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Spirits of the kitchen(厨房の精霊たち)

作者: 新界徹志

何処いずこにもまして空の蒼さが映え、木々の緑や色とりどりの花が鮮やかで、んだ空気に包まれ、美味おいしい水と大地の恵みにあふれた小さな村がありました。村のはずれにぽつりと一軒、小さな家があり、一人の男が住んでおりました。

男には天上の女神さえもが嫉妬しっとするような美しい妻がおりました。妻は優しく穏やかで、そして何よりも利口で、畑仕事にいそしむ男を手伝って一緒に汗を流しました。いつも明るくふるまう姿に男はいやされ、屈託のない微笑みを向けられると、男は仕事にもますます精が出ます。仲睦なかむつまじい二人の暮らしは誰もがうらやむばかりでしたが、その幸せは長くは続きませんでした。妻は重い病に倒れ、長い闘病の末にこの世を去ったのです。

妻に先立たれた男はふさぎ込むようになり、古くから馴染みの知人が訪ねてきても、

「今日はとてもそんな気にならないんだ。また、出直してくれないか。」

と素っ気なく言い追い帰してしまうのです。

そんな男の様子が気掛かりで、数日経って、その客が改めて訪ねてきても、男はまた同じように、

「今日はとてもそんな気にならないんだ。また、出直してくれないか。」

と言って、帰してしまいます。

男が言う「今日」はその日限りの今日ではなく、いつまで経っても果てることのない「今日」なのです。

亡き妻の面影おもかげは消えることなく、胸に焼き付いております。それどころか、日を増す毎に妻との懐かしい思い出が一層鮮やかによみがえり、彼の胸はひどく痛めつけられるのです。

男にとって、妻はこの世で最良にして最愛の人だったのですから、それもやむを得ません。たとえ未練がましいとののしらられようと、意気地がないとさげすまれようと、誰に何と言われたところで、男は一向に気になりません。それにもまして妻に対する情愛の方がさらに深いのです。

男は、肘掛ひじかけに腰を下ろし、音もなく過ぎ去っていく時の静寂しじまに身をおき、ボンヤリと天井を見つめるばかりです。怠惰たいだに身をひそめて過ごす男のもとには、訪ねる者もやがてせ、そばにいるのは壁に掛かった肖像画の妻だけになりました。声を掛けても返事がなく、ただ微笑むだけの柔らかな表情に、絵筆を取った過ぎし日を思い浮かべ、自然に涙が溢れるのです。胸に堪ったドロドロの黒く積もった感情を吐き出そうと叫んでしまいたくなることもありますが、いくら叫んだとて楽しかった妻との日々は最早還らないことも男は知っています。何をしても行き場のないやるせのなさが男を苦しめるばかりで、ささやかな日常がひとつひとつ男の元から奪われていきます。

妻と一緒に汗水を流して耕した畑も荒れ放題、飼っていた山羊や鶏も売り払い、仕事もせずに毎日、野放図のほうずに過ごし、好きな本を読む訳でもなく、絵筆を振るうこともありません。大工道具も物置に忘れ去られ、作りかけの木工品は材料と共に部屋のすみに眠ったままです。食事さえまともにることはなく、時々、気が向くと、妻が生前、こしらえておいた肉の燻製くんせいやチーズ、パスタを適当に口にするだけです。その食糧もそろそろ底を尽きかけてきました。

男はこの先どうなろうと余り気にも掛かりません。このまま木偶でく人形のようにして、自分のそばひそかに過ぎて行く時に身を委ね、このまま妻の元に連れ去ってくれれば良い、そんな風にさえ考えるのでした。

ある日のことです。

いつものように、壁の妻に語りかけると、どこからか男を呼ぶ声がしたような気がしました。辺りを見回しても何もそれらしき姿は見当たりません。その声が気になった男は、外から漏れてきたものかも知れぬと、戸を開けて表に出ます。久しぶりに日差しの注ぐ戸外に立った男の目には荒涼こうりょうとした土地が広がり、自分の仕業しわざと知りながらも愕然がくぜんとします。

