第七話 「壊れたままのオタマジャクシ」
七話目です
●雪風亭からウナギ長屋へ
「で結局はあんたからの仕事、ってことででいいのか?」
ハリマが念を押すように確かめる。払いは既に目の前のテーブルに置かれていて――おそらく右から左に流れていくだろうが、とりっぱぐれの心配はない。仕事の後見はマスターが請け負う、と太鼓判を押してくれた。なんとも心強い話である。
「他にないんだ、いっとくが、この仕事は利子だ。お釣りをだしたきゃ、うちで二月と三日働くか、体を張って命を削るか、どっちがいい?」
「どっちも俺には向いていないよ、血なまぐさいのはもうこりごりだ」
「だろう、折り合いをつける俺の身にもなってくれ」
「しかし、こんな仕事は珍しいな」
「訳ありなんだろうよ」
マスターはとりあわない。よく考えればここに回って来る仕事で訳ありでない仕事なんて、皿洗いか昨日のようなドブ掃除……あとは雪かきくらいのものだ。
探偵事務所の看板で回ってくる仕事も、これまた碌なものがない。だいいち、箱詰めにされてメイドとセットで届くような仕事が、訳ありでないなどと誰が言えるだろうか。
それでも、その日と翌日は、何事もなく全てが順調に進んだ……三太郎と店の修理以外は。ハリマ同様仕事にあぶれていた店の常連が、ツケの帳消しと小遣い稼ぎを目当てに片付けから修理に取りかかり始めていたが、いかんせん店の真ん中に三太郎が居座ったままで、思うようにならない。
また、三太郎があまりにすまなさそうに謝り続けるので、しまいには当初彼を邪険にしていた素人大工もいつしか情が移り、「こっちから先に何とかしようや……」 ということになった。そして、各自思い思いにジャンクやガラクタ、家の倉庫で埃を被っていたバッテリー等々……様々なパーツを持ってきて手をかけ始めた次第である。
店を直すにしてもまず彼をどかさないと話は始まらなかったし、これはこれで順調に動き出すように変わりそうだ。
ティニーの弟も予定より少し早く、明日には家に戻ってくるというし、首都への定期旅客船も切符と部屋を押さえられそうだ。先日、ああした事故があっただけに、定期路線の方も延期があってもおかしくはないかと思っていたが、遭難したセトカ丸の捜索を打ち切った艦隊がそのまま客船を護衛して戻るという話になったそうだ。
その出航は三日後である。要は、それまでを無事に過ごせば、だいたいの問題は片付くはずだ。流石にハリマ達皆が共に旅をするというわけにも行くまいが、一度船に乗せてしまえば、これでもう一安心といったところで、彼らの仕事はそこまでだ。
「で、結局俺の手元に残るのは……ここからどのくらいなんだ?」
「もう受け取ってある……と言いたいところだが、半分は先に抜かせてもらった。今のおまえらから全額先に抜いたら、仕事を片付ける前に干上がるだろうからな。心配せんでもちょろまかすような釣りはもねえ、まぁあと二つは仕事をこなすこったな」
「ってことは、これで半分!? まさかペニー銅貨じゃねえだろうな」
一瞬、あまりの少なさにぎょっとしたハリマだったが、それが桁違いと分かって安堵するやら驚くやらである。安く叩かれすぎる仕事は誰もがゴメン被りたいものだが、逆に払いの良すぎる仕事に比べればまだマシ、というのが、石橋を叩いて壊し、船を作って下から渡る流儀のハリマである。
払いの良すぎる仕事に飛びつく馬鹿がどうなるかというと――その好例もとい悪例が、これまた三太郎の修理用の足場に寄りかかり、酒どっくりを抱えたまま、うつらうつらと船をこいでいる玄海名の言うまでもなかった。
「それが驚け、混じりっけなしの首都銀行様直出しの銀貨ばかりだ……あの子、ひょっとしたら俺らが思ってるより良い所の娘さんか、その……まあ……なのかもな」
マスターが濁した内容についてはハリマも察した。首都から離れた修道院や地方都市で、親はいないままに、どこからともなく縁者からそれなりの支援が定期的に届く……足長おじさんのような美談ではない、もっと泥臭く、そしてもっとありがちで、それゆえに納得のしやすい話ではあった。
