第七話 再会、そして、逃避行
話し声が吸い込まれそうなほどに静かな森を、二人の若い男が歩いていた。
足取りの重そうな神殿騎士と、それとは対照的に足取りの軽い見習い騎士。
「オーファン君。せっかくの休暇を水の巫との面会に充てるだなんて、本当にどうかしていますよ」
初めての休暇を、セリンのために使うことは最初から決めていた。
「俺が休暇をどう使おうと、どうでもいいじゃないですか」
「面会希望者が出てきたら私の仕事が増えるんですよ」
この若干ウェーブのかかった金髪の神殿騎士の名はレヴァン。地方貴族から騎士団に志願したが、大成せず、結局剣を持たない神殿騎士に落ち着いている男だ。
オーファンが彼を捕まえては手紙を預かってないかと聞き、はや数週間。お互いにすっかり顔を覚えてしまった。
「俺を送るくらい、大した仕事じゃないでしょう? 大体、先週は神殿に行ってないとか」
「……先週は体調が悪かったんですよ。食糧は余分に届けていますから一週くらい休んでも殿下が飢えることはありませんよ」
「それで無断欠勤ですか。団長が知ったら何て言うでしょうね」
どうやらその言葉が癇に障ったらしく、レヴァンは朱色の瞳でオーファンを睨み付ける。
「王家の血を引く大貴族で騎士団でも将来を有望視された天才だからって、いくらなんでも先輩に向かってその言い方は無いんじゃないですかね」
「それは関係ないでしょう」
「皆、君が騎士団始まって以来の天才だって騒いでますよ。そりゃあ、君にとっては私みたいな田舎者の神殿騎士なんて尊敬に値しないのかもしれませんけど」
「ちゃんと仕事をしていれば俺だって先輩くらい敬います」
「……」
「俺が行きたくてもなかなか行けない場所に貴方は簡単に行けるのに、その機会を捨てることが許せない」
「神殿騎士をそんな風に言う人間は君が初めてですよ」
「俺は神殿騎士、いい仕事だと思います」
剣も持てず、たいした仕事も与えられない。騎士たちの間では『騎士の墓場』とまで呼ばれている神殿騎士だが、オーファンは仕事で定期的にセリンに会いにいける彼を羨ましく思っていた。
「また心にも無いことを」
「神殿騎士ならわざわざセリン様に面会希望を出さずに済みます。それ以上の理由はありません」
「なるほど。本当に物好きですね。君が殿下の従者だったからとはいえ、水の巫なんて魔女に等しい存在じゃないですか。彼の何がそんなにいいんですか」
魔法に対する差別意識は、地方貴族にも及んでいる事は、幾度となくレヴァンと会話しているうちにオーファンも気がついていた。そんなに言うならば代わってやりたいくらいだ。
「我が国の王子をそのように言うのは如何なものかと思いますが」
「水の巫になれば、子孫を残すことは出来ません。王位継承権だって剥奪されるんです。王族なのにこんなところに飛ばされて、殿下も可哀想だとは思いますよ」
何も知らないくせに。オーファンは目の前の田舎貴族をぶん殴りたくなる衝動に駆られるが、ぐっとこらえていつもの質問をぶつける。
「……それで、セリン様は本当に大丈夫なんでしょうね?」
「またその質問ですか」
レヴァンは心底うんざりしたようにオーファンを見ると、いつものように投げやりに答える。
「一度くらい仕事をお休みしても十分な生活用品は届けていますと、さっきも言ったはずですよ」
「そうですか」
「腑に落ちない顔ですね。私の言葉が信じられませんか?」
「……」
それが一週間セリンを放置した人間の言う言葉だろうか。やはり彼は尊敬できる先輩ではない。
「疑わしいなら自分の目で確かめればいいんじゃないですか? これからそのセリン殿下と面会に行くんですからね」
刺々しい物言いのレヴァン。確かに、セリンの事を何度聞いたか分からない。しつこ過ぎた自覚はある。
「……」
それでも、彼が信用できないのだから、何よりもセリンが気になるのだから、仕方ないと思う事にした。
やがて、見覚えのある小さな神殿が見えてきた。
「着きましたよ。それでは面会の時間が終わったら呼びますので、私は外で待っています」
「はい、有難うございます」
逸る気持ちを抑えながら神殿の扉を開けるが、セリンの姿は見えない。
「セリン?」
内部はいかにも声の反響しそうなドーム状の神殿だったが、大声でもなかったオーファンの声は反響することなく流れる水に吸い込まれた。
「セリン!」
今度は大きな声で叫んでみる。反響した声と水音が交じり合った。
「オーファン……?」
奥の部屋の扉がゆっくりと開き、黒いローブに身を包んだセリンが出てきた。どうやら読書をしていたようで、神殿の備え付けらしい経典を手にしている。元来の神秘的な雰囲気も相まって、神に仕える者として非常に様になっていた。