荒れ放題の土地を見渡しても、やはりそれらしき姿は見当たりません。代わりに、男の目には畑の隅に立った一本のリンゴの木が映ります。

妻が元気な頃、知人から貰い受けた苗を、二人揃って植えたものでした。

水を撒いたり、根元に肥を施したり、毎日交代で世話をして大切に育て、背丈ほどに伸びた頃より少しずつ実がなり始めたのです。それ以来欠かさずリンゴは実を付け、二人にとってそれが毎年楽しみとなりました。今年は手入れをおこたったにもかかわらず、健気けなげにもリンゴはしっかりと実を結ばせ、四方に広がったこずえに手の平に乗るくらいの玉をたわわに実らせておりました。ほのかに漂う甘酸っぱい香りが、時が堆く積み上げていった記憶の残骸からまたひとつ優美な光景を引っ張り出し、胸の奥に張った琴線きんせんはじきます。男の手が無意識に伸び、そっとリンゴの実をもぎ取りました。

男はもぎ取った実を両手で包むようにして、頬をすり寄せ、その香りと感触を確かめました。また、どこからか声がしたような気がしました。

「その実を持って家にお入りなさい。」

そう言っているように聞こえました。

男は、大事そうにリンゴを手にして、家に入ると、そっとテーブルに乗せました。

リンゴの実は、艶やかな肌を濡れ羽色に輝かせ、窓から射し込む陽光によって黒っぽい表面の下から鮮やかな紅を覗かせております。

懐かしいその香りは鼻腔びくうを抜け頭の奥に忍び込み、物憂い心を揺さ振りますが、何故か男はいつものように悲しみに打ちひしがれることはありません。

妻はその香りを知らぬまに旅立ったのではないだろうか、そんな考えがふと男の頭をぎります。

妻は、亡くなる数年程前から、果物を口にすると舌がしびれるようになり、好物のリンゴも食することができずにいました。

後になって思えば、それが病の予兆であったのかも知れません。どうして早くそのことに気付かなかったのか、悔やんでみても仕方のないことに、男は何度も自分を責めては苦しみました。

そんな悲嘆に暮れる日々を思い起こし、また沈みそうな気持ちになる男の耳に、再びあの声が聞こえたような気がしました。

「ねえ、リンゴのワイン蒸し、作って下さいな。」

それは妻の声のようでもありました。

リンゴのワイン蒸しは、妻の好物でした。果物が口に合わなくなった妻も、火を通したなら大丈夫だと知って、男が試しに作ってみたものでした。

厨房ちゅうぼうに立った男はリンゴを綺麗きれいに洗い、皮ごと薄く切りました。薄くなったリンゴを鍋の中に丁寧に重ねていき、数段毎に干し葡萄ぶどうをまぶすようにして挟み込み、そして上から赤ワインをたっぷり降り注ぎます。釜の上に鍋を据え、下から火を熾し二十分ばかり煮込みます。その時の火加減がとても重要です。弱すぎず、強すぎず、始めは少し勢いよく、全体に火が通るように何度も掻き混ぜ、白い実が赤く染まりだしたら火をゆるくし、ゆっくり煮込みます。ワインの色と香りが全体にしっとりと馴染んだ頃に火を落とし、そのまましばらく冷めるのを待つと、美味しいリンゴのワイン蒸しが、さあ、できあがり。男はスプーンですくって口に入れると、甘酸っぱいリンゴ本来の味はそのままに。ワインの渋みが加わり、さらに味覚が広がり、思わずスプーンを握った手をもう一方の手の平に打ち当て、歓喜の声を上げました。これなら妻もきっと喜ぶだろう、男は自信たっぷりでした。

早速、鍋から取り分け、小さな器に移し、愛する妻に勧めました。

「おひとつ如何。」

妻は恐る恐る口にしました。舌の先がまた痺れるのでは、それが心配だったのです。その心配など無用で、一口毎に妻の顔は紅潮し、頬は緩み、緩んだ口元から、思わず

「美味しい。こんなに美味しいのは生まれて初めてよ。」

そんな言葉が漏れました。

その時の表情は今も男の脳裏に鮮やかに残っています。

男は、その表情を頭に浮かべ、

「また作ってみるか」

と思い立ち、その足は知らぬ間に畑へと向かっていました。

畑に行くと、男は、リンゴの木に立ち、手の届く枝から形の良い実ばかりを選んでもぎ取りました。うっかり桶を提げてくるのを忘れてきたのに気付くと、ポケットというポケットにリンゴの実を忍ばせ、さらに両手で掬い上げるようにして持ち、家の中に戻りました。

男が調理台の前に立って、もぎ取ってきたばかりのリンゴを綺麗に洗い始めました。その時です。

目の前に得体の知れない影が現れました。

「はじめまして。私が誰だか分かりますか。」

そう訊かれても、男は「またか」とまともに取り合うことがありません。妻がこの世を去って以来、男は幾度となく幻覚げんかくを見るようになっていたのです。

得体の知れない影はまた話しかけます。

「分からないのも仕方ありません。私は精霊なのです。あなたは気付かずとも、私はいつもあなたの傍にいます。先程から、あなたに声をかけたのも実はこの私なのです。普段は人の目に触れないように上手に姿を隠しているだけなのです。」