「ああ、まあ……それは言わないさ、ヒカリも、何も言わないだろう」
ああ見えて耳年増なりに世間に揉まれた姪である。その程度には信用も置き、頼りにもしているつもりだ。
「まあいいさ、はやいところおまえもメシ食って、あの子を弟さんのところへ連れ帰って安心させてやれよ」
そういって奥のテーブルを目で示す。気付かなかったが、ティニーが落ち着かない様子でこちらを見ていた。ヒカリは初日の夜番から三太郎の修理と張り切りすぎ、今は店の脇にまで移動した艇の中で寝袋にくるまって高いびきだ。
「食欲がわかないなら……軽く何か飲むかい?」
ハリマは彼女の向かいに腰をおろし、笑いかけた。彼女の前にはいくつかの料理が並んでいるが、手を付けた様子はない。
精一杯に優しい声を作って笑いかけたが、彼女は下を向いて冷め切った料理をつつきはじめた。 無理もないかな、とハリマは思う。
おそらく仕事の依頼どころか酒場に入ったこともないのだろう。それに昨日初めて話したときにも感じたが、同年代の少女達と比べて、ヒカリのような例外を除くにしてもやや大人しすぎる印象だ。
「マスター、カルアミルクを頼むよ、俺はビールだ」
マスターがコーヒーリキュールとミルクを棚から取り出す。彼女が顔を上げて不安を一杯に浮かべる。
「これは俺のおごりだよ、金はもう受けとっちまったし、女の子に酒をおごるのはおれの趣味なんだ。」
不安の元が懐具合でないのは察しがついたが、あえて先回りしておくことにした。この様子では、少しアルコールを入れた方が話も早いかもしれない。依頼人と必要以上に馴れ合わないのもまた彼の流儀だったが、あまり頑なになられても仕事がやりにくい。
「いいかげんにしろ、いつから子供に手を出すようになった」
マスターがグラスにカルーアを注ぎながら突っ込む。
ティニーはひきつったような愛想笑いをして、エビにナイフをいれる。
「正式な自己紹介はまだだったかな? 俺はハリマット・ドゥル・カロストリオ……長いな、まあ今まで通りハリマと呼んでくれ」
「ティニー・アドリアナといいます」
ティニーはエビにナイフをいれたまま、メイド服の中に消え入りそうな声で答える。
ごん、と鈍い音が店内に響き、ハリマがテーブルに突っ伏した。後頭部から鈍痛。振り返ると、片手にグラスを乗せたトレイを持ち、マスターが睨んでいた。後頭部の痛みよりも、我ながら調子に乗った、という思いが強かった。
「ごめん」
「い、いえ、お気になさらずに」
「おまえにはビールよかこいつだ」
「ん……うぶっ!?」
隣のテーブルからビンを取り上げ、ハリマの口に突っ込む。ラベルには「『スピリタス』、アルコール濃度97%」と書かれてあった。酒にそう強くはない上に回りの速いハリマは、ひとたまりもなく轟沈して床に伸びてしまった。意識はなく、顔は赤から青へ点滅を繰り返している。
「話をするなら……これくらい静かな方がいい」
なんでもないかのように、マスターが言う。
「まぁ飲みな、アルコールは薄くしてあるから、カフェオレみたいなもんだ。こいつが起きるまで俺が付き合ってやる。こんなおっさんで悪いが、なに、俺だってまだまだ捨てたもんじゃない、それに店がこの有様じゃ、せっかく料理を作っても誰も食べにこねえしな……要は暇なんだ」
「私も付き合う。いいでしょ」
ヒカリも自分のグラスを手に三太郎のハッチからモソモソと這いだしてくる。ブカブカの作業着のポケットで、工具がカラカラと鳴った。
そして、返事を待たずに奥から小さな酒樽を引っ張り出して来る。しかし、その酒代もハリマの借金に上乗せされているとは、いまだ眠ったままの彼の知る由もなかった。
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●銃手持ち
「すみません……」
ハリマの背中でティニーが顔を青くして苦しそうにしている。その隣をヒカリが並んで歩いていた。既に深夜と言っていいが、飾り窓から漏れる明かりは、昼間のようだ。
