偉大な偉大な勇者さま、クロエのうわさを聞く。
「俺を取材をしたいから冒険に同行したい奴がいる?」
人狼の討伐を引き受けた直後の突然の予期せぬ頼みだから、アルベルヒも驚いた。
しかし、まんざらでもない様子だった。
ここは酒場『水晶の湖』。冒険者たちが休んだり食事をとったり危険な仕事を引き受けたり仲間を探し集めたりする場所である。
アルベルヒは、カウンターの席に腰掛けてミントの葉をつかったカクテルを飲んでいた。ベースはサトウキビの蒸留酒で、これに異国の柑橘類を混ぜたこの国では高価な飲み物だ。アルベルヒはまだ未成年のお子さまなのだが、なにしろ伝説の勇者なので誰も注意できない。
「そうなんだけど……」
未亡人のアデーレは不安そうだった。控えめな性格ながらも芯の強い美しい女性で、滅多なことでは動揺しない彼女だが、今日にかぎっては動揺を隠せずにいた。酒場で様々な人生を垣間見てきた三十路の女性がこうも動揺するとは滅多にない。
「で、どうするの? 引き受けるの?」
「別にかまわないけど、危険な旅だから命の保障はしないぞ」
「そう? 私は取材は断った方がいいと思うけど……」
「忠告ならそいつに言ってくれ」
「勘違いしないで、アルベルヒ。私はあなたが心配で言っているのよ」
「アデーレの取り越し苦労じゃないのか?」
勇者アルベルヒは、アデーレの忠告を軽く笑って受け流した。
アルベルヒはまさに勇者の名前にふさわしい美少年だった。金髪は黄金の糸のよう、瞳は蒼い宝石のよう、軽装の鎧にかくされた肉体は無駄な贅肉が一片たりともなかった。その表情はまさに自信に満ち溢れていて、これまで挫折を味わったことなど一度もないかと思われた。さらには、彼の身に着けている甲冑はオリハルコンという特殊な金属でできていた。これは鳥の羽よりも軽いが鋼鉄よりも硬いという代物で、天空の神々によって製造された奇跡の合金といわれて、この鎧一つで国一つ買えた。それよりもさらに素晴らしいのは彼が帯びている先祖代々伝わる剣で、念じてひと振りすれば雷を発し、国を滅ぼすほどの恐るべき悪龍すらこの剣の前に斃れた。さらに百種類の魔法に通じており、攻撃系回復系補助系自由自在、この国でアルベルヒよりも強い人間は存在しなかった。
「そいつはどういう奴だ?」
「わかんない」
「は?」
「私、会ったことないのよ」
「どういうことだ?」
「人づてに頼まれたのよ。断れない筋から。だから私もどういう人間なのか評判で聞いたことしかわからないのよ。これでも長いこと酒場で色々な人間を見てきたから、会えばどういう人間か大抵はわかるんだけど……」
「なんて奴?」
「クロエっていうの」
「知らん」
アルベルヒは他人の評判にはほとんど興味も持たない人間だった。
「たしかにクロエなんてどちらかというと平凡な名前よね。でも、彼女が出現してからクロエという名前は平凡じゃなくなったわ。それはもう恐怖とか侮蔑とか、そういった単調な言葉では表現できない特別な名前になったらしいの」
「ちょっと言い過ぎじゃないのか?」
呆れたようにアルベルヒが答えた。
「そのクロエがどういう評判なのか知ってる?」
そう言うとアデーレは紙切れを取り出した。
そしてそれに書かれている文字を読み上げた。
『クズ。人でなし。悪魔。鬼畜。人類の進化を衰退させる外道。悪魔は悪魔でも魂を売る方じゃなくて買う方。ビッチ。人の皮をかぶったなにか。666。化け物。天魔。狂気の申し子。絶対に友達にはしたくない人間。研究のためなら肉親でも売る。良識の天敵。近づくだけで妊娠しそう。獣の臭いがする。地獄の住人。脳みそが腐っている。おとなしそうな顔をしているが絶対に人を殺している。時代が生んだ魔性の怪物。強きを助け弱きを挫く。ブス。チビ。頭が悪い。魔眼の持ち主で睨まれるだけで不幸にされる。尻尾をふる犬。欲望にまみれた豚。蛇の舌をもつ女。酒乱。キューピットの矢で射られても好きにはなれない女。人肉とか食べてそう。どんなに金を積まれても援助交際する気にはなれない。絶対に敵に回したくない。変態。ド変態。スケベ。ドスケベ。どうしようもないスケベ。人間の言葉では表現できない名状しがたい何か。血液の一滴一滴がすべて猛毒の水銀でできているような女。金には滅法弱い。握手すると一生臭いが染み付いてとれない。世界を滅ぼす悪の大王が鼻をつまむほどの腐った精神の持ち主。チビ。蛇の王バジリスクがおもわず目をそむけるような容姿の持ち主。夜の貴族ヴァンパイアが血を一滴飲んだだけで腹をこわして寝込むような腐った血をもつ女。持参金に国をひとつやると言われても結婚したくない女。風呂に入るとその残り湯がすべて汚水になる。店にやってくるとその店は必ず潰れる。街にやってくれば街はかならず崩壊する。大陸にこの女とキスしたいと思う人間は存在しない。有史以来人類の歴史を変える女もちろん悪い意味で。血肉が朽ちて骨だけになっても死にそうにない女。歩く台風。髪の毛の数だけ他人を不幸にしている女。どんな偉大な聖人でも改悛させることのできない女。それから……』
