第二話 魔術と斧術
オーファンはセリンの部屋に通じるコネクションルームの小さなベッドから体を起こし、大きな欠伸をした。あれから数週間が経過していたが、相変わらずだった。
「この生活って不健康だよなあ……」
また陽が高くなっている。ストレスのせいで寝不足になっているのかもしれない。連続で寝坊をしたとしても、本当に誰も咎めない事が、さらに寝坊を助長させる。悪循環だ。
着替えてすぐにセリンの元に向かったが、部屋にその姿はない。
何気なく半開きになっていた窓の外を見ると、そこから見下ろせる中庭に立っているセリンの姿があった。その数歩離れた先に的があるが、セリンは手に何も持っていない。
何をするつもりなんだろう。オーファンがセリンを見ていると、セリンは的に向けて手を突き出した。
次の瞬間、セリンの周囲に青白い光の紋様がいくつも現れた。かと思うと、その丸い紋様の中心から大量の水が溢れ出てくる。その水は瞬く間に大きなうねりとなり、正確に的を粉砕した後、何事もなかったかのように消え去った。
「魔法……か?」
思わず声が漏れる。魔法を見たのは初めてだった。ロリザー人の魔法の才は皆無と言ってよく、現在国を魔法の脅威から護るための軍隊のひとつである魔法軍も他国より雇った傭兵集団でしかない。
だからこそ、その凶器では済まなさそうな魔法の力が、セリンに流れる異国の血をより強く引き立たせていた。
それでも、オーファンはその無駄のない幻想の水を美しいとしか思わなかった。無意識に窓の外から拍手を送ってしまうほどには、畏怖の感情は薄かった。
セリンはその拍手の音に飛び上がるように反応し、慌ててその音の出所と思われる自室の窓を見上げる。二人の目が合った。
「なあ、そっちに行ってもいいか?」
そのオーファンの声を聞いて少しほっとしたような表情を見せたセリンは、無言のまま頷いた。
中庭に降り、セリンが破壊した的を改めてみると、原形をとどめていない細かな木片になっていた。
「凄いな、魔法なんて初めて見たよ。練習してこれだけの魔法を?」
「物心ついた時にはもうこれくらい出来てた」
その言葉を聞いて、今まで全く恐怖を感じていなかったオーファンも少し怖くなる。もし、セリンがもっと自らを高めようと努力した場合、どうなるのだろう。
魔法軍が認められたのは現在十三歳のオーファンの記憶にさえ新しい。魔法を未知の力と見ている者もまだまだ国内には多く、魔法に対するマイナスの感情は根強い。
人は異分子を嫌う。この魔法の才能こそが、王位継承者であるはずのセリンが自己評価を下げるように徹底した環境が王宮内でここまで簡単に浸透してしまった理由のひとつだったのかもしれない。セリンを邪魔と感じている王妃との利害が一致してしまったのだろう。
「俺も、出来るようになるかな?」
「普通は魔法書を使わないと使えないと思う。実用に耐えうるには才能も必要だし、練習しないと」
「あ、やっぱり才能とか練習が必要なのか……」
「純血のロリザー人は魔法が苦手な人が多いから、オーファンには難しいかも」
物心ついた時点ですでにこれだけの破壊力を持った魔法を使えるセリンはやはり才能があるようだ。そんなセリンを生んだ母親の出身地が気になるが、すでにこの世にいない人物の話題を息子の前で掘り返すわけにもいかず、黙り込む。
「でも、才能がなくても、神に上がろうと考えている精霊を信仰すれば、魔法が使えるようになるかも」
黙って下を向いたオーファンの様子を見て落ち込んだと思ったのか、セリンの方から珍しく話題を続けた。
「精霊?」
「この国の守護神アクエリ様も元は精霊から神へと上がった精霊神だし、精霊上がりの神は身近にいるものだと思う」
「へ、へぇ……」
言っている事はよくわからないが、セリンが珍しくオーファンのために解説をしているので相槌を打って耳を傾ける。
「野心のある精霊は常に信仰を得て神に上がろうとしているから、彼らを信仰する事を条件に力を貸してもらえばいい」
「そんなに、簡単にできるものなのか?」
「確実に信仰を得られる相手の前には自然に寄ってくるから、オーファンが本気で魔法を使いたいと思うなら」
「えーっと、つまり、精霊に交換条件を持ちかければ、才能がなくても魔法が使えるって事か?」
