第六話 水の巫セリン
王宮を出るのは同じ日という予定であったが、騎士団の都合によりオーファンの入団が一日遅れ、セリンの方が一日早く王宮を出ることとなった。
セリンは、普段より多くの包帯が巻かれた左手をさすりながら軽くため息をつく。
セリンの予想通り、それまでにオーファンは何度か詰めた荷物をひっくり返していた。ギリギリということもあり、セリンも昨日はオーファンの片付けを手伝う羽目になったのも予想の範疇である。
「見送れるから日取りがずれてよかったよ!」
「そう」
自分が行くことによって沈んでしまうのではないかと思ったが、オーファンは笑顔だ。オーファンも同じく荷物を持っていた。
これから一日セリンのいない状態で王宮で過ごすわけにも行かず、オーファンはひとまず実家に戻ってから騎士団に入団するらしい。
だが、そんな自分の予定よりも、セリンのことを見送ることが出来るのが本当に嬉しいようで、始終笑顔だ。
「馬車かー、馬車を見ると郊外に行くんだなって感じだな」
神殿とは言われていたが、国民が参拝するような場所ではない。当然、神殿の周囲まで国民の道路である船が通る水路は延びていない。
「殿下、荷物はそれだけでよろしいのですか?」
「はい、必要のないものは全て処分しました」
ちょっと街に繰り出す、という説明で納得してしまいそうな小さな鞄を持ったセリンが頷く。
「では、神殿に参りましょうか」
神殿騎士は、騎士とは言っても武器を持つことは許されていない。セリンの軽い荷物を変わりに持とうとしたが、セリンはやんわりと断った。
「あ、セリン」
左手をかばうように死ながら迎えの馬車に乗り込もうとしたセリンを、オーファンは追いかける。
「どうしてついてくるの?」
「どこまで見送りしていいんだ? 歩きで構わないから、行ける所まで一緒に行かせてくれ」
オーファンは名残惜しそうにセリンを見る。セリンは仕方ないな、と言った感じで軽くため息をつくと、迎えに来た神殿騎士に声を掛けた。
「あの。従者が最後まで見送りをしたいと。馬車に乗せても大丈夫ですか?」
「ああ、構いませんよ」
「乗っても大丈夫だよ、神殿まで見送りに来てもいいって」
「やった!」
オーファンはガッツポーズをとると、馬車に乗り込み、セリンの隣に座る。向かいの席に、どすんと大きな音を立てて大荷物が置かれた。これでもセリンの手によりだいぶ減らした状態なのだから恐ろしい。
膝の上に置けるほど小さなセリンの荷物とは実に対照的だった。
予定外にこんな大荷物を運ばされ、馬車の馬も気の毒である。
馬車は重そうな音を立て、街の外れにある水の神殿があるという森に向けてゆっくりと動き始めた。
森についてからは徒歩で神殿まで行くことになった。
森の中はひんやりとしていて、川のせせらぎがはっきりと聞こえるほどに静かな森だった。
隣を歩くオーファンは肩で息をしている。重い荷物を持って足場の悪い森を歩いているのだから無理もない。置いていけば? と言ったのだが、大事なものが入っているからと聞かなかった。
セリンは数歩先を歩く神殿騎士を追いかけながら、どこを通ったのか隣を流れる川を参考に記憶しようとしていた。もっとも、自然である以上、目印を決めても変化してしまう恐れはあったが。
急に開けた場所に出たかと思うと、神殿騎士が立ち止まった。
「こちらが、水の神殿になります。女神アクエリ様はこちらにおわします」
隠れるように立てられた小さな神殿。雪のような、氷のような青みがかった白い材質で作られている。セリンにはこの素材が魔力を帯びていることに気がついた。ロリザー王国の建造物としては異質である。
オーファンは大きく息をつくと、セリンに向き直った。
「それじゃあ、またな」
「うん、また」
「暇ができたら絶対遊びに行くから」
「僕も、手紙を書く」
「じゃあ、これに書いてくれ。忘れるなよ」
