絶対防御の乙女との出会い
まとわり付く水の感触とそれに合わせて襲ってくる息苦しさ。突然の事で息を吸う事が出来なかった。
早く水面に上がらなければ息が続かない。必死になって虚は水を掻くも上に行くどころかどんどんと下に引きずり込まれている有様だ。
果てが無いと思わせる程の水深が希望を奪う。せいぜいが三十cmほどしかないはずなのに、どんどんと底に沈んでいく。
重りが付いたように沈みこんでいく。それもそのはず、背負ったリュックが水を吸い異常に重くなっているのだ。あっという間に水面は遥か彼方に遠ざかっていった。
「がっ」
死ぬ。虚がそう確信した瞬間に水の中を抜けた。水中独特の制動がかかる感じが消えると一瞬の浮遊感と自由落下がない交ぜになった不思議な感覚の後にしこたま背中を打ち付けた。
リュックが緩衝材の代わりになった為死ぬ事は無い。
が。
同時にリュックが拷問器具にも変わった。エビ反りの要領で強制的にそらされた背筋の痛みが地面に叩きつけられ転がった体に伝わる。
「し、死ぬかと思った」
ひどい目には遭ったが生きている。そう実感するのと同時に何も見えない事が分かった。
暗闇。虚はただ呆然として、何が起こったのかを考えるも分からぬこと、と今できることを行う。動けるかどうかだ。
耳の奥が痛むような静寂と目の奥が痛む程の闇の中で手足にケガかないかを確かめた。
勿論見える事は無いが、落ちた時に打ち付けたようで鈍い痛みは有るものの、軽く手を握り手足を動かして異常がないことを確認。今度は周囲を見渡す。
「はは、何も見えねえや」
本当にまったく何も見えず、ただ眼球が辺りを見回す感覚があるだけで何も情報が得られない。ふとそこで声が反響していることに気が付き、辺りに手を伸ばす。
立ち上がって動くという考えも思い付いたが却下した。何も見えないという事は不意の事態に対応できないという事。受け身を取れず対処できない。頭を打つかして最悪死ぬ事になる。では這うのはどうか。却下。
今寝っ転がっている状態から分かった事だが、地面は石の転がる場所だ。そんな所をナメクジよろしく這いたくはない。だから指先に神経を集中させて左右に腕を伸ばした結果。
ここが、思いのほか狭く、かつ岩に囲まれた場所だという事が分かった。
「岩、いや岩盤か。に囲まれた場所、洞窟か? よく響く訳だ。一体何の因果でこうなった。あれか普段の行いが良かったからか」
適当に何か喋ってないと、暗闇に飲まれて気が狂いそうだった。故に意味のない言葉をただ延々と喋り叫ぶ。
ないも無い、ただそれだけが有るという矛盾した空間。上から落ちたという事はこの上に抜け道があるという事だ。行けるか。いや無理だろうと自分の考えを即座に却下する。
分かっていた事だが、落ちてきたはずの上を見ても何も見えずただ眼球が動く感覚だけだ。
口は意味の無い言葉を喋り続けた。ただ暗闇の中で精神が狂ってしまわないために。頭は必死に働かし続けた。
俺は水深がごく浅い池に落ちた。それなのに感覚的には何十mといわず沈んだ。そしてここに落ちた訳だ。
あーあーと叫ぶ自分の声が延々と響きわたる中、ただ、助かる方法を考えた。
どうすれば助かる。何をすれば良い。助けが来ない事は百も承知。では出口を探すか? 何も見えないのに?