「そう。さらに、交換条件を持ちかける時に『誓い』を立てるといい。自分が使う魔法の対象を狭めるほど、『誓い』を破った時の代償を大きくするほど、力が濃縮されて強い力が使えるようになるって本に書いてあった」
「そうか……有難うな、考えておくよ」
とは言ったものの、セリンの言った事をほとんど理解できなかったのは流石にまずいだろうか。ともかく、魔法を通してセリンに近付くのは無理そうである。
「うーん……俺もちゃんとしないと駄目だよなあ」
「純血のロリザー人は魔法を使うような体じゃないから気にしなくて大丈夫」
「何だかお前は俺がいなくても自分の身を守れそうな感じがして、それでいいのかと思ってさ」
有事の時には自分がセリンに守られる立場になってしまう事が容易に想像できるほどに、セリンの魔法は凄かった。
もちろん、セリンが有事の時に自分を守ってくれるかどうかは置いておいて。
「従者が武術を嗜んでいるに越した事はないけど、無理をしてまで僕を守るなんて義務はない」
「それでもお前の魔法を見て俺もちゃんと稽古しないといけないと思ったよ」
最近はセリンと遊んではダラダラする毎日で、しばらく武術の稽古をしてなかった事を思い出す。
「剣術?」
「まぁ、騎士になるには剣術もやらないといけないんだけどなぁ。でも俺は斧術の方が好きだな」
「斧を使うの?」
オーファンがセリンに魔法の事を聞いたからなのか、珍しくセリンはオーファンに質問を浴びせる。
「剣とは違って豪快でかっこいいだろう? 貴族や騎士の間じゃ斧は蛮族の武器だって言われてるけどさ、剣はどうも合わないんだよな」
「自分に合わない武器を無理に使うより、いいことだと思う」
「そうだよな、有難う」
実家で戦斧を振り回していると小言しか言われなかったため、ある意味当たり前の事を言ったセリンの言葉でさえ有難いものに感じてしまう。
「稽古するなら、僕と手合わせする?」
「……多分俺の方が怪我じゃ済まないと思うぞ?」
そう言いながら、セリンの魔法で無残な木片にされた的を見やる。
「大丈夫、魔法は使わないから。ロリザーの決闘で魔法は無いよ」
魔法無しのセリンとの手合わせと聞き、セレスティナとセリンのデモンストレーションのような稽古試合を思い出す。
オーファンの目にはセリンがわざと負けているようにしか見えなかった。
「そうだな、本当のお前の実力も見てみたいし、今日は模擬戦でもするか」
「解った、いいよ」
「でも、俺の武器は家に置きっぱなしだった。ちょっと取りに戻ってもいいか?」
「ちゃんとしたものがあるの?」
「ああ、鍛冶師に作らせたカッコいいやつがあるから見せてやるよ」
それだけを告げると、オーファンは王宮を出る為にその場から走り去った。
その足で足早に自宅に武器を取りに戻る。王宮からレスティエード家の邸宅まではそれ程遠い距離ではない。その間セリンを放置した所で誰も気に留めはしないだろうし、万が一気に留めたとしても咎めたりはしないだろう。
自宅に戻る気なんて全くなかったが、セリンと手合わせが出来るのなら、喜んで戻ってやろう。
セリンが自発的にオーファンに何かを持ちかけたのは初めてのことだった。それだけの事で、大嫌いな自宅へ向かう道を歩いている筈なのに何故か心が躍った。
ギィィ、と重苦しく開く我が家の扉。
セリンの為に足取り軽く戻ってきたとはいえ、改めて久し振りの我が家を目の当たりにすると、急速にうきうきした気持ちが萎れていく。
彼にとって我が家の空気が最悪である事実は、もはや永遠に変わりそうにない現実としてそこにあり続けるのだろう。
「……ただ今戻りました」
「オーファン、お前……何をしに戻ってきた?」
「お兄様……」
家に戻ってすぐ、いつもは自室に篭もっている筈の一番会いたくなかった人物に会う。つくづく運が悪い。
「セリン様が俺と手合わせをしたいと仰られたので武器を取りに戻りました」
「俺という一人称は貴族として相応しくないと何度も言っているだろう」
「……私の戦斧は武器庫にありますか?」
「蛮族の武器か?」
そう言われてオーファンは無意識のうちに年齢の離れた兄エンドルフィンを睨みつける。