あらかじめ準備していたのか、20枚くらいの羊皮紙と封筒をセリンに持たせる。セリンは呆れたようにオーファンを見上げた。
「……すさまじい長文を書けと?」
「それは、お前に任せる!」
「それでは、殿下にご説明しなければならないことがありますので、お待ちいただけますか?」
金髪の神殿騎士に付き添われ、セリンが神殿の中に入っていく。セリンに一通り説明を終えて出て来た神殿騎士に小突かれるまで、オーファンは神殿の方を見つめていた。
説明を終えた神殿騎士が後手に神殿の扉を閉めて外に出て行く姿を認めてから、セリンは自室として与えられた奥の部屋に入る。
これから、水の巫としての生活が始まる。不思議と緊張は無かった。
神殿騎士による説明はこうだ。
これからセリンは死ぬまでアクエリの世話をし続けること。食糧や生活必需品は神殿騎士の手により、週に一度まとめて届けられる。手紙がある場合もその際に神殿騎士に渡せば届けてくれるとのことだ。
一日の作業はごく単調で簡単なもの。祈りを捧げ、経典に目を通すのは当然として、神殿内とその周辺の掃除もしなくてはならない。
正直、気合を入れて覚えるほどの事でもなかったし、心配事もない。むしろ、これからの自分の生活よりも、ここまでついてきたオーファンが帰りに迷わないかの方が心配だ。
念のため、神殿騎士に森を出るまでオーファンに付き添って欲しいとは頼んだが、本当に大丈夫だろうか。
「……」
心配していても仕方ない。セリンは気持ちを切り替え、氷河のような青さを持つ室内をぐるりと見回す。
通ってきた森も静かであったが、神殿の中はさらに静かであった。いや、常に水の流れる音がしているが、不思議と静かであるように感じられると言った方がいいのかもしれない。
家具は全て同系色で揃えられている。見た目は雪の彫刻のように寒々しいが、色を除けば何の変哲も無い普通の部屋である。王宮にいたときの自室の半分ほどの広さしかないが、元々セリンの部屋のもう半分はオーファンが使っていた。特に不便は無いだろう。
唯一持ってきた私物であるチェス板と駒を小さな机に置く。貴族の嗜みとしてオーファンと何度も対戦したチェス。結局セリンがオーファンに負けたことは一度も無かった。
触れてみると決して冷たくは無い箪笥を開ける。中には水の巫の法衣らしきものがきちんと畳まれて並べられていた。青白い部屋には不自然な黒いローブ。手に取ると暖かさを感じる。今セリンが着ている服の布と変わらぬ高級感だ。
今の格好のまま水神アクエリに挨拶に行くのはまずいだろうと、手に取った水の巫の法衣に着替える。セリンの体格に合わせて仕立てられていたのか、驚くほどぴったりである。
ここにいる間に身長が伸びたら、それに合わせて服も取り替えてくれるのだろうか。そんなことを思いながら今まで着ていた服を備え付けの小さな焼却炉に放り込む。
今は火がついていないため、取り出せばまだ着る事は出来るだろう。逆に、そのまま焼却炉の中に入れておけばいずれ燃えることになるが、王宮を思い起こさせるものに未練は無い。
法衣の裾を直し、水神アクエリのいる祭壇に向かう。
厳重な封印を施されたその奥に、神はいた。
それを見たセリンはどうしようもない違和感に思わず変な声をあげそうになったが、慌てて飲み込む。
透き通るような水色の蛙。目を閉じていたそれは、うっすらと目を開く。
「わらわは、水神アクエリ。ずっと、そなたを待っていた」
その声は、セリンの体内を侵食していくかのようにじんわりと浸み込んでくる。
「あなたがアクエリ様なのですか……?」
「なんじゃ、不服かえ?」
「いいえ、そんな事はありませんが……」
セリンはアクエリの言葉に対して何かを言いかけたが、気を取り直したようにアクエリに向き直る。
「今日よりあなたのお世話をさせて頂きます。セリン・ノワールです」
封印越しにその神の前に跪き、深く頭を下げた。