「久し振り。どうしたの?」
セリンは、いつもオーファンにしか見せない変わらぬ笑顔で出迎える。長い間会えなかったにもかかわらず、セリンは何も変わっていない。まるで、昨日も会ったかのような反応だ。自分はセリンに一日も会えないだけでおかしくなりそうだったのに。
「どうしたのじゃねえよ、お前が全然手紙を寄越さないから心配してきたんだ!」
セリンはオーファンから一歩下がって何かを隠すようにズボンのポケットに手を入れた。
「ご、ごめん。手紙は、忘れていた」
おそらく、冷静な状態でセリンを見ていれば少し動揺していた事が分かったのかもしれない。しかし、久々にセリンに会うことが出来て感情が昂ぶっていたオーファンに、セリンの細かな表情の変化に気がつく余裕はなかった。
「……まぁ、お前らしいよ」
通常運行過ぎるセリンを見ていると、怒る気も失せてしまう。
「……。この場所にいると時間の感覚が狂っちゃうから、忘れたんだ」
「時間の感覚っつーか、気が狂いそうだな」
週に一度、レヴァンが手紙や食糧を届けに来る以外に完全に外界と遮断された場所。
オーファンもようやく暇を貰えて来る事が出来たのだ。神殿は王都からは遠く離れた森の中にあり、水路も伸びていない。通い詰める事は出来ない。
「すこし、背が伸びた?」
「少しだけな。それだけ放置されてたんだよ。……お前は、変わってないな」
「ハネモト人は、小柄だから」
「それにしても、水の巫って普段護衛すらいないんだな。暗殺して下さいって言ってるようなものじゃないか」
「大丈夫。僕やアクエリ様に殺意のある人が近寄れば、結界にはじき返されるから。この森自体が大きな結界になってる」
何かを隠し通した事により徐々にセリンの緊張が解れているが、オーファンはそれに気が付かない。
「ロリザー人って魔法嫌いなくせに、ここだけ完全に魔法頼みなのっておかしくないか?」
セリンの言うように結界の力で安全なのかもしれないが、神殿周辺のシステムはロリザー王国が好むものとはあまりにもかけ離れていた。
「ロリザー王国が国を挙げての魔法嫌いじゃなかったら、この森の中に王宮があっただろうね」
「それって、魔法が嫌いでも王宮建てるべきだった気がするが」
神の結界の力で無条件で難攻不落の城になると考えたら、ここに建てない理由は一切無い気がしてしまう。
「そう簡単なものじゃないんだと思う。でも、誰にも邪魔されずにこうして二人で話せるんだから、悪くはないよ」
「誰もいなくて嫌にならないのか?」
「アクエリ様がいるし……僕、ここにいる事が出来て凄く幸せだから。君は何も心配しなくていい」
重圧から解放されたかのようにセリンが笑う。この、物凄く不自由な場所で、確かにセリンは自由を感じているようにオーファンには見えた。自分がいなくてもセリンは幸せなのだと知り、少し悲しくなる。
「オーファンは、どう? 見習い騎士は楽しい?」
「まずまず、かな」
レスティエード家の強行的な採用だったが、孤立せずにやっていけているようだ。元よりオーファンは平民に近い考え方だ。貴族以外も志願する事でなる事ができる王宮騎士団はそれほど居心地の悪い場所では無いのだろう。
もっとも、平民から志願した騎士は貴族の手順に乗っ取った騎士と異なり、よっぽどの武勲を上げない限りは昇進する事はほぼ不可能なのだが。
「元々の俺の戦い方って喧嘩みたいなものだったから、剣術の基本は勉強になるな」
「オーファンなら同期の見習い騎士は相手にならなさそうだね」
「お前までそんな事言うなよ。俺は騎士に志願してよかったと思ってるんだ。ここの勤務を目指すよ」
そう嬉しそうに語るが、セリンは嬉々として神殿騎士をやりたがるオーファンに引っかかりを覚えてしまう。
「神殿騎士なんて落ちこぼれがなる閑職だよ? もっと上を目指したら?」
神殿騎士とは週に一度、水の巫に食糧や手紙を届けるだけのいわゆる『簡単なお仕事』だ。今回のオーファンのような水の巫と面会を希望する者の付き添いや、水の巫が空位の時は神殿の掃除等もするらしいが、それを含めても誰にでも出来るような仕事である。
「神殿騎士が一番お前と一緒にいられるじゃないか」
「それって、神殿騎士の仕事をやりたいからやるのとは違うよね。僕かがいるからってやりたくもない仕事を選ぶの、どうかと思うけど」
「う……」
セリンの言う事ももっともである。
「オーファンは姉上を追い詰めたくらい強いんだから、騎士隊長とか目指した方がいい」
