「えええ?」思わず声を上げてしまった。手で口を覆って辺りを窺うと、チラチラと見られていた。私は声を落としながら、ハガキの写真を思い出した。

 モノクロームの、裸の背中を見せた、後ろ姿の写真。

「撮影の条件はどうしたのよ。モデルを明かさない事と、AIMの展示以外に使わない事と…」

「約束は守ってるぞ?展示に使った写真も見せてない」

「じゃあ、顔も見せてないのに何で?」

「だから顔が見たいって言うんだよ」

「何で」

「背中に雰囲気のある子だから、顔を見て、できればスカウトしたいって言って」

「だって…」私は半ば呆然としながら「仁史君は嫌がってたじゃない」

「だからまずおまえに相談に来たんだろが」

「……」

「背中の雰囲気なあ?演技力があるって言うんだよ。体型も細身だし。俺は『普通の学生ですよ』って言ったんだけど、普通なら尚更良いって」

「どういう意味?」

「モデルに求めるのは演技力と、何にでも変われる普通っぽさと、雰囲気なんだと」

 そして伊野さんは「それは俺もわかる」と言った。写真家として同じなんだろう。

「俺は…個人的にな、仁史はモデルに向いてると思う。身長が足りないけど、それをカバーする雰囲気が充分にある」

「……」

「俺もまた撮りたいと思ってるしな」

 いつか伊野さんが言っていた『雰囲気がある』、それは私もそう思う。絵になる雰囲気がある。けれどラジオは精神科医を目指しているのだ。それで一度は撮影を断っている。

「…仁史君は断ると思うよ?」

「俺もそう思うから相手にも言ったんだけどな?スカウトって奴は事務所ぐるみで口説きに来るだろ。狙われたらしつこいぞ?」

「もしかして…前から言われてた?」

「うん、二、三ヶ月前くらいかな。それからしつこいの何の。世話になってる所だし、俺もきっぱり言えないのが悪いんだが…ミオに言っても同じだと思って黙ってたけどな。撮影の時まで来て頼むようになったからよ…」

 あー、と伊野さんはため息混じりだった。

「ミオは反対なんだな?」

「そう言われると…」

 問題はラジオ本人にこの話が伝わっていない事だ。私が勝手に決めるわけにもいかない。伊野さんは首の後ろに手のひらを当てて、困ったように視線をコーヒーに向けた。

「俺から仁史に話つけていいか?」

「うん、それくらいなら…」

 多分、大丈夫だろう。それくらいなら───

 ラジオが断ればいいだけの事だ。もったいない気もするけれど。

 モデルとしての演技力を買われての事だ、ラジオにはその才能があるという。それは私も認めている。ただ、彼が望まない事を強く勧める気もない。


 ≪……正直言うとわからない……。ここまで来て何言ってるんだろう≫


 ───もしかしたら、これが彼の人生の選択の時なのかもしれない。

 そう思ったのは、伊野さんが帰って編集部に戻った時だった。

 信念を貫いて医師の道か、才能を生かしてモデルの道か。

 決めるのはラジオだ……そう、自分に言い聞かせて仕事に戻った。


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