それを見た神の目は、少し悲しそうに揺れたまま、殆ど変わらない。目の前の水色の蛙は魔力で象られた水の球の中にまるで胎児のように浮かんでいた。
「アクエリ様、どうなさいました? いつも体を動かすことはないのですか?」
アクエリに目立った反応がない事を不審に思ったセリンは顔を上げる。
「そなた、やはり、わらわの姿が見えるのじゃな?」
「水の巫として任命された者は皆そうだと思ったのですが、違うのですか?」
「偶像の数々を見れば分かるじゃろう? 普通の水の巫にはわらわの声程度しか聞こえぬよ」
王都で『水神アクエリ』と言われれば美しい女性の姿で表されていた。そして、セリンが最初にアクエリを見たときに感じた違和感の正体はそれであった。
「わらわが見えるとは……そなた、ただの水の巫ではないな」
「どういうことですか?」
「おそらくそなたは水の巫よりもひとつ上の領域にある存在」
「僕が、あなたの依り代だとでもおっしゃるのですか?」
セリンは思い当たったことを口にしただけだったが、アクエリは初めて顔を上げ、驚いたようにセリンの方を見た。
「そなた、何故それを知っておるのじゃ? ロリザー国内では知りえぬはずの情報のはずじゃが」
アクエリの言うとおり、ロリザー王国では魔法に関する書物には厳しい検閲が入り、ほとんど売られていない。
だが、セリンには母親がいた。魔法王国とされている南の島国ハネモト王国から彼女が持参した魔法に関する書物は、いつでもセリンの手に届く場所にあったのだ。
「母の持参した本で知りました。母はこの国の人間では無かったので」
「ふむ……そなたが依り代である以上わらわをどうこうするとは思わぬが、少し喋り過ぎたようじゃな」
「ええ。依り代は必ず神を愛するようになっていますからね」
「……」
水の巫として任命されたからといって、その者が神の依り代であることとは別問題だった。
神は人々の信仰を糧として生きている。だが、通常、信仰によって人々から得られる力は何倍にも薄められ、ようやく神に届くため、多くの信仰者が必要になる。
対して、依り代としての器がある者はその力を希釈することなく直接神に与えることが出来るため、一人で何万もの信仰者の役目を果たせてしまうのだ。
それだけではなく、依り代は物理的に神に干渉することが出来る唯一の存在。そして、神が死んだとき、自らの肉体を神が復活を待つ器として差し出すことになる存在でもある。
その気になれば神の全てを奪うことも、神の全てを手に入れることも出来た。目の前にいる神を殺すことも、力を与え反逆をそそのかす事も出来た。依り代である事は、神を好きにする事ができる力を持っているという事と同義であった。
しかし、世の中とはよく出来ているものである。セリンが読んだことのある書物によれば、依り代として生を受けた時点でその者は必ず神を愛するように出来ているらしい。そのため、依り代は神に危害を加える事は有り得ないのだそうだ。
とは言え、今の時点でセリンはその事を実感する感情はアクエリに抱いてはいなかった。もっとも、彼女に危害を加える理由も一切ない。今はただ、自分がどんな立場であれ仕事を全うするだけである。
「アクエリ様。あなたにお仕えできて光栄です」
セリンはひたすら無感情で話している。最初にアクエリの姿を見た時に見せた驚きの感情以上の感情を、一度も見せてはいなかった。
「誰でも、最初はそう言うのじゃ」
全てを諦めたように呟くアクエリに、セリンは淡々と話す。
「水の巫に選定された人は、この閉鎖環境に耐えられず、自ら命を絶つ事が多いようですね。ここは、魔力の強い異分子を閉じ込める為の牢獄としての意味もあるのだとか」
ピクリ、と水色の体が反応した。
「物を知っているそなたが相手だとやりにくいのう……どこでそれを聞いたのじゃ?」
「精霊の噂で」