「だけど、俺は地位なんか欲しくないんだ。俺たち友達だろう? 一緒にいた方がきっと楽しいだろう?」
「友達だからって常に一緒にいないといけないって事はないよ。僕は、友達の君がこの国の為に働いて、武勲をあげて、誰も文句が言えないような地位になって、不自由のない生活をしてくれることを願っているんだから」
「この国よりも、俺はお前の為に……」
「僕の従者だった君が騎士団で成功すれば僕の教育も評価されるから。僕が作法の教育をした君が騎士団で地位を得られれば、僕や君を嫌っていた王妃にも一泡噴かせられる。僕の為にも、君の為にもなる」
「でも……」
「無理に僕についてきたところで、何もいい事は無い」
「……。お前がそう言うなら……分かったよ」
沈んだ声でオーファンが言い終わるのとほぼ同時に、ドアの外からレヴァンがオーファンを呼ぶ声が聞こえた。
「オーファン君、そろそろ時間です」
「さっきの話、あいつに聞こえたんじゃないか?」
「いや、本当にもう時間だよ。久々に話が出来て楽しかった」
そう言ってセリンはオーファンの背に手を回して抱きしめた。一瞬オーファンは何が起こったかわからず固まっていたが、自分の状況を理解すると顔を真っ赤にし、同時に頭から煙が出たかのような状態になった。
「セ、セリ……え……?」
「僕、ずっと思ってたんだ」
オーファンは棒立ちのまま固まっていた。オーファンからセリンの顔を窺うことはできないし、その逆も出来ない。
「君のように行動力のある人間になりたい、なれればって」
「な、何を……」
「だから、僕が決断できるのも、行動しようと思えるのも、全部君のおかげ。有難う」
そう言ってセリンはオーファンのポケットにチェスの駒をひとつ忍ばせ、オーファンから体を離した。
オーファンは予想外の出来事に混乱して扉を開けずにドアに一度激突した後、震えた手で扉を開いて外に出る。
以前、オーファンが自分をこの神殿まで見送ったときと同じようにセリンは手を振ったが、オーファンはそのときのように何度も振り向ける状態ではないようだ。
結局友人が一度も振り向かないまま姿が見えなくなったのを確認すると、セリンは小さな神殿の外観を見上げる。
ここは水の巫の牢獄なんかじゃない。水の神の牢獄だ。
「ふぅ……」
自分の決意を隠しきれたことに安堵し、深く息をつく。オーファンはセリンにとってはたった一人の友達だ。一緒に破滅するかもしれない道なんて歩ませたくない。持って生まれた才能を生かし、自分自身の道を歩んで、幸せになって欲しいと思っている。
今日、オーファンが来てくれたのは嬉しい誤算だ。手紙なんかじゃなく、最後にオーファンに会えて、話すことができて本当によかった。もう、思い残すことは何もない。
オーファンに宛てた最初で最後の手紙。結局渡すことはなかった。これからの計画を綴ったこの手紙は、渡すべき運命ではなかったのだろう。だって、今日の彼を見て確信してしまった。自分の決意をオーファンに知らせれば、きっと、それが例え破滅への道だとしても彼は喜んでついてくるだろうから。
だから、オーファンの顔を見た瞬間、手紙の事はわざと忘れた振りをした。
オーファンは自分を決して疑ったりはしない。手紙を書いていた事も気が付かれていないだろう。
セリンは渡すことのなくなった手紙を二つに破ると、焼却炉の中に投げ入れる。
オーファンがいなければこの決断に至る事はなかった。仮に考えたところで、それを実行に移すために行動しようだなんて絶対に考えなかっただろう。
この牢獄に囚われている母に似た女神を自由にしたい。それが、いつしかセリンの願いになっていた。
オーファンが去ってから最初の満月の夜中の事だった。
冷たい、冷たい、水の流れが断ち切れる感覚。
「む……?」
いつものように神殿の祭壇の中で眠りについていたアクエリは、不意にただならぬ気配を感じ、目を覚ます。
封印が、壊された。
「いったい何が起きたのじゃ……!?」
本来、アクエリに害を成す者は結界に阻まれここまで来ることは不可能だ。いや、そもそもここまで暴かれてしまうまで気がつかないこと自体、異常なことであった。
「!」
刹那、現在の水の巫の安否が気にかかった。
「セリン? セリンはおるか!?」
自分が気がつかなかったのだ、もしかするとすでにやられている可能性も高い。今まで何人もの水の巫の死を見てきた筈なのに、何故か不安で仕方がない。
「大丈夫ですよ、アクエリ様。僕はここにいます」
セリンは、祭壇の前に静かに佇んでいた。外傷もなければ、魔力が封印されている様子もない。そこから導き出される答えはひとつしかなかった。
「まさか、そなたが封印を解いたのかえ?」