「そう怖い顔をするな、セリン殿下とは上手くいっているようじゃないか。父上も驚いているぞ」
「……」
エンドルフィンは何かに気が付いたような表情をすると、わざとらしく道を開けた。
「セリン殿下に取り入るのに必要なら持っていくといい。蛮族の武器を持っていこうが止めはせんよ」
「別に取り入ろうとしているわけじゃ……」
「オーファン」
オーファンが言いかけた言葉をエンドルフィンは無理矢理遮った。
「個人的な感情なんてどうでもいいんだ、貴様もレスティエード家の人間なら王家の人間に媚びへつらって地位を上げる事に貢献して見せろ」
「そんな事の為に俺は彼に仕えているわけじゃない……」
「まったく、相変わらずだな。まあ、お前の感情がどうであれ、結果として我がレスティエード家の地位を上げるのならば、父上も文句は言うまい」
いちいち突っかかってくるような台詞をぶつけてくるエンドルフィンの事を無視してオーファンは地下の武器庫へと向かう。後ろから大袈裟なため息が聞こえた。
オーファンの戦斧は埃を被って武器庫の隅に押し込められていた。
「流石にこうなるよな……」
そう言いながら埃を吹き飛ばそうと息を吹きかけて思い切りむせる。
結局指先を真っ黒に汚しながら埃を手で払いのけたが、刃は塩水でもかけられたかのように錆付いており、あちこちが刃こぼれしていた。
「あれ、おかしいな……」
王宮に入る前に自宅に置いていった自分にも責任があるのかもしれないが、そこまで長い間放置していたわけではない。
それにもかかわらず、オーファンの戦斧は実戦では到底使えそうもない代物に成り果てていた。
だが、今回は模擬戦のために使うものだ。なまくらでいいだろう。そう思い直し、ボロボロの戦斧を持って懐かしむ気すら起きない我が家を後にした。
オーファンが王宮に戻ると、門の前に人だかりができていた。
「……?」
人だかりをかき分けようと武器を持ったまま一歩踏み出すと、人だかりの視線は一気にオーファンに向けられた。
「オーファン殿、ようやく戻ってこられましたか。セレスティナ様がお待ちかねですよ」
人だかりの最前列の男がそう言うが、オーファンには何の事だかさっぱりわからない。
「何で姫様の話題が……」
オーファンが状況を理解できずに固まっていると、奥からセレスティナが歩み寄ってきた。
「オーファン殿、セリンと仲良くして下さって有難うございます」
「は、はあ……」
状況の整理に頭が追い付かないまま気のない返事を返す。
「セリンが、オーファン殿とお手合わせをすると聞きまして、それなら是非わたくしとお手合わせを、と思いましたの」
ああ、ようやく理解出来てきた。セリンの代わりに自分と手合わせをしろと言う事なのだろう。だが、この武器を取りに戻る短時間で何故ここまで噂が広まったのか、オーファンには理解できなかった。
「あの、ひとつよろしいでしょうか」
「ええ、何でも聞いて下さいな」
「セリン様が私と姫様の手合わせをご覧になりたいと仰られたのですか?」
オーファンがそう尋ねると、始終にこやかにしていたセレスティナが少し困ったような表情になる。
「い、いいえ、そういう訳ではありませんが、お母様にそうしろと言われましたの」
「それならば、大変申し訳ございませんが、お断り申し上げます」
機嫌を損ねないように深々と頭を下げてセレスティナの申し出を却下した。
「えっ……?」
「私はセリン様にお仕えする身です。姫様に仕えてはおりません。それに、私と手合わせしたいと仰られたのが姫様の御意志でないのなら、なおさらお受けするわけにはまいりません」
人だかりからどよめきが上がる。例えセリンに仕えていようが、セリンにごまをすっているレスティエード家の子息であろうが、セレスティナよりもセリンを優先するという行為自体、王宮の実情を知る貴族の間では有り得ない事である。
「そ、そうですわね。ごめんなさい、お母様にはわたくしから言っておきますわ」
セレスティナ本人はあっさりと引き下がったが、人だかりからはオーファンを非難する声がいくつも聞こえる。
セレスティナが人だかりの方を何かを言おうと見て口を開きかけたが、その視線の先に何かを見つけ怯えたような表情を見せた後、口をつぐんでしまう。