貼り付けたような笑顔で言い放ったこの新しい水の巫の目は、何も映していなかった。
「大丈夫ですよ。僕が今までの人と違うのは、アクエリ様もよく分かっているはずです。それでは」
セリンは一歩下がり、女神に一礼をすると、祭壇と言う名の神を閉じ込める檻を後にした。
再び水の音以外一切聞こえなくなった室内で、残されたアクエリが呟く。
「あやつは……いったいなんなのじゃ……」
神としてみれば、依り代が目の前に現れたことは喜ぶべきなのかもしれなかった。しかし、アクエリは何ともいえない不安な気持ちに包まれていた。
穏やかに、穏やか過ぎるほどに日々が過ぎていく。
変わり映えのしない毎日。朝に起きて、祈りを捧げ、食事を摂って、経典を読み、祈りを捧げ、食事を摂って、経典を読み、掃除をして、祈りを捧げ、食事を摂って、経典を読み、そして夜に眠る。
誰も見張ってはいないのだが、このわざと人の精神を蝕むかのように規則的な水の巫の一日の予定を、セリンは崩すことはなく実践していた。
「そなたは不思議じゃのう」
昼の祈りを捧げていたセリンに、アクエリが声をかける。
「どうしてですか?」
「毎日飽きもせずに、精神的に追い詰めるように考えられたお勤めを、嫌な顔ひとつせずに繰り返しておる」
「それが、僕の仕事です」
別にそれが苦でもないといった感じで膝の上に乗せた経典の表紙を撫でるセリン。相変わらず表情らしい表情を見せない。
「今までの水の巫を見ていると、この繰り返し行為は嫌になるものだとわらわは思っておったのじゃが」
「確かに、毎日同じ事をしているのかもしれません。でも、外の様子は少しずつ違います」
「ふむ、そのような事を言い出す水の巫は初めてじゃな」
「それでは、アクエリ様も退屈せずに済みますね」
セリンはアクエリの背後にある大きな窓から外を見ながらゆっくりと話す。
「一昨日は静かな雨でした。昨日は空気が透明でした。今日は神殿に差し込む光がとても綺麗です」
「……」
「明日はどうなると思いますか?」
「神は万能ではないぞえ。未来を予知することなどできぬよ」
「未来を予知するのではなくて、アクエリ様の適当な勘でいいんです。外れても誰もアクエリ様を責めたりしませんよ」
そう言ってセリンは笑う。神なら何でも出来るのだろうという妙な幻想も持ってはいないようだった。
それ以上に、久々に見る事が出来た彼の表情に応えないわけにはいかない気がして、アクエリはセリンの方を向く。
「そうかえ。しからば、わらわは晴れを願う事にするかの」
「アクエリ様が晴れを願うなら、僕も晴れを願います」
だが、セリンがアクエリに見せたその笑顔は、やはりどこか作り物めいており、人間離れしていた。
「そろそろ、食事の時間じゃないのかえ?」
「はい。では、また夜に」
セリンは一歩下がってアクエリに一礼すると、祭壇を後にした。自室に戻っていくセリンの後姿を見ながら、アクエリは不思議な引っ掛かりを感じていた。
ロリザー王国は魔法が嫌われ、差別される国だ。今までここに来た者も高い魔力を持ち、アクエリに仕えるために来たと言いながらも、心のどこかで我が身を嫌悪し、アクエリの傍に置かれ未来のない自らを呪っていた。
水の巫など皆そのようなものだと思っていたが、セリンは違った。自らの体に流れる魔力を呪うことも無く、この場所にも心から望んで来たかのようだった。
それは彼が依り代としての器があるからと納得させることは一応出来る。それでも、セリンの立ち振る舞いから感じ取れる「嘘っぽさ」がどうしても拭えない。
アクエリにとってはあまり長くは無かった王国の歴史の中で、初めて水の巫としてこの神殿に派遣された者の人となりが気になった。それは、見慣れぬものを見た事による興味だったのかもしれない。
「神たるわらわが、どうかしておるな……」
そうセリンに聞こえないように呟いた所で、何も変わりはしなかった。