「……はい。この森を護る結界も全て、解除しました」
夜の暗がりで、セリンの表情はわからない。水の巫がこのような行動に出るなんて、予想外もいいところだ。
「いったい何が目的じゃ」
「僕と一緒に、外の世界に行きましょう」
「な、何を言っておるのじゃ!」
封印の外にペシャリと倒れこんだアクエリは、慌ててセリンを見上げる。
「アクエリ様は、我が国の護り神です。それは分かっています」
剣と水の都。街に張り巡らされた水路は、王国に繁栄をもたらした。ロリザー王国の治水と引き換えに生命維持に必要な多くの信仰を得た。
「できぬ。わらわがここを出れば、ロリザー王国の治水は狂うじゃろう」
「わかっています」
焦る神と淡々とした人が対峙する様子は、まさに異常。二人のいる空間は、すべてが狂い始めていた。
「わかっておるのならば考え直せ。そなたは水の巫であるだけではなく、この国の王族なのじゃろう?」
「それ以前に、一人の人間です。あなたがここに閉じ込められているのはおかしい。人として、そう思っただけです」
「同情か?」
そのアクエリの反応を受け、セリンは肩を震わせたかのように見えた。
「同情だけでこんな馬鹿げた真似をすると思いますか?」
外の雲が晴れ、祭壇が月明かりに照らされる。目の前の少年の表情は、今にも泣き出しそうだった。
「セリン……?」
「この国を犠牲にしても構わない、僕はあなたの自由が欲しい。そして、僕には一人であなたを生かすだけの力がある」
セリンは震えた声で倒れたアクエリに向かって手を差し出す。神のアクエリがいうのも可笑しいが、月明かりに照らされ、手を差し伸べるその姿は、息を呑むほどに神々しかった。
「ならぬ。わらわはこの国を護る義務がある」
「それはあなたの本心じゃないでしょう!?」
セリンの表情は余りにも必死で、鬼気迫るものがあった。何かに追い詰められているかのようにも見えた。
「何故、わらわにそこまで……」
「12年前、僕は幼く無力で、精神を病んでいったであろう母上を助けることは出来ませんでした。だから、もう、現実から目を背けることはしたくないんです」
「母親に対する罪滅ぼしのつもりかえ? 幼かったのなら仕方ないじゃろう。それに、わらわを自由にしたところで必ずしもわらわが幸福な結末を辿るとは限らぬ。それでもわらわを連れ出すのか?」
「行動しないと、何も変わらないから」
オーファンがよく言っていた言葉をセリンは口に出す。
そして、アクエリの方に手を差し伸べて揺ぎ無い意思で自分の言葉に繋げた。
「もし、あなたにも、変わりたいという意思があるのなら、僕の手をとって下さい」
衝撃的だった。自分は水の巫を放棄するからあなたもこの国の護り神を放棄しろ、生命の維持は自分に任せろ。目の前の少年はそう言っているのだ。
「…………」
思えば、どこかで神である事を放棄したかったのかもしれない。これは、きっかけに過ぎなかったのかもしれない。
ふと、強く手を握られた感触。
気がつけば、アクエリはその檻を壊した少年に向って、真っ直ぐに手を伸ばしていた。
「やはり、そなたも、狂っておるよ……」
「どこに行きましょうか。ハネモトにします? それとも、もっと遠くの、誰にも邪魔されないところに行きましょうか?」
アクエリは思わず喉を鳴らして笑う。
「ここまで狂ったことを抜かす水の巫はそなたが初めてじゃ。狂わぬのではなかったのかえ?」
「それなら……」
セリンはその手を強く引っ張り、蛙の女神を抱き寄せた。
「僕と一緒に、あなたも狂って下さい」
アクエリは、その言葉に同意はしなかったが拒むこともなかった。
セリンはアクエリを連れて外に出る。アクエリの姿はセリンにしか見ることが出来ない。セリンさえ見つからなければ、次に神殿騎士が来るまでセリンとアクエリが神殿を抜け出した事実は外部には漏れないだろう。いや、この国の魔法の専門家は極端に少ない。セリン一人が逃げ出したと判断された場合、事実の発覚は更に遅れるだろう。
そして、セリンがアクエリを連れて逃亡した事が発覚すれば、セリンを水の巫として推薦した王妃の立場も悪くなるだろう。
「魔法を嫌っているくせにアクエリ様を利用するだけ利用したツケ、払ってもらうからね……」
「何か言ったかえ?」
「……何でもありませんよ。誰かに見つからないように急ぎましょう」
わずかな月明かりを頼りに、初めてここに来たときに覚えた道を戻る。この前の嵐で雷が落ちたのか、ひときわ背の高かった木は折れていた。
セリンの部屋の机にぽつりと残されたチェス板に乗っている駒は、ルークが一つ欠けていた。