男は幻覚にまどわされる自分をおろかであわれだと思いながら、

「とうとう狂ってしまったか。」

と自分をあざけりました。

それをわらうように精霊はなおも言葉を続けます。

「まだ信じられないようですね。でも現実に私はあなたの前にいます。私が人前に姿を現すのは、別に意味などありません。ちょっとした偶然です。油断をした隙に見つかってしまうことはしばしばです。あるいは悪戯いたずらのつもりで人の前に姿を現すこともあります。精霊はとても気まぐれだからです。驚かしてやろう、とそんなつもりです。心が身体を離れて浮遊しているような時にも見えてしまうことがあります。多分、心が私たち精霊と繋がったのです。恐らく、今はあなたと私がそうやって繋がったのだと思います。」

精霊の言葉は不可解です。いえ、精霊の存在こそ不可解で、男はまだ信じることができません。そんな気持ちなどお構いなしに、精霊は男に向かって

「さあ、料理を続けなさい。」

と指図するように言います。

「私は、精霊の中でも調理をつかさどる精霊です。あなたがこれから作ろうとしているものを美味しく仕上がるようにお手伝いしてあげます。私には他に四人の仲間がいます。それぞれ役割があります。最初に私は色や形を整える務めをします。私が指で輪を描いて、呪文を唱えます。すると、包丁捌ほうちょうさばきが鮮やかになります。」

そう言って、人差し指を突き出すと、

「パルム、エスターチョ、イローカ、タチョ、クナーレ」

と唱えながら、くるりと回しました。

するとどうでしょう。

包丁を握った男の手は素早くそして形良くリンゴを切っていきます。

「ほら、ご覧なさい。少しは信じる気になりましたか。」

精霊は言いました。しかし、それも単なる自己暗示に掛かったようなもので、相変わらず幻覚にとらわれているのだと考える男は、精霊の言葉など信じてはおりません。

「では次の精霊と交代します。」

そう言って精霊は男の前から姿を消します。そして、代わりに別の精霊が男の前に姿を現します。それもまた幻覚のように思いながら、男は決して驚いたりしません。

「私は香りを整える役割をします。」

そう言って、

「リンゴと干し葡萄とワインを鍋に入れていきなさい。」

と指図します。

「どうしてこうも命令口調なんだ。」

男は少し不愉快になりながらも、言われたとおりにしました。

材料が鍋に入ったところで、二番目の精霊は先程の精霊と同じく、人差し指を突き出し、

「パルム、エスタ−チョ、クワーン、リョ、クナーレ」

と唱え、くるりと回します。

すると、段々、鍋から甘酸っぱい香りが漂ってきます。これまでに作ったどれよりも香りが優れ、自分の腕前に惚れ惚れします。精霊の力など全く信じておりません。

「幻覚だとしても、これは大したものだ。」

男が感心していると、二番目の精霊は

「私の役目もそろそろ終わりです。交代する時がやってまいりました。」

と言って姿を消しました。と同時に、次の精霊が現れました。

「私は味を調えるのが役割です。」

そう言って、

「パルム、エスタ−チョ、オイーシ、クナーレ」

と呪文を唱え、人差し指を回しました。

「さあ、味見をしてご覧なさい。」

精霊に言われて、男は鍋のリンゴを一つまみ取り上げると口に入れました。

リンゴの甘酸っぱさと干し葡萄の仄かな甘さ、それにワインの苦みが混じり合って、これまでに味わったことのないたとえようもない味に男はにんまりとしました。

たとえ幻覚だとしても、目の前に現れる精霊たちが与えてくれた不思議の力に男は感謝しました。

次に現れた精霊は

「私は風合いを整えるのが役割です。」

と言いました。

「柔らかそうで、それでいて歯ごたえがあり、また、口の中でとろけるような舌触りとでも申しましょうか。それを整えるのです。」

と精霊が言うと、

「はて」

男は首を傾げました。

精霊はまた人差し指を回し

「パルム、エスタ−チョ、フーワァー、イヨー、クナーレ」

と呪文を唱えました。

「さあ、味見してご覧なさい。」

精霊に促されて、男はまた鍋から一つまみリンゴを取り出すと、口に放り込みました。シナッとした見かけによらず、歯ごたえがあり、それでいて舌の上でとろけるような感触に男は大満足です。