一方、栄養が計算しつくされているかのような食事を終えたセリンは、一人で神殿の外に立っていた。壁に立てかけられているほうきには触れず、地面をゆっくりと撫でる。
命懸けで空気を浄化して散った葉を、一枚一枚集めていく。深い霧のかかった森の中で落ちた葉は等しく露に濡れ、ひんやりとした感覚が手に伝わってきた。
森の外よりもいくらか涼しく水っぽい空気を思いっきり吸い込む。理解できない。いったいこの生活のどこが退屈なのだろうか。
高い木々の隙間から空を見上げる。さわさわと揺れる葉の向こうには、透き通るような青空が見える。眩し過ぎる太陽の光がやわらげられてセリンの目に届いた。
「本当に、いい天気」
セリンは自分の発した言葉に何かを思い出したかと思うと、集めた葉を丸め、ポケットに入れていた白いハンカチで包み、顔もない簡素な人形を作る。
「明日は、晴れるといいな」
珍しく独り言を呟き、神殿の軒下に先ほど作った人形を吊るした。
オーファンがいれば、すぐにこれは何か、何をしているのかと訊いてきたのかもしれないが、今は居ない。
これは、ロリザーの風習ではなく、母上の祖国の風習。天気が晴れる事を願って「てるてる坊主」というのっぺらぼうの人形を軒下に吊るし、晴れれば顔を描いてあげる。彼が居ればそう説明したのだろう。
そう言えば、オーファンに手紙を書いていなかった。彼の事だから神殿騎士がうんざりするほど自分からの手紙の事を問うているに違いない。
自由時間は魔法の修行をして過ごす事が多いが、今日はオーファンに手紙を書いてあげよう。きっと喜んでくれるだろう。それとも、手紙を寄越すのが遅すぎると怒るだろうか。
いや、間違いなく怒るだろう。それどころか、そろそろ心配して神殿に乗り込んでくるかもしれない。オーファンならありえる。次に神殿騎士が来るまでに急いで書かないと。
セリンはそんな自分の考えに苦笑する。アクエリとの会話も非常に興味深いもので、楽しいとは感じていたが、こんな風に笑ったのは久しぶりだ。
セリンにとってオーファンは大切な友人であることは確かだ。無計画で、極度の負けず嫌いで、口よりも先に手が出るところには随分と苦労させられたが、困った人を放っておけない優しさ、そして純粋さはセリンにはない長所だった。
オーファンはそんなことを思われているなんて夢にも思っていないだろうが、いつも羨ましいと思っていた。
オーファンのように自分の気持ちを正直に出して行動的になる事が出来れば、自分も変わることが出来るだろうか。オーファンを見ながらいつもそんな事を考えていた。
ついさっきまで記憶の隅に追いやられていた記憶が次々と溢れ出てくる。懐かしさがこみ上げてきた。手紙に書きたいこともまるで泉のように湧き出してくる。
セリンは手早く神殿前の掃除を済ませ、神殿内に戻った。オーファンに無理やり渡された便箋はどこにしまっただろうか。もし失くしていたらオーファンは怒るだろうな、そう考えるとまた笑ってしまう。
ようやく見つけた羊皮紙の束を広げ、陽の高さを確認する。午後のおつとめまではまだ時間があった。セリンはホッとしたように羽根ペンを取り出すと、思いついた事を頭の中でまとめる作業に取り掛かった。
――。
「!? 今何時だ?」
気がついた時には、柱時計は夕飯の時間近くを指していた。
「嘘でしょ!?」
時計の音にも気がつかずに手紙の内容を考えていたセリンは慌てて顔を上げ、小走りで祭壇へと向かう。
アクエリは、いつもと同じ様子でいつもと同じ場所にいた。
「そなたも、時間に遅れる事があるのじゃの。ある意味、少し安心したぞえ」
「申し訳ありません」
「よい。気にするな。どうして遅れたのじゃ?」
セリンが時間に遅れたのはこれが初めてだった。機械のように正確で不気味さすら感じていたセリンが初めて遅れるほどの状況になった理由が気になり、思わずアクエリはセリンに尋ねる。
