アイデンティティの在処~あるヒーローのパラドックス~
一体我々の「自己の本質」とは、どこに存在するのだろう。
我々が、「自分」、もしくは「私」「僕」「俺」などと呼ぶ存在。その核となる部分、本質の在り処、一切の虚飾や従属物を取り去った自己そのもの、それは一体どの部分のことなのか。
――「本当の自分」はどこにいるのだろう?
おそらくほとんどの人は、己の肉体、頭脳、心をまとめて、漠然とした「自分」の輪郭を胸に描いているであろう。だが、ここから何がどのくらい無くなれば、それは「自分自身」でなくなるのか。「自分」が「自分」であるための、最低条件は何か。我々が社会生活を営む中で身にまとう様々な付加価値、我々の従属物、我々の一部であるかに見えるものたち。それらに埋もれたどの部分が、我々の本来の自己そのものなのか。
例えばある人が、事故などで手足を失ったとする。肉体の一部に欠損が生じたものの、彼は今だ彼自身である。だがしかし、肉体の全てを失った場合はどうか。それはもはや彼自身ではない。この境目、程度の問題であるが、それはどこか。一方で、霊魂の存在を信じる人などは、肉体を持たない、いわゆる魂のみの存在であっても、それはまだ彼自身であると考えるかもしれない。
では、頭脳はどうか。疾病などにより、彼の頭脳がこれまでのような働きができなくなったとする。かつての彼のように思考することはもはやできず、日常生活を送るにも支障をきたす。彼は、自己の存在を認識する能力を持たない。だがしかし、彼の母親は何と言うだろう? 彼女は、彼は今だに彼女の可愛い息子であると主張するに違いない。製作者本人がそう言うのであるから、これは一考せねばなるまい。
それならば、心はどうか。ただこれは少々番厄介である。それを考察するには、心とは何かをまず定義する必要がある。もちろん、それは脳の一機能の事である。ただし我々が「心」という言葉を使う時には、そういった物理的あるいは機能的なオブジェクトを意味しているのではない。「心」の内容、「想う内容そのもの」を指して、我々は心と呼ぶのである。
「心変わり」「気が変わる」などという表現がある。では、心(その人の根幹をなすような思想)が変化した場合、彼はもはや彼ではなくなってしまうのか。例えば、深く神を信ずる人があったとする。何らかの理由で、彼は信仰を捨てる。その場合人は彼を「まるで別人のようだ」と評するであろうが、果たして彼は、本当に「別人」なのか?
信仰する宗教や文化背景によって、「自己の在処」とされるものは様々である。ある宗教では「心臓」にそれが存在すると考えるし、またある文化圏では所謂、霊魂、または魂のようなものがその本質であると考える。
おそらく読者諸君のほとんどは、そんな小難しい事は考えた事がない、と仰るだろう。しかしそれでも、「自分自身の在り方」については日頃から考え、また思い悩む事が多いに違いない。人間が一生を通じて最も強く関心を持つもの。それは「己自身」である。これは時代や人種性別によらない、人間の本質であると私は考えている。いわば、人は本来、エゴイストなのだ。
だがしかし、その「エゴ」の在処とは? 我々がそこまで大切にしている「自己」の正体は一体何だろう? それは物理的なものだろうか。それとも観念的なものだろうか。
考えてみれば、我々は自己にまつわる諸々の事柄(仕事、家族、健康、恋愛、人間関係、金銭的事情など)については、くよくよと思いを巡らせることが多い。だが、その中心にある自己そのものについては、日頃あまり考察を行わないではないか。
自分は何者であるのか。自分はどういった人間なのか。自分には何が必要で何が不要なのか。こういった事がもっとはっきり見えてくれば、それは様々な悩みを抱えがちな我々にとって、QOLを向上させるヒントとなり得るのではないだろうか。
ここで私の頭に浮かぶのは、ある国民的ヒーローの姿である。
彼の最大の特徴は、その頭部である。
彼はそのユニークな頭部にちなんだ名を与えられ、その名は広く一般に知られている。人々に最も愛されているヒーローの一人と言って差し支えないだろう。
彼はまた、彼のヒーローとしての力、この世の巨悪と戦う力をも、その頭部から得ている。頭部に何らかの損傷が生じると、彼は途端にそのスーパーパワーを失ってしまう。
さらに彼は悪と戦うばかりでなく、時にその頭部を恵まれない人々に与え、飢餓から救う。
彼の頭部は着脱可能で、食用である。これが彼と、数多のヒーロー達との最大の相違点である。
この個性豊かなスーパーヒーローである彼の、「自己の核」、本質、いわゆるアイデンティティはどこにあるのかを考察してみよう。
先程列挙した彼の特徴から、我々はまず、彼を唯一無二の存在たらしめるアイデンティティの在処は、その「頭部」にあるものと仮定してみよう。だがそうすると我々は、ある重大な事実に直面しなければならない。
――彼の「頭部」は、何度でも交換可能な、「消耗品」なのである!
果たしてそんな事があり得るだろうか?