男は幻覚かも知れぬ精霊を少しだけ信じることにしました。

四番目の精霊が姿を消し、代わりに五番目の精霊が現れました。精霊は男の前で突っ立っているだけで、自分が何をするために現れたのか言いません。いつまでもそうしているだけで、呪文を唱える訳でもなければ、指を回したりもしません。ただ、鍋を前にして立っているだけなのです。

男はたまりかねて

「あなたは何をしてくれるのですか。」

と聞きました。

すると精霊は

「私は何もしません。ただこうしてじっと待っているだけです。」

と応えました。

「そうか。やはり幻覚だったんだな。」

男は揶揄するように口走りながら、

「これまでの精霊は、いろいろとしてくれたのに、あなたは何もなさらないのですか。」

と不満をぶつけました。

すると、精霊はにっこり笑い、

「そうではありません。私は今、大切な仕事をしているのです。」

男には精霊の言う意味が解せません。

「何もしていないじゃないですか。」

男は言いましたが、精霊はやはり、

「こうして待つのが私の仕事なのです。あなたと一緒に、じっと時間が経つのを待つのです。」

精霊の言葉が馬鹿馬鹿しく、

「あなたに言われずとも待ちますよ。」

と言って鍋の蓋を閉じ、かまどを離れました。

幻覚に悩まされる自分にほとほと嫌気いやけが差した男は、ふてくされたように肘掛けに座り、そのまま居眠りを始めました。

どれくらい時間が経ったでしょう。

肘掛け椅子が揺れ、また、あの声が聞こえてきます。

「そろそろできあがったようです。」

精霊は言いました。

幻覚にしてもこれは酷いと、男は何もしない精霊を睨み付け、竈の前に戻ります。

「さあ、味見をしてご覧なさい。」

と精霊が言うまでもなく、男は鍋の蓋を取って、中から一つまみリンゴを取り出し口に入れました。

不思議な香りと地上のものとは思えぬ美味しさに男は身震いさえしました。男が何度拵えても出会うことのなかった風合いに感激し、うれし涙さえ零れたのです。

精霊はそっと言いました。

「これは時間の仕業です。何もせず、じっと待っている間にここまでに仕上げてくれたのです。」

初めて男の胸に精霊の言葉が染み渡りました。精霊はさらに続けます。

「あなたは、奥さんを亡くされてから、随分長い時間待ちました。それはあなたにとって大切な時間だったのです。決して無駄ではありません。悲しみに打ちひしがれ、苦しみに胸は掻きむしられ、それでも気付かないうちにあなたの心は次第に安らぎを取り戻してきました。それに気付きませんか。じっと待つことも必要なのです。でも、もうそろそろその時間も終わりにしましょう。」

男は心の中のもやが少し晴れてきているのに気付きました。

「苦しみや悲しみ、寂しさをいやそうなどと無理することはありません。奥さんのことも忘れる必要などありません。苦しみや悲しみ、寂しさ、それは尊い感情なのです。それを抱き続けることであなたは一層感情が豊かになり、心から人を愛することが出来、また愛されるようになり、そして何倍も楽しい人生を過ごすことが出来るのです。あなたにとって、これまで過ごした空白の時間は怠惰でも何でもありません。あなたを忍耐強くし、そしてあなたの内に潜む感性を磨いてくれたのです。」

精霊の言葉に男は胸を打たれました。

「私たち精霊はいつもあなたの傍にいます。私たちだけではありません。あなたの奥さんも同じです。いつも傍にいてあなたを見守ってくれているのです。あなたにはその姿が見えないだけです。でも感じることはできます。」

そう言って最後の精霊は男の前から去って行きました。

一人部屋に残った男は、ワインで蒸したリンゴを皿に取り分け肘掛け椅子に腰を下ろしました。皿のリンゴを平らげると、幸せな気分が身体全体に広がり、男は大きく伸びをしました。壁に掛かった妻の肖像と目が合うと、男は軽くウインクしました。すると肖像画の妻もそれに応えて微笑んだように見えました。

戸の隙間すきまからさわやかな風が迷い込み、男を包みました。

男の頭にひとつの考えが浮かびました。それはそれは、とても素敵な楽しい考えでした。

「この素晴らしいリンゴ蒸しを他の人たちにも味わってもらおう。」

男は物置にしまってあったかごを手に取り、表の扉を開けました。戸内こないに迷い込んだ爽やかな風に誘われるように、男は表に出ました。

青く澄んだ空が男を温かく迎えてくれました。


おわり

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