「友人に手紙を書こうと思ったのですが、なかなかまとまらなくて……」
意外な言葉だった。いつだって孤独に見えた彼に、友達がいたなんて。まだ全然目の前の依り代の事を知らないのだとアクエリは話す度に思い知らされる。
「ならば、まだ書くときではないのじゃろう」
「そういうものなのでしょうか」
セリンは腑に落ちない様子だったが、すぐにいつも通りに座りなおした。
「遅れた上に、少し話し過ぎてしまいましたね。午後のおつとめを致します」
急ぐこともなく、普段と変わらぬ様子でアクエリに祈りを捧げたセリンは、目を開けた。
「そう言えば、アクエリ様にお訊きしたいことがあるのですが」
「なんじゃ?」
「アクエリ様は、この場所にずっと閉じ込められている事をどう思いますか?」
「面白い事を訊くのう?」
「質問を変えましょうか。歴代の水の巫が自ら命を絶つような閉鎖空間で、あなたは何を思いますか?」
「……何も思わぬよ」
「そうですか」
予想通りの答えを返されたかのようなセリンの反応。
「自らに仕える者の死に心を痛めぬ事に、慈悲深き神ではない事に、そなたは驚かぬのだな」
「驚きませんよ」
祭壇の前に座る少年は、いつになっても憔悴した様子が見られない。
「アクエリ様。僕は、母上が生きていたころと同じくらい、ここに居て幸福を感じています。それは事実です」
「わらわもそなたと居ると退屈せぬよ」
だが、それは退屈しないだけの話。自分が置かれている状況には何も感じていなかった。いや、感じないようにしないとおかしくなってしまいそうだったから、全てを諦めて受け入れることにしていた。
「じゃが、本当にそなたが幸福を感じているようにはわらわは思えぬ」
「そんな事はありませんよ」
「それは嘘じゃな」
「何故そう思うのですか」
「そなた、わらわを信じておらぬじゃろう?」
「そう見えますか……」
アクエリの問いに答えるかのように、セリンは自嘲気味に笑った。セリンの心からの感情を見たのは実に久々であった。神から見ても美しいと思える姿に、アクエリは思わず息をのむ。
「ええ。信じていません」
その答えに、迷いは無かった。依り代は必ず神を愛する、そう言われている事が嘘であるかのように、はっきりと言いきっていた。
「理由を訊いてもいいかのう」
「アクエリ様が、本当の事を……言わないからですよ」
アクエリはギクリとしてセリンに向き直った。セリンは下を向いたまま何かを自分に言い聞かせるかのように口だけを動かした後、顔を上げる。互いの目が合った。
「貴女こそ、本当のことを言ってくれませんか? 貴女が国に否定的なことをおっしゃっても報告したりしません。ただ、貴女の本心が聞きたいんです」
少し困ったような、真剣な表情。今までセリンと対話をしてきて、初めて人間の表情らしい表情を見た気がした。
「僕は貴女の依り代です。例え何があっても貴女を優先する事は貴女も分かっている筈です。そう運命付けられているのが、僕とアクエリ様の関係ではないのですか」
「そなたの口からそんな言葉が出るとは思わなかったのう」
「そうでしょうか」
「あまりにもそなたがわらわに対して身構えるから、伝承を疑っておったくらいじゃ」
確かに、今までわざとそういう態度をとっていた。アクエリの言う事ももっともである。それなのに、どうして突然アクエリに包み隠さない気持ちをぶつけてしまったのかセリンにも分からなかった。
が、ある言葉がセリンの口をついて出る。
「僕は嘘付きで、卑怯者ですから」
口では自らを無価値と言っているが、本当は自分が可愛くて可愛くて仕方がないのだ。否定されれば傷つくほどに弱いから、自分を守る為に防衛線を張っているのだ。
「僕の心の中を見てしまったら、汚くて、醜くて、きっとアクエリ様は僕を嫌いになりますよ?」
「……」
「今日は遅れて申し訳ありませんでした。それでは」