などと考えても、現状何もできることは無いと悟った虚は低くため息をついた。
落ちてきた以上、天上が低いというはずはないがそれでも慎重に体を起こす。そろそろただ叫ぶって行為に疲れが見え始め熱を持った喉が痛い。
「ああ畜生が。せめてほんのわずかでも光がありゃあ何とでもなるのに」
リュックの中には色々入れていた。そこで遭難しても三日は生きていられるようにだ。ナイフやロープ、に限らず光源となるライトやランタンといった道具類だけではなく、カロリーの高い携帯食や水だってある。
だが、考えが足らなかったと虚は今さらながらに後悔する。
そう何も見えなければ中身を取り出す事すら難しいのだ。
「その考えはなかったわ。どうすっかなマジで」
などと口走りつつ虚は身体を起こして見えないながらにリュックを開けようと四苦八苦していた。
まずは光源の確保からと思ったのだが、手探り故に慣れ親しんだリュックはまるで自分の物では無いかのように開かない。遅々として進まない作業に苛立っていると。
「君、なんでもいいから食べる物は無いかい? もう限界を越えて眩暈がしているよ」
「うわっ」
暗闇の向こうから突然聞こえた声に虚は身を竦ませた。ここに他の誰かが居るとは考えていなかったからだ。おかげで危うくせっかく掴んだリュックを放る所だった。
酷く疲労が伺える声は弱弱しく、だがしっかりと聞こえる。若い女の声だ。感じからして少女に近いが妙に面倒な言葉を使っている。
「おい大丈夫か」
「大丈夫なように見えるかい? いや聞こえるかい。なんでもいいから取りあえず食べ物が欲しいんだ頼むよ君。おっと無償とは言わないよ。だけど渡せる対価を何一つとして持っていないからここはどうだい。
僕の体でいやこの言い方はダメだね。私の体で払おうじゃないか。この貧相な体がどれ程の価値があるかは分からないけど無いよりはマシだと思うんだ」
「何言ってんのお前。冗談なら出来が悪いぜ」
自分でも驚く程感情が消えた声に驚きながら虚は吐き捨てた。声からでしか分からないが例えどんな状況に在ろうと女の子が口に出して良い言葉じゃない。
だが、それを口にするという事は相当切羽詰まった状況で、かつ自身を守りえる何かしらの手段がある事も理解しているつもりだ。だが、それは余りに悲しいものだと虚は考えていた。貞操を守る何かが有るのか、心を閉ざし生きる事を選んだのかは虚には分からないものだ。
だが、一人寂しく暗闇で飢えを抱えて居たのかと思うと。孤独と空腹をじっと耐えて死まで覚悟したのだろう。そんな中で人が来たのだ。釈迦の伸ばした蜘蛛の糸でなくとも、仮に藁だったとしても掴んだ事だろう。余りに悲痛過ぎる。
「良いんだよそんな事。困ってる時はお互い様だって習わなかったか」
「だがね。良くして貰えば恩は返さなければダメなんだよ? もちろん君が僕に対して良くしてくれるという仮定の話だけどね。現在僕には支払えるものが」
少女の声はひどく困惑しているような、それでいて焦った声は酷く上ずっている。自身でも何を言っているのか分からなくなっている事だろう。虚は、はっと息を吐くように笑った。
「良いって言った。んなこたぁ気にしなくていいんだよ。だからちょっと待ってろ。すぐになんか出してやるから」
「だから、言っているじゃないか僕には何もないって」
「知らねぇよそんな事。飢える辛さってのは存外にキツイのは俺も知ってるからな」
軽く言ったつもりだったが、それなりに少女に効いたらしく、暗闇の向こうでまだ何か言っていたが、じきに嗚咽交じりで意味を成さなくなった。
ひとしきり泣いて、少女が泣き終わったころにリュックから探し当てたオイルランプに明かりを灯した。
すぐに付けなった理由は、泣き顔を見られるのは流石に嫌だろうという配慮であった。
赤いの炎の振れに合わせてゆらめく橙の光はぼんやりとごつごつとした洞窟内を照らし出す。
その光の届くか届かないかというギリギリの距離に、その少女は岩の窪みに身を隠すように座り込んで、まだ涙の浮かんだ瞳でじっと虚を見ていた。
驚いた。と言えば嘘になる。が、虚が考えていたよりは若く、また痩せていた。例え想定内だとしても予想はしていたと言えども、やはり目を見開いた。
「一体何時頃からここに居るんだ……」