「飲めないならそう言えばいいのに」
「いえ、知らなえかったんです。のんらのは初めてだってものですから」
「かわろうか?」
ハリマが目を覚まし、ティニーがアルコールに足を結ばれたころになって、やっと調子の上がってきたヒカリがからかうように言う。彼としては怒鳴りたくもあるが、事実、ヒカリの方が腕力は強いので黙っていた。ただ、こう見えてハリマも酒には案外強い。潰れるまではあっという間だが、起きればケロリとしているのも彼の特徴で、いったん悪酔いモードに入ると、しばらく暴走が続くヒカリよりはよほど酒癖が良いのだった。
「……重いですか?」
「え? いや、大丈夫だよ」
ハリマがあわてて言い繕う。
「そうそう、誰かさんが貧相なだけよ」
うるさい姪を無視して背中で小さくなっているティニーを見やると、先刻青かった顔は信号のごとく赤く染まっている。さっきもそうだったが、こうしてみるとやはり若い、というより幼い。ヒカリと同じくらいだろう。
同じ年代でも樽を単位に空けてしまうヒカリとはえらい違いだ。もっとも、実の親より酒との付き合いが長い姪と比べるのも酷なことだが。
「次の角はどっちだい?」
「ええと、たふん右だとおもひます……ウナひ横町の長屋、です……
」
右に曲がると、街を外れた色街との境に伸びる細い通りだ。道の上にまで屋根が出ていて昼でも薄暗く、脇を流れる排水口をネズミが駆け抜けるような路地。
「右ね……こっちの方は物騒だよ、君みたいな娘さんはこんな時間に出歩くもんじゃないな」
「はい、大丈夫です。マニヒッチの親分さんがちょくちょく顔を出してくれているそうですし……お屋敷の方にもよく来られていましたよ」
「マニヒッチ? あいつが?」
先日の一件、それなりに苦労して捕まえたスリを突き出してやったのに、「まだ賞金がかかってないから」 という理由で、最低額の報償さえ手にできなかった恨みを積んだばかりの名前に、思わず声に不快さが滲む。
マニヒッチはこの辺り一帯を仕切る軍警隊番所詰めの拳銃持ちだが、色街の常連だったり、ゆすりたかりで小銭を稼ぎ、上にへつらい下に厳しく。とろくな噂を聞かない男だ。もっとも、おかげで裏に対する情報は確かで、それなりに仕事はしているようだが……ティニー達の所にくるのも、どうせろくな用事じゃないのだろう。
なにかマニヒッチの陰口でも叩いてやろうと思ったその時、噂をすれば何とやら――派手な外見と狭い入り口を持つ怪しげな店から、その当人がふらつきながら出て来た。
「旦那、またいらしてくださいね」
「おうっ! 毎日でも、と言いたいが、俺も銃持ち、忙しい身だ、何より、他にも俺を待ってる女はたくさんいるのさ」
「ああん、もう嫉けるわねぇ」
「いけずぅ」
これまた店に劣らず派手な女がしなをつくり、マニヒッチに寄り掛かっている。マニヒッチはといえば、すっかり出来上がっていて、ほとんど馬鹿そのものである。それでも何とか陰口をこらえて通り過ぎようとしたのだが、不機嫌な顔をマニヒッチに見咎められたらのか、女連れが気に食わなかったか、呼びとめられてしまった。
「おい、そこのちょと待てな」
「あ、何でしょうか……」
こういう高慢な態度に文句の一つもくれてやりたいところで――これがマスターならば軽く皮肉の一つも差し込むのだろうが、それを真正直に出すほどハリマは実直では無く、処世術なりに流す生き方を選ぶつもりでいた。しかし、彼の姪の方は違っていた。
「邪魔よ、そこどいてくれる? 目障りな腐れ●●● 銃持ちがこんなとこで鼻の下伸ばしてんじゃないわよ、タコ」
……幸いティニーには何を言ったか聞こえなかったようだが、さすがに地獄耳のマニヒッチ、それを聞き付けて振り返る。
「誰かと思えば……雪風んところの居候どもじゃねえか? こないだみたいにコソ泥ばっか連れてこられても、俺達ゃ忙しいんで相手してやれないんだぜ」
「失礼ね、探偵よ」