セリンはわざと表情を見せないかのように俯きながら、アクエリの前を後にした。
気の遠くなる日々。永遠の時を刻むような日々。でも、まだたったのひと月。緩やかで、穏やかで、外の世界と完全に切り離されたこの場所で、今日もセリンはアクエリがいる祭壇の前にいた。
「アクエリ様は、死んだ母上に似ています」
「急に何を言い出すかと思えば……」
下を向いていたセリンの表情は、アクエリからは見えない。
「と言っても母上の記憶はほとんどありません。でも、アクエリ様を見ていると、母上を思い出すんです。どうしてでしょうね」
「ハネモトの人間はこんな蛙のような姿だったということかえ?」
母親の出身地である「ハネモト」の名を出され、セリンは一瞬動揺した。ロリザーとは正反対の呪術と魔法の国ハネモト。ロリザー王国による魔法に対する畏怖からの侵攻を恐れたハネモト王国が人質として美しい娘を差し出した事は、たった百五年のロリザー王国史においても比較的最近の出来事である。そして、それが、ロリザーとハネモトの唯一の国交であった。
「もちろん見た目は違いますよ。もっと内面的な部分です」
「それは、喜ぶべきことなのかのう?」
「どう感じるかはアクエリ様次第ですが、つい二年前まで、信じることができた唯一の人が母上でした。だから、褒め言葉と受け取って頂いて構いません」
わざわざ二年前と強調しているセリンはアクエリからの質問を待っているかのようだった。
最近、セリンはアクエリを試すような振る舞いが多くなってきた。アクエリがセリンに興味があることに気がついていて、わざと気になるような言い回しをする。それを受けてアクエリがセリンから情報を引き出そうとする事を、喜んでいる節があった。
まったく、神に対して礼儀知らずな水の巫もいたものである。もし、セリン以上に神に対して無礼な「依り代」がいたら顔を見てやりたいところだ。そして、そんな状況を許してしまう情けない神がいたら思いっきり笑い飛ばしてやりたい。
「アクエリ様、どうなさいました? 考え事ですか?」
意地の悪そうなセリンの笑み。セリンの企みに乗ってしまうのは癪だが、訊かずにはいられない。
「おぬしには、他にも信じることが出来た人物がいるのじゃな。二年前ということはわらわではなかろう?」
「はい。信頼はしてますけど、安心はできない友達がいます。次に神殿騎士が来たときに、手紙を届けてもらおうと思っています」
「そう言えば、前に手紙を出すための便箋を探して祈りの時間に遅れたことがあったのう。しかし、そのような仕事も神殿騎士の仕事にあると聞くが、本当に手紙を利用した水の巫はそなたが初めてじゃな」
アクエリがそう言うと、それに反応してセリンが笑う。
「僕と一緒にいると飽きないでしょう?」
「わらわはそなたの母ではない。あまり調子に乗るでないぞ」
「ふふふ」
自然に出た笑い声にセリンは自分自身で驚いた。
オーファンに対するため息交じりの笑いや、感謝の微笑みとは質の違うものだった。
だが、セリンはこの笑いを知っている。だからこそ、ひどく懐かしかった。
そう、あれは僕がまだ純粋だった頃。王宮の離れに母上と二人で住んでいた頃。僕はいつも母上をこうやってからかって笑っていたんだ。
「アクエリ様。そんなに僕に興味があるのなら、いつか一緒にハネモトに行ってみませんか?」
「何を馬鹿なことを言っておる」
「僕もハネモトの事は母上に聞いたことしか知りません。本当は僕が死ぬ前には一度行きたいと思っていましたけれど」
「この国が滅びない限り、無茶な願いじゃな」
「分かってますよ、そんな事。冗談です」
そう言ってセリンは笑った。その笑顔は、自然な笑顔だった。
セリンとアクエリしかいない小さな世界は、本当に緩やかに、同じように、日々が過ぎていく。そして、今日もセリンはアクエリがいる祭壇の前にいた。