「これは一体、何の騒ぎですか?」
それとほぼ同時に、まるで出てくる時を見計らっていたかのようにクラーレが王宮の奥から出てきた。間近でセレスティナを見ていたオーファンには実の母親であるはずのクラーレを見ているセレスティナの体が震えているのが解った。
人だかりが無責任にクラーレに告げ口をしているのを見て、オーファンは気分が悪くなる。この王宮の連中は本当に王妃の息がかかっている奴しかいないのだろうか。
「お、お母様……申し訳ありません……」
震えた声で母親に頭を下げるセレスティナを見た後、クラーレはオーファンを汚いものでも見るような目で見る。
「そうよね、彼はセリンが認めた従者なんですものね……忌々しい」
そう言った後にオーファンが持っていた武器を見て門の前に立っていた兵に声を掛ける。
「衛兵、彼の武器を没収して下さい。このようなみすぼらしい武器を王宮内に入れるわけにはいかないわ」
「ちょっ……!」
オーファンが抵抗する間もなく、折角持ってきた戦斧が衛兵に奪われてしまう。
「あの女が死んでもう十年になるのよ? いい加減セレスティナの邪魔をしないでちょうだい!」
「……」
セレスティナの方を見ると下を向いたまま殆ど反応を見せない。勇敢な姫のイメージが強かっただけに、母親に対して何も言い返せない姿を見て王宮に来るまで彼女に抱いていたイメージが歪む。
「貴方とセレスティナの模擬戦は既に一週間後に予定が決められています。逃げる事は許さないわ」
「逃げているつもりなんてありません。そこまで仰られるのなら、手加減せずに手合わせ致しましょう」
生来の負けず嫌いな性格が災いし、思わず売られたケンカを買ってしまう。ここまで言われたからには絶対に勝ってやる。正式な場で、姫を打ち負かしてやればいい。
「ですから、武器を返していただけませんか?」
その言葉に最初に反応したのはセレスティナだった。セレスティナは衛兵が取り上げたボロボロの武器を取り返す。
「ごめんなさい……セリンにも、本当に申し訳ないと思っていますわ」
「姫様……」
彼女の意外な言葉にオーファンは目を見開いた。セレスティナはセレスティナなりにセリンの身を案じているようだ。初めてセリンに対して好意的な人物を見た気がした。セリンは実の姉がこのように思っていることを知っているのだろうか。
「どうか、貴方だけはセリンの味方でいてあげてください……わたくしには、それが出来ませんから」
クラーレに聞こえないような小さな声で、オーファンにそう告げ、武器を返す。
「……」
オーファンがセレスティナの言葉に強く頷き、武器を受け取ったときにはもう、セレスティナはいつも通りの凛とした表情に戻っていた。そして、今度は周囲にも聞こえるような声で続ける。
「オーファン殿、周囲の目もありますのでこの武器を模擬戦で使う場合はどうか補修してからお願いしますわ」
「……はい、それは解っております。では、模擬戦の日を楽しみにしています」
オーファンはそのままクラーレと目を合わさないようにしてセリンの部屋へと向かった。
「試合の中での不慮の死は、事故として処理されます。セレスティナ、もしそうなっても気落ちしない事です」
去っていくオーファンの耳に、聞こえよがしの物騒な言葉が聞こえた。
予想外の事態に随分と時間を食われてしまったが、ようやくセリンの部屋に戻ってくる事が出来た。随分と待たせてしまった気がする。
「オーファン、大丈夫だった?」
セリンも状況を理解していたのか、オーファンを心配する。
「ああ、何とかな……しかし、何で俺とセリンが手合わせするって事がバレたんだ?」
「たぶん、最近は君がいたから王妃が僕に監視をつけていたせいだと思う」
「監視、か……って解っていたなら言ってくれればよかったのに」
「言ったら君は気にして敬語になると思った。それが嫌だったから」
確かにセリンの言う通り対外的にはセリンを王子として敬っているし、監視がついている事を知っていたら敬語で話していた可能性も高い。
「監視に見られて、姉上にオーファンの本当の実力を知られたくないから、手合わせはしばらく先にしたい」
「お前がそうしたいなら合わせるよ。それと、この武器を直して欲しいんだけど」