これは我々で例えるならば、毛髪や爪などの消耗品がアイデンティティの在処だという事である。
アイデンティティそのものが、交換可能な消耗品である。つまりそれは、彼の存在自体が消耗品であるのと同義である。
もしこの仮定が正である場合、彼の心中の苦悩はいかばかりであろう。彼は一体どういった心的葛藤を経て、今日の彼の心境に至ったのであろうか。
私にはこの仮定は、多分に疑問を残すもののように思われる。
この仮定によれば、彼が頭部を新しいものに交換した際、それは以前と同じ彼ではない。しかし実際には彼はやはり彼自身である。
さらに、もし頭部が彼の自己存在そのものであるならば、胴体部分はそれと従属関係にある、単なる「付属物」に過ぎないはずだ。だが、頭部欠損時、それは「自己」の存在なくして勝手に判断し、行動するのである。これは明らかに従属器官としての活動範囲を逸脱している。
それでは、彼の「胴体部」はどうだろうか。
彼の全体は、大きく分けると、可食部分である頭部とそれを支える胴体部分から成る。前述したように、詳細なロジックは不明だが、彼は頭部が欠損した状態でも一定の活動を行うことができる。その際彼の意識は通常と変わらずはっきりしており、正常な思考、判断を行う事ができる状態である。
やはり彼のアイデンティティはその特徴的な頭部にあるのではなく、むしろ目立たない存在である胴体部こそが彼の本質なのだろうか。
だがしかし、ここで問題が残る。彼は頭部なしでは、スーパーヒーローの力を発揮することができない。頭部欠損時の彼は、もはやヒーローではない。しかし彼は、ヒーローたるべくこの世に生み出された存在である。ヒーローである事は、彼の存在理由そのものであると言える。即ち、ヒーローとしてのアイデンティティを完全に喪失した状態で、彼が己自身であるとは言い難い。
もう一つの仮定はこのようなものである。
彼の頭部、胴体部共に、それらは彼を形成する必要条件であって、彼が彼であるためにはそのどちらをも欠く事はできない。
だがしかし、ここまで考察した私は、ある恐ろしい欲求に駆られた。それは純粋な科学的興味によるものではあるが、多分に倫理的な問題をはらんだ欲求である。
ある実験を行うことによって、明確な解が得られるではないか。
――彼の胴体部に、別の個体の頭部を装着した場合はどうなるのか。
前述したように、彼の頭部は着脱可能である。
彼には、彼と同じように頭部を交換可能なヒーローの友人達がいる。その一人の頭部を、彼の胴体部に装着したら。
その彼は一体何者であるのか。彼の意識、思考は、その別個体の頭部によって支配されるのか。それとも胴体部が今までと変わらずにそれを司るのか。またはまったく新しい、第二の人格が誕生するのか。
心理学の分野において、今日では、このような人道に反する実験を行う事は不可能である。だが、彼の抱えるこのパラドックスこそ、我々が抱く「本当の己とは何か」という問に対し重大なヒントを与えるものではないだろうか。彼の頭部が着脱可能であるというロジックの意図は何だろう。単に頭部が食用の消耗品であるという理由だけでなく、そのロジックをも含め、彼のアイデンティティなのではないだろうか。
正に彼は、この問を体現する存在である。そして自らの身をもって、我々にこの問を突きつけるのだ。
一説によると、幼児は最初はこのヒーローに夢中になるが、ある時期がくると、今まであれほど熱中していたのが嘘のように、ぱったりと興味を失ってしまうのだそうだ。
これは、彼らがこの問の答えを求めるのを諦めた瞬間ではないだろうか。この世に生まれ間もない彼らには、世界の全てが驚異である。彼らは好奇心に満ちている。純粋でシンプルなこの問の答えを、彼らの知的好奇心が求めぬはずはない。(幼児がそんな事を考えるはずがない、と諸君は笑うかもしれない。だが私は、実際にベビーシッターに向かってこの問を発した三歳児を知っている)しかし、ある時点で彼らは気づく。この問はやっかいすぎる。それよりもいち早くこの社会に適合し、生命維持の可能性を増やすことを優先せねばならない。そのために、容易に答の出ないこの問はひとまず置き去りにしておく必要がある。
こうして彼は、その永遠の命題を体現するかつての彼のヒーローに背を向け、凡庸な成人への第一歩を踏み出すのである。
私が長々とこの考察を書き綴ってきた理由は、この問が、我々人類の永遠の命題、「人はなぜ生きるのか、我々はなぜここに在るのか」に通ずるからである。
そして私には、かのヒーローが、我々にメッセージを送り続けている気がしてならない。「人々よ、我が身を見よ。汝、自己の探求を諦めるなかれ」と。
この点において、彼は通り一遍のヒーローではない。彼は悪を倒し、罪なき悩める人々を救う。だが彼の真実のヒーロー性は、まさにこの点にあるのではないだろうか。
我々はそこに彼の、心的葛藤を乗り越えた姿、見事に統一された彼という人格、彼の自己存在、概念的かつ物理的な彼自身を見ることができる。
そしてその光景に、私は賞賛と驚愕の念を禁じ得ないのである。
終わりに私は、この文書において最初に提示した命題の解を諸君らに供し得ない事を遺憾に思うと共に、陳謝したいと思う。
私もまだ解には至っていない。それは今後の、おそらく永遠の課題となるであろう。だが私は、この命題の価値はその解にあるのではなく、問そのものにあると考えている。
問い続ける事。それは、我々の目まぐるしい日々の社会生活の中で、ふと立止まる瞬間を与えてくれる。そして私は、その瞬間が、諸君らのQOL向上に必ずや一役買うと信ずるものである。また我々は時に、不運にも、人生において様々な「喪失」を経験する。己の輪郭が崩れてしまうようなそういった絶望の時期に、自己のアイデンティティの在り処を求める事ができれば、それは必ずや助けになるであろう。
この考察は全て冗談であるが、諸君らの失笑を買うと共に暇つぶしまたは何らかのエンターテイメントとなる事を、私は願ってやまない。