「アクエリ様」
「おつとめの時間以外に話しかけてくるとは珍しいの、何じゃ?」
「今週は神殿騎士が来ないのですが、こういった事はよくあるのでしょうか」
「神殿騎士? あの金髪の男か?」
「はい。僕のための食糧は神殿騎士が運ぶ手筈になっています。一度来ないくらいは大丈夫ですが、これがずっと続くと飢えます」
相変わらず自分の事なのに自分の事ではないように話す。この前の件で少しだけ互いの距離は縮まったように感じたが、今になってもアクエリにはセリンの考えている事は見当が付かなかった。
「そ、そうじゃったな。森には果物もなっているし、獣も居る。やむをえない理由じゃ。神殿のお勤めの回数を減らして狩りに出てもよかろう」
「わかりました。本当に食べ物がなくなったら考えます」
「代わり映えのしない食事でつまらぬじゃろう? たまには嗜好品を食べても構わぬのじゃぞ」
「いいえ。栄養に偏りが出ないようにできていて、驚いたくらいです」
確かに栄養に関しては一般的なロリザー王国で出される食事よりもはるかにバランスのよいものであったが、同時に非常に味付けが薄い病人の食べるような食事で、今までの水の巫は愚痴をこぼしていることが多かった。
「そなた、好きな食べ物とかはないのかえ?」
「特に何も……いや、タルトが好きですね」
オーファンと一緒に食べたあのタルトの味は忘れられなかった。生まれて初めて食べ物をおいしいと思った。
「ほう。意外と、甘いものが好きなのじゃな」
「そういうわけではありません。嫌いでもないですけど」
「はっきりしないのう」
「僕にとって食事は、飢えないためにする行為でしたから」
「そういう民族もおるようじゃがな」
「僕、厳密にはロリザー人ではないですから。派手な物は好みませんよ」
「何を言うておる。ロリザーよりもハネモトの食事の方が飾り切りや飴細工が発達しておるのじゃ。ハネモト人の方が食事は見て楽しむものだという意識が強いのじゃよ」
「…………」
「どうしたのじゃ」
しばらくの間があった後、セリンは一歩前に出た。
「詳しく聴かせて頂けませんか」
「す、すまぬ、わらわもそこまでハネモトの文化には詳しくはないのじゃ」
珍しく目を輝かせて話に食いついてきたセリンに申し訳ないという気持ちでアクエリが詫びると、これまた珍しくセリンは沈んだような表情を見せた。
「そうですか。無理を言ってすみません」
「ずっと気になっておったのじゃが、そなたは自分がハネモト人であると思っておるのじゃな」
「母上はハネモトの人間ですし、国王を父親だとはとても思えませんから」
「それでも、そなたはロリザー人として生きているはずじゃ、水の巫としてわらわの元に送られる者は、魔力の強いロリザー人である必要があるからの」
「それくらいは解っていますよ。ただ、僕が勝手にそう思っているだけなら問題ないでしょう?」
「そうじゃな。そなたがそれで良いのならそれでもよかろう」
「ええ、だから、僕はこの国を愛していない。それだけ言いたかったんです。お時間を取らせてしまってすみません」
そう言ってアクエリの前から立ち去ろうとしたセリンは、何かを思い出したように立ち止まり、振り返った。
「あぁ、そうだ。友人への手紙ですが、先程書き終えましたよ。次の神殿騎士が来たときに、渡そうかなって思ってます」
「そうかえ、その友人とやらもきっと喜ぶじゃろう」
「うーん、怒られるかも……しれません」
歯切れの悪そうなセリンの表情からは、ある種の迷いが見えた。
「どうしたのじゃ、そなたが地震がなさそうにするのは珍しいの」
「いや、大丈夫です、行動しなきゃ何も変わらないって、教えてくれたのは、彼だから」
その言葉は、アクエリに向けられたようで、向けられていないようだった。一つ一つの言葉を強調するように、それはまるで自分に言い聞かせているようだと、アクエリは受け取った。