そう言ってセリンにボロボロの戦斧を見せた。改めて明るい場所で愛用の武器の姿を見ると、半月状の斧刃は思った以上に錆付いていた。
「これ、バルディッシュ?」
「武器にも詳しいのか。お前は何でも知ってるんだな」
錆付いた武器を一目見ただけでその形状から種類を言い当てるセリンに素直に感心する。
「凄いボロボロだね」
「ああ、それは不思議なんだよな。そんなに放置してたわけじゃないんだけどなぁ」
「そう……」
セリンはオーファンの方を向かずに気の無い返事をしながら刃を凝視している。
「姫様と手合わせする前に何とかしないといけないんだがどうしたものか……聞いてるか?」
「ああ。聞いている。それなら、しばらく僕に預けてくれない? 多分、何とか出来ると思う」
「本当か?」
「うん。でも、すぐにとはいかないから今日はチェス打とうか」
セリンは戸棚からチェス盤を取り出しながら言う。相変わらず切り替えが早い。この切り替えの早さも、今までの生活で身についてしまった防衛本能のようなものなのかもしれない。
セリンがチェス盤を取り出す様子を見て、初めてしそれを片付けたときの記憶が蘇ってきた。
「そう言えば、それ、母親からの誕生日プレゼントなんだよな。母親の形見のようなものだろうし、大事に使わないといけないよな」
言いながらオーファンがとりあえず壁に戦斧を立て掛けようとセリンに背を向けた時、背後で何か硬いものがぶちまけられたかのような派手な音が響いた。
「な、何だ!?」
慌てて振り向くと、セリンは手の力が抜けたかのようにチェス盤とその上に載せられていた駒を床に落としていた。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
セリンの従者になって一日も経っていなかった時に、チェス盤の裏に書かれた文字を何気なく読んだ事を思い出して何気なく言ったつもりだった。
「大丈夫」
何事もなかったかのようにセリンが落とした駒を拾い集めている。
4さいをむかえるあいするセリンへ。おかあさんより。
そう書かれていた筈だった。九年前のセリンへのプレゼントの筈だった。……九年前?
――あの女が死んでもう十年になるのよ?
不意にクラーレの叫んだ言葉がよみがえった。「十年前」に亡くなったセリンの母親。幼い筆跡で書かれた「九年前」の文字。
「あ……」
初めてあの文字を見た時に覚えた違和感は、やはり違和感であった。おそらく、あの文字は……。
「ご、ごめん……」
謝罪の言葉が口をついて出る。
「大丈夫だから」
セリンが淡々と応えるのが、かえって辛かった。
チェスを打ちながら、セリンはゆっくりと話し始めた。
「母上は、僕が三歳の頃に亡くなった。それから何年間か、僕は母上がいつか帰ってくるものなんだと思って、母上の代わりに自分への贈り物に母上からの言葉を書いていた」
セリンは包帯の巻かれた手首を伸ばし、オーファンの駒を次々と奪っていく。
「……」
「王妃が肖像画をすべて処分したせいで、僕は母上の顔も思い出せない。でも、僕は母上によく似ているらしい。それが王妃を余計に苛立たせている」
セリンが母親に生き写しだという事はよく貴族の間でも噂になっていたし、そう言われても全く疑う気など起きない程にセリンは中性的で美しい容姿をしていた。
「でも、母上は僕の事を唯一守ってくれた人。僕に唯一味方してくれた人。それだけは忘れないし、とても感謝しているし、母親に愛されていたっていう一点に関してだけは僕は姉上より恵まれていたと思う」
「俺も、お前の事を裏切ったりしない」
「オーファン」
「ん?」
顔を上げると、セリンの顔がすぐ近くにあった。ドキリ、と心臓が高鳴った。いくらセリンの容姿が女の子のように可愛いとはいえ、顔が熱くなってきたのは男としてやばい気がする。
オーファンがドギマギしているのをよそに、セリンはオーファンにそっと耳打ちをした。
「姉上との模擬戦、わざと負けてね」
それは、監視の耳には入ってはいけない言葉。だから、わざわざ近くにいたのに耳打ちしたのだろう。セリンがどういう意図でそう言ったのかはオーファンにはわからなかったが、それに対する返事をする事は出来なかった。