「待った」
アルベルヒは表情を引きつらせていた。
「その悪口のオンパレードは……」
「まだ半分も読み上げてないのよ」
アデーレはメモを見せた。
たしかにその紙切れには、細かい文字でびっしりと罵詈雑言が並んでい
る。
「それが事実なら、人狼よりもそいつから討伐しないと……」
「私もそう思うわ。でも、さっき断れない筋と言ったけど、王宮からの直々の依頼なのよ」
「え?」
「考えてみて。もし噂どおりだとしたら、犯罪者じゃない? さすがに天下の王宮が伝説の勇者さまに犯罪者まがいの人間を押しつけることはないと思うけど」
「じゃあ、大丈夫じゃないのか?」
アルベルヒは他人事のように言った。
「でもどうも胸騒ぎがして……。あたしの勘ってよく当たるの。それで調べてみたんだけど」
「それで?」
「当たらずとも遠からずだったわ。少なくともあたしたち酒場の人間にとっては。クロエという女性はこの『水晶の湖』以外のすべての酒場で出入り禁止になっているわ」
「本当か!?」
「おそらく酒飲んで暴れたんじゃないかしら……。でもおかしなことに具体的なことは誰も言わないのよ」
「しかし酒飲んで暴れるというのは酒場でどこでもある光景だ。俺も、この『水晶の湖』で酔っ払いが暴れているのをしょっちゅう見ている」
「そうだけど……出入り禁止になるってよっぽどの事だと思うのよね」
「ん?」
入り口から気配を感じたので振り返った。
ローブで全身を身につつんだ薄気味の悪い男が入ってきた。
ローブは茶色でかなり古びていて、顔まですっぽり覆い隠していた。暖かい季節なのに黒い手袋までしている。腕には籠を下げていた。ローブの男は、まるで影のようにゆらゆらとした足取りでアルベルヒに近づいてきた。
ただならぬ気配を感じたアルベルヒは、剣の鍔に指をかけた。
「やめて、アルベルヒ。その人は商人よ」
「え?」
ローブの男は、笑った。
「ぬいぐるみはいりませんか?」
「……なに?」
「子供たちに大人気のぬいぐるみですよ。おみやげに買ってあげると、子供たちが喜んでくれますよ」
そう言って籠のなかのぬいぐるみたちを見せた。
アルベルヒは籠の中身を見た。
絶句した。
籠のなかのぬいぐるみはどれもこれもグロテスク極まりないものだった。
アルベルヒはめいぐるみを一つ手に取った。
それは巨大な目玉に無数の黒い毛が生えた代物で、アルベルヒはそれを気にいったわけではなく、それが一番マシだったから手に取ったに過ぎず、ほかのがあまりにも醜悪で、アルベルヒにとってそれらは打ち滅ぼすべき化け物以外の何物でもなかった。
「どうですか? おひとつ」
「い、いや、遠慮しとく……」
「そうですか、それは残念」
ローブの男はするりとアルベルヒから去っていった。
不気味な男が去ると、
「なんだ、あれ……。あんな気味悪いの売れるわけないだろ!!」
と小声でアルベルヒが言うと、アデーレは首を横に振った。
「それかね、売れているの」
「本当か!!?」
「大人気というほどではないんだけど、意外と売れてるの。どうしてあんなのが売れるのか、あたしにもさっぱりわからないんだけど、子供にはそれなりに人気があるみたいなの。しかも、ぬいぐるみがひとつ売れるたびにうちでパンを一個買ってくれるもんだから、あたしも断る理由はないのよ。むしろ上得意のお客さんなのよ」
「本当に商人かよ? ただ者の雰囲気じゃなかった」
「さあ……。でも、過去を根掘り葉掘り聞くわけにもいかないし」
「あれ、呪いの人形じゃないよな?」
「ここは冒険者の集まる酒場よ。魔法使いや僧侶が山ほど集まる場所なのよ。そんなの売ったら、すぐにバレちゃうわよ」
「そっかぁ」
「それでどうするの? 取材を引き受けるの?」
アデーレは訊ねた。
とても心配そうな顔をしていた。
「私は断った方がいいと思うけど、なにせ王宮からのお達しだから、断れとは言えないの。でもねアルベルヒ、あなたは伝説の勇者なのよ。あなたに命令できる人間はこの大陸には一人もいないのよ。あなたは誰に気を遣うこともなく自由に振舞うことができるのよ」
「そんなの」
と、アルベルヒは胸を張った。
「引き受けるに決まっている。勇者には、その偉大なる業績をつたえる人間が必要だ。俺がいかにして怪物どもを討伐したか、ぜひそいつに語りついでもらいたい」