第五十七話 魔神と竜神
階段を駆け上がる二人の男女。床に敷かれていたであろう切り裂かれている赤い絨毯が、事の重大さを改めて理解させる。
長い道を走るハイルとリーナの二人は、ただ沈黙を保っていた。
左右に付けられたガラスから一望できる中央の町は今、竜たちに占領されていた。視界に入れたくもない、変わり果てた町。以前の輝きはどこに行ってしまったのか、竜の羽音と足音で、別の意味での活気が溢れていた。
皮肉に満ちる自分の思考を遮るように首を横に振るハイル。そんなハイルを見向きもしないリーナは、腰に下がるレイピアの柄から一時たりとも手を離さない意思を持ち、奥に見える王女の部屋に通じる扉をじっと見ていた。
すると、扉はゆっくりと開かれていく。
その場で止まるハイルとリーナの足。
中央に侵略してきた全ての首謀者が、姿を現した。
聡明な面立ちに、色素を失った白髪。体は小さいながらも、竜たちを統べる者として相応しい風格を少年は備えている。
胸に手を当てる少年は、何かを呼ぶように語り始めた。
「あぁ、竜神様。目の前に、あなた様の敵がいらっしゃいます。今こそ羽ばたき、風を穿つ風を巻き起こす時。さぁ、開戦の旋風を!」
少年の言葉が切れると、ハイルたちの左右に並んだガラスが風圧に耐え切れなかったのか、一斉に割れ始める。
割れた扉から、外に飛び出したハイル。半壊だったためか、体の至る所に傷が入り、黄金の血が滴り落ちる。
だが、その血が流れた瞬間もほんの一瞬。
下から上空に飛翔する黒い竜。その鋼に近い質を持つ翼が道を裂きながら、開いた大口がハイルの体を噛むと、天空へと連れ去った。
巨大な竜が来て、外に飛び出たハイルと一緒に空へと消えた。そこまでが唯一、リーナに分かる最低限の範囲。
「な、どうして、です……?」
「身を挺して守ったのか。それとも、この少女に託したのか」
風通しが良くなった天井を見上げるリーナは、黒い粒となった竜の姿が雲の中に入るまでを、呆然と眺めていた。
「ふん。まぁ、託したとしたのなら、この娘を選んだのは間違いなんだろうけど」
減らず口が途切れる事を知らない少年の口から、自分の名前を意味するマシューという名が飛び出した。
しかし、リーナは聞いていないのか、上から目を離さない。
どうしていつも置いていくのか。それだけを思いながら、「無視をするな」と手を伸ばしてきたマシューの腹部に、「うるさいです」と一言を添えて、リーナは力強い拳と一緒に答えた。
全身を襲う竜神の牙。伸し掛かる竜の顎の力は、魔神の力を以てしても止められるものでは無い。
次いで、上昇する竜神は勢いを維持したまま、周囲のマナを口に集めていく。
全ての竜の頂点に君臨する竜神の息吹。そんなものが撃たれた時は、中央国など跡形も無く吹き飛ぶだろう。
――そうはさせるか。
全身を覆い尽くした銀の痣。もう後戻りは出来ないと、数秒前まで抱いていた自らの思念が絶たれた事が分かる。
身体の次は、どこを侵食するのだろうか。いや、もうそんなことはどうでも良いのかもしれない。
この竜を、ここで倒さなければ、中央国に未来は無い。
「ほら、片翼はどうした? 後、牙もな」
噛み潰される寸前、体を伝う黄金の血を鎧のように纏わせ、その一部をバスターソードの強化材料として用いたハイルは回転して牙を折る。竜の口から脱出を果たしたハイルは空中に血を撒き、重量を持つ血の壁を作り出すと、それを蹴り、竜の右翼を切り裂いた。
鋼と表現された翼も、魔神によって精製された武器には勝てなかったようだ。
「力の差を思い知ったよな? だとすれば、退場だ」
ハイルの剣が竜神の左翼に迫ろうとした時、竜神の右翼の断面から、竜の息吹のために溜められていたはずだったマナが溢れ出す。
七色に飛び散る光。濃度が非常に濃いマナでも、人の視覚に捉えることは決して出来ないとされたそれが、目の前に広がる様を見たハイルは何かを言うわけでもなく、その神秘的な輝きに目を奪われていた。
たとえ目に写っていなくとも、竜に向けられた魔神としての破壊衝動は抑えない。ハイルは勢いを維持したまま左翼を切り落とす。
予想通り。
左翼の傷口からマナで構成された光が飛び出すと、翼のような形を模した。
竜の厚い鱗の一枚にぶら下がるハイル。丁度、竜の両翼の中間地点に位置する場所であったためか、眼前に広がる七色の光に手を伸ばしたいという思いに駆られる。
光の流れに伸びていく手が震える。これに触ってしまった時、何が起きるのか分からない。
だからハイルは、目で見る動作だけに止めた。
「これが、竜神だってのか」
そもそも、竜の姿を見て、竜だと判断している時点で間違っていたのだ。
今も放出されている膨大なマナの量。竜神から溢れ続けるマナは、物体が体に閉じ込めておける限界を優に超えているだろう。
つまり、マナによって構築された生命体。それが、竜神の正体なのである。
だからどうした、ハイル自身でたどり着いた結論に、自分で答えをぶつける。自分は魔法を極めるために生きてきたわけで無く、マナがどうして空中に充満しているのかどうかも、知る必要はない。
本当に大事なことは、
「俺が、みんなを守るって事実に変わりは無いんだ!」
、そういうことなのだ。
腕を思い切り引いて体を浮かせ、竜の首を目指して跳躍。
太陽の光を受けて、金色に輝くバスターソードを天に掲げるハイル。よく見れば、ハイルの血はバスターソードの周囲を走りながら移動し、通過した部分が模様となって広がり、形を変えていた。
時間と共に頑丈になり、振り下ろされる頃には、竜の首を落とすのに十分な切れ味となる。
すると、竜は鋭い風を巻き起こし、ハイルの体に傷を付けていく。しかし、どんなに深い傷が付いたとしても、切られた部分は結晶化し、結晶が砕ける頃には傷が元に戻っているのだ。
人が成せる業を超えた業を持つ自分に嫌気がさしながら、悲しく振られたバスターソード。抵抗虚しく、落ちる竜の首。どこか力無く、単なる被り物のような印象を抱かせる程に軽い。
落ちたはずの首から光が溢れる。先に落ちた竜の頭部と全く同じ形の頭部が構成された。
そこでハイルは思う。どんなに竜神の身を切り刻んだとしても、竜神自体は痛くも痒くも無いのだ。
その竜神は、形を持たないのだから。
(試すか)
鉄の含有量によって、硬度が変わる様に。
ハイルは腕の結晶化を自身で解くと、流れ出した血を竜神に向かって浴びせる。
マナが放出されている場所にかかるはずの黄金の血は、その勢いに負けて消失する。だが、ハイルの狙いはマナが放出されている断面の周囲。
何も知らない竜神は息吹で攻撃を行い続ける。だが、次第に異変に気付くのだ。
巨大な翼の形を保っていたマナの光が、徐々に少なくなっていることに。
考え方は単純だ。吹き出し口に血を浴びせても、光によって軌道をずらされる。ならば、吹き出し口の周りに血を浴びせ、少しずつ断面を塞いでいけば勢いを弱められるはずだとハイルは考えた。
そして、成功したのだ。
竜神は飛ぶための翼を無くし、中央国の外へと落下した。
「最後踏みしめる大地の感触は、どうだ?」
尻尾を掴み、一緒に落ちてきたハイル。
次いで、空から落ちてきた巨大化したバスターソードが竜神を貫き、噴出しようとした部分を覆いながら、竜神を金色の水晶と化した。