「子供のゴッコ遊びか、ますますお似合いだ……まあ、俺も今日はガキの相手してるほど銃持ちは暇じゃねぇんだ。とっとと消えな、色男とオチビさん」
女の手前とあってか、今日はいやに機嫌もよさげだ。なにやらこのまま見逃してもらえそうである。ハリマはその言葉に甘えることにした。
が、幸運の女神は彼を鼻にもかけず、かわりにヒカリが笑いかけた。にっこりと。
「喧嘩する度胸もないんじゃ、腰のものは飾りみたいね、もっとも、ズボンの中身にいたっては弾丸もなさそうだけど」
ハリマの方が青くなってしまうようなことを言う。マニヒッチの方はといえばハリマよりも青くなっていたが、五秒程の空白ののち、無理やり笑顔を作った(それでもかなり怖いが)。そして、殴り掛かってくるかと思いきや、妙ににこやかに話しかけてきた。……とは言っても、視線はハリマもヒカリも素通りして、背中のティニーに向けられているのがすぐに分かった。そのくらい露骨な、ある意味驚きの相変わりである。
「おや、ティニーちゃん、こんな時間にどうしたい、危ないから俺が家まで送ろう」
「は、いえ……でも……」
えらい変わりようである。どうやら、ティニーを気にかけてくれている、というのは彼女の言うとおり本当のことらしかった。理由が変な物でなければ良いんだが……とげんなりするハリマ。一方、喧嘩を売ったつもりでいたヒカリも、そのあまりの態度の変わり様には見事な肩すかしをくらい、なにもできずに口をぱくぱくとさせていた。相変わらず、予定と違う路線に応用の利かない姪である。
「なぁに、いいってことよ。こんなもやし野郎なんかうっちゃって、ほら」
「ちょいと、旦那、自分一人で大丈夫です」
さすがに腹に据えかね、ハリマが割って入るが、マニヒッチは気にとめた様子もない。
「もやしは間違っちゃいないけど……」
ヒカリがぼそっとつぶやく。
「あ、はあ、いえ、でも親分さんも仕事でお疲れでしょうし……」
「そりゃあ、人々の命を預かる銃持ちです。遊んでるわけにゃあいきません。たしかに大変ですよ。行きたくもない店に張り込んだり、好きでもない女どもにお世辞を言い……しかし、これも仕事の内です」
「御苦労様です」
……どうやら心からそう思っているらしいティニー。困った娘さんである。ヒカリのように擦れきった耳年増もこれはこれで困りものだが、あまりに世間離れしていても、あいつか何かに騙されやしないかと心配になってくる。
弱り切っていたところに、救いの手が思わぬ所から差し延べられた。マニヒッチの同僚が、これまたひょっこり通りがかった。
「マニヒッチの、お役目御苦労なこった、どうしたい、そいつらぁ」
「ああセンの字かい、いやなに、こんな夜道だ、危ねぇと思ってな」
お前がいたほうが余程危ない。と思ったが口には出さず、するりと会話の切れ目を入れる。
「じゃ、私達はこれで」
「おぅ、気を付けてな……って、何やってんだおめえ?」
「……」
完全に呼び止める機を逸してしまったマニヒッチを置いて、ハリマ達は足早にそこを立ち去ったのだった。
「何が御苦労だ、あのおせっかいやきが!」
屋台で一人くだを巻くマニヒッチ。屋台の主人もいい迷惑だろう。おそらく今夜はもう一人の客も入るまい。
「親分さん……今夜はもうお帰りになった方が……それ以上はお体に障りますぜ」
主人も生活がかかっているから必死である。現にさっきから何人の客が踵をかえして去っていったことか。
「やかましい! てめぇこの俺に指図しようってのか?」
「いえ、そんな、滅相もない」
「ふん、まぁいい、てめぇのとこの酒は不美味くていけねぇ、もぅ二度と来ねぇ!」
そう言い捨ててマニヒッチは立ち去って入った。主人はその言葉に、喜びの余り感涙にむせんだ。
「お代……」
「ツケだ!」
彼がツケを払うことなど世界がひっくり返ってもあり得ないのだが、もうそんなことはどうでもよかった。つまるところ、マニヒッチとはそういう男だったのだ。
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●ウナギ長屋
「で、旅支度は……どのくらいでできそうかい?」
入り口で立ったまま水を飲み、ようやく一息ついたティニーにハリマが尋ねた。
「ええ、あっ、すみません。とりあえず上がって下さい」
「え、でも」
と、ハリマが渋っていると、「それじゃ」 とばかりにヒカリがひょいひょいと入っていった。仕方なく彼もそれにならう。
長屋作りの狭い廊下だが、それなりに手入れが行き届いていて、感じが良い。
客間と居間を兼ねた細長の部屋には、質素ながらもきちんとしたテーブルや椅子が置かれていた。
「少し、そこで待ってて下さい、今、何かお持ちしますから」
ティニーが部屋を出て行こうとするのを手で制してハリマが切り出した。
「仕事……というか、君らの行く先の事を聞きたいんだけど……てっ!」
「いいじゃない、そんなに慌てなくても。どうせ船便が出るまでまだ間があるし」
ハリマの足を踏み付けながらヒカリが言う。勿論、テーブルに隠れてティニーからは見えないように。
「そうですね……そのへんは……あら?」
ティニーが驚いたように目を見開いている。見れば、控えめに湯気を浮かべたカップをのせたお盆が歩いて来ていた。
「あ、アスコット! 帰ってくるのは明日だって……っていうか、その……あ、紹介します。この子が弟のアスコットです」
「よ、よろしく……あっ」
なるほど、よくみるとお盆の下に小さな男の子がいて、必死でお盆を支えている。危ないなぁ、とハリマが思ったそのとき、男の子が敷居につまづいてティーカップが宙に舞った。
しかし、一秒ほどしてもそれは宙に浮いたままで、床を塗らすことも、部屋の中に飛び散ることもなくふわふわと不思議な姿を漂わせている。
「間にあったね」
何でもなかったかのようにティーカップを手にヒカリが笑っている。いつ呪文を唱えたのか、と思ったが、どうやらまた魔法服――着物をコートの下に着込んできていたらしい。
「簡易呪法よ、制御言語と作動命令を略して、……まあ要は気合いで発動させるの、もっとも、失敗も多いけどね」
実際、服の魔力補助がなければ、ヒカリの技量では簡易呪法を瞬間的に発動させることはほぼ不可能だ。
「どうもすみません。でもどうしてあの子ったら……」
「いえいえどういたしまして……きっと、お姉さんに一日も早く会いたくて、抜け出して来ちゃったのね」
ヒカリがそう言ってティーカップを口に運ぶ。
「いや、しかし……無事だから良かったが……」
「まあ、過ぎてしまったことはもう良いじゃない、しつこい男は馬に食われて馬糞肥料にされちゃうよ? そんなことより、人が居たことにも気付かなかったのって、何気に色々駄目だと思うな」
ヒカリの指摘にぐっと詰まるハリマ。抜けた抜けたと思っていたアルコールが残っていたのか、それとも単なる気の緩みか、どちらにせよ油断と言われてもしかたのない失態だ。アスコットがもし侵入者だったり、彼とは別に誰かが居たら――という事にも考えが至っていなかったのだ。
「……おまえの言うとおりだ」
素直に認めるハリマ、間違いは間違いと認めるにもやぶさかではない。
「ま、私の場合はほら……人の持つ魔力とか気配? である程度分かる、ってのもあるからね……さて」
「ほんとに、もう……いいから、休んでいなさい」
子供に聞かせられる話ではないのだろう。ティニーがやんわりと諭す。
「はい……」
お茶をこぼしかけたことを叱られたと思ったか、しゅんとしている。誉められようと思ってしたことでこそないが、叱られるとは思わなかったのだろう。まだ年端もゆかぬ子供の思いを踏みにじってしまうにはハリマもまた優しすぎた。
「なかなかおいしいよ、これなら店で出しても恥ずかしくない」
カップに佇む琥珀色は、それぞれに姿が違って入る。おそらく一つのティーパックを使い回したのだろう。ハリマのとったカップは最も色の薄いものだった。
ティニーはまるで自分が客人であるかのように居心地悪そうに下を向いている。
「ええ、とっても」
「おやすみ、お姉ちゃん」
「おやすみ」
その言葉に救われたかのようにアスコットは部屋へと帰っていった。
しばし、茶とも白湯ともつかぬ飲み物を味わいつつ、だれも何も言わない。カップの温もりも冷めたころ、ティニーがカップをさげるついでに部屋の寝息を確かめる。
アスコットが一緒に出すつもりだっただろう干菓子を手に戻ってきた。
「どうぞ、少し、しけっているかもしれませんけど……」
「やぁ、どうも」
「すみません」
ほんの少し湿気を帯びて砕けにくくなった干菓子をかじりつつ、自分がまた、尋ねる機を逸してしまった事にすこし、困惑していた。しかし、それを知ってか知らずか、ティニーはハリマをじっと見据えて入る。
食べにくい……いやそれどころじゃ……困惑はつのる。
「早速ですが、まずは周囲の確認をしてきたいと思います。本当は昼のウチに見ておくべきだったんでしょうが……今からでも確認はしておきます」
汚名返上、とハリマが気合いを入れる。
「とりあえず、俺が先に周りを見てくるから、お前はティニーさん達のことを見ててくれ」
「ん、わかった」
ヒカリも腰をあげて仕事の支度を始めた。と言っても、防寒装備と夜番に耐えられるよう……あとはいざというときのために、襲撃に備える。という程度で、単にいつも通りの身を固めるだけのことだったが。
しかしティリーの口から出た言葉は、彼らを送るものではなかった。
「あっ、すみません、私ったらついうっかりしてこんな遅くまで。すこし、待って頂けますか……」
「え、ああ……ですが」
問題は次の一言であった。
「……まだ、お床の支度が出来ていませんので……」
「……は?……」
「……は?……」
「すぐですから」
「はぁ……」
「今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休み下さい」
「あっ、でっでも、ベッドが足らないでしょう?」
ヒカリが奪われた主導権を取り戻そうと必死で抵抗する。休みたいのはやまやまだが、あまり快適すぎる状態では、そのまま本当に眠ってしまいかねない。
「え……大丈夫です。私はソファーで休みますから」
一枚上手である。というよりも、ハリマたちがこれから寝ずの番に移ろうとしているのに気付いてすらいないふしが、もとい、気付いてなかった。
「そんな、女の子をソファーに寝かせるわけには……」
「こいつを寝かせりゃいいんです!」
勢いに任せて、会話に乗ってしまったハリマとヒカリであった。
「大体……もうよそう、疲れた」
疲れ切った声、ハリマである。
「同感……」
さらに疲れ切った声、ヒカリ。
結局、家にあるベッドが二つしかなかったため、ティニーがベッド。ヒカリがソファー。ハリマは……床である。ちなみにヒカリとハリマは、この部屋が一番暖かい。という理由で同じ部屋である。ハリマは毛布にくるまっただけ、床の冷たさが直接に浸みてくるが、いざというときには一番最初に動くことが可能だ。
気負い込んではみたものの冷静に思い返せば、アスコットは普通に帰宅して何もなく、ティニーにしても初めて会ったときのインパクトがあまりに大きかったが、それ以降何書かせ起きているわけでもなかった。
「実は考え過ぎだったのかもしれない」
という見解に二人とも半分ずつ同意し、交代に休むと言うことで妥協したのだが……勢いこみすぎた気合いに気持ちが昂ぶって寝付かれず、互いに愚痴を言い続けていたという訳である。
いい加減愚痴にも飽きて、そろそろ本気で眠ることにしようか、としたとき、外から何かの音色、弦楽器だろうか、短く、高い音を奏で、それが風に乗って切れ切れに流れて来る。 それにあわせて何か、軽やかな歌詞が流れる。遠すぎて何を言っているのかは分からない。だが、軽やかで楽しげな曲の調子に逆らうかのように、聞く者の胸を、心を締め付ける。
街では、こういう事が深夜に時々起こる。風のない、しんと静まりかえった寒い日には、いつもよりずっと遠くから――汽笛の音や誰かの歌声が届くのだ。
「聞こえてる?」
ヒカリが歌を妨げぬよう、尋ねた。余りに小さなその音は、外よりも微かに温む空気をほとんど震わせず。かろうじてハリマの鼓膜を揺さぶる。ただし、意味を理解するほどには聞こえない。だが姪が何を言おうとしていたかは理解出来る。
「ああ」
やはり、外の冷気に踊る音色に気をつかかいながら、ハリマが答える。
「楽しそうだね」
曲はいよいよテンポを速め、急ぎ歩くように、駆け上がってゆく。
「ああ、だけど、いろんなことを思い出す。辛かったこと……悲しかったこと……そして、家族のこと……」
テンポがすっと、静かな蒼い湖面に波も立てず、沈んでゆく。
「…………」
鼻をすする音がする。こんな夜でもなければ聞こえないほどに、小さな音。
「明日は雪が吹き込むかもな」
窓の外の空気は天壁を灰色のビロードで覆いつくし、闇をも隠してしまう。
「……寒ぐて鼻水が出う」
姪は、自分ではない。失ったものは同じでも、受けた傷が同じとは限らない。
「そうか、風邪をひくなよ」
「……ん」
「もう寝ろ。明日からは忙しくなるぞ」
「分かった」
「明日、俺は街へ出て……今回の件について洗い直してくる」
「え?……」
「落ち着いてみたらな、いくつか気になることがあってな」
風が強くなった。さっきまで聞こえていた曲は、風にちぎれ、断崖を下って行く。
ハリマはさっきの歌を思い出そうとした。だが、自分がふだん口ずさんでいるメロディーに掻き消され、どこかへ追いやられてしまう。それほどに繊細で、抱いたら割れてしまいそうな硝子の乙女。楽しそうに舞い踊り、それを目にした者は涙を抱いて眠る。
だが、悲しみが運ぶのは涙だけではない、別れなくして出会いもないように、悲しみは喜びの双子なのだ。
ヒカリは賢すぎる。もし、そのことを知らなければ、泣き叫び、忘れることで逃げ出せたはずの悲しみに向き合う。何も助けてやれない自分が歯痒かった。
ヒカリの寝息が規則正しいリズムを刻み始める。ふと見れば、ヒカリの毛布が少しずり落ちて、肩がでている。
「おやすみ」
毛布をそっと引き上げてやり、ハリマは自分の寝床に戻ったが、ほんの少し留守にしただけのはずのそこは、まるで何年も放っておかれたように冷えきっていた。
むずかる子供をあやすように、紛いものの月明かりが一瞬、彼の体を過ぎて行く、だが、通り始めた明かりは、横切らぬうちに再び、闇に溶けていった……
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妙に体が重い。これが噂に聞く金縛りというやつなのか、だとすればたいしたこともない。現に手足は比較的自由に動くし。
ハリマは目を覚ましていた。しかし、ここはどこだろう? ……あくびを二回はできる程の間をおいて、初めてハリマは昨日の事を思い出した。しかし、こんな重たい布団があったっけ? どうやら体はまだ寝床を求めているらしい。しかし、もう部屋には光が差し込み、雀が朝を配って回り始めている。思い切ってその布団をはねのけた、と妙に重たい、いや、布団が柔らかいのは当たり前だが、どうも感触が違う。そこに至って初めてハリマは布団と思っていたものの正体を知った。
毛布に絡まったヒカリがやや不可解な向きに体を曲げて眠っている。どうやら、眠っているうちにソファーから落ちて、ヒカリの上に墜落したらしい。
冷静に考えればこの寝相の悪い姪がこんな狭い所で眠れる訳がないのだ。しかし、酒に酔ったときと違い、刀や椅子を振り回さないだけ救いようがあるのだが……。
「……」
ヒカリがゆっくりと瞼を持ち上げる。しかし、それは途中で半開きの状態を保ち、ハリマを見据える。
きっかり2秒後、ハリマの体は宙を舞い、頭から壁に叩きつけられていた。
その音に驚いたティニーが部屋に駆け付けたとき、ハリマは逆さのまま壁にもたれかかっていた。
「……おはようございます」
とりあえず他に言葉の見付からない彼女であった。
「あっ、どうも、おはようございます」
毛布を畳みながら恥ずかしそうなヒカリの