そう考えずには居られぬほどにボロボロのどこかの学校の制服、現状の有様では到底そうは思えないが、仕立ての良さと、独特のデザインからおよそどこぞの女学校生だったのではないかという事が考えられる。
スカートはあちらこちら破れ、ブレザーでさえもはや服の役割を果たさずぼろ雑巾を着ているようなものだ。 長い黒髪と相まってどこぞの奴隷が逃げ込んで来たのかと、時代錯誤的な事を考えてしまう程度には異常だった。いや、もちろん日本では、という括りだが。
「ほらよ」と虚は栄養補給用の高カロリーチョコレートバーとカロリーの友とも呼ばれるブロック状の携帯食、経口補水液とついでにと保温シートを投げて寄越した。
「それ、着とけ。それだけで大分違うからな」
「ありがとう、かな。 これで少しでも恥ずかしさが軽減されるというモノだよ」
「てめぇ言わないようにしてたことを」
口数少なく会話を交わした後、少女はいそいそと恥ずかしがる様子もなくシートで包まると一気に食べ始めた。そこで虚は少女の周りに何かの燃えカスが微かに散らばっていることに気が付いた。
「何か燃やしたのか」
「ああ、手持ちに少ないながらマッチがあったからね。短い期間ながら短時間だけ光源を確保できたんだよ」
食べながら喋るためもにょもにょとした言葉だったが、言っていることは分かった。だが、それは気休めにもならない程度の燃えカスしかない。
「あと、ほら岩を削って日にちを数えていたんだがね。よくある浅はかな手さ。外の様子が全く分からないから夜が明けたのか、日が暮れたのかは全く分からなかったけど、取りあえず睡眠をとった回数を刻んだのさ」
「な……」
それこそ虚は絶句した。少女が背にしている壁一面、正の字が刻み込まれていたからだ。模様だろうとし
か考えていなかったため、気にしていなかったから全く分からなかったが、これが寝た回数だとするならこの少女はとうの昔に死んでいなければおかしいほどだ。人間が何もない極限状態で生存できる時間はおよそ七十二時間だと言われている。だがこの少女が過ごした時間はそんなものではないだろう。
「君、名前は、と、いけないね。光はずいぶんと久しぶりだから目が痛くて堪らない。少し明かりを落とすことはできるかい。」
「あ、ああ」
言われるがままにランプに付いた摘みを捻り少し暗くすると、少女は満足げに感謝の言葉を述べると
「で、だ。名前だよ君。恩人だ名前分からないと呼び辛いじゃないか」
少女に問いかけられた。食べ終えたチョコバーの包みを捨てると目を輝かせながら聞いてくる。若干引いた虚は、どこか自分と似ところがこの少女には有るのだと悟った。
分からないこと事こそがこの少女にとって至上なのだ。だからこそ知りたい。例えどんな些細な事でも。例えどんな事でも。でなければ、たかが名前を聞くだけで、名を知りたいというだけでこれほどまでに目を輝かせることなどありえないだ有ろう。この人間はどんな名前でどんな人生を歩んできたのか。
人生は大げさでも、名前だけでどんな苦労があったか、ぐらいは察することぐらいはできるだろう。
現代社会の闇を見る事すらできる。
自分と同じ類の人間である、という確信が虚を意地の悪い考えをあおった。
「人に名を尋ねるときはまず自分からと習わなかったのか」
「まあ、そこら辺はとりあえず脇に置いて」
と腕を横に振るジェスチャーで流し、少女は急かした。
「さあさ、言ってくれなければ会話もままならんよ」
「知らなかったぜ。まさか俺は会話をしてたんじゃなくて独り言を延々と垂れ流していたなんてな」
「ホントだよ。独り言にしてはずいぶんと饒舌だと思っていたんだ」
鼻で笑うと
「虚だ。佐藤虚。ごく一般的な佐藤に、虚無の虚ろ」
「随分とまあとち狂った名前をしているね。およそ人間に付ける名前に向かない字じゃないか。君のご両親はずいぶんとファンキーだったのだろうね」
非常に引いたこえで、だが笑いながら少女は「虚君、虚君ね」と噛みしめるようにそう呟いた。
「いやじいちゃんが付けた。で今度はそっちだ。お前の名前はお嬢さん」
いう事は言った。今度はこちらの番と虚が聞くと少女は困ったように、
「あー。実はだね。名前を覚えてないんだよ。だからこう呼んでくれてもいい。絶対防御の乙女と」
「はぁ?」
呆れた声が、洞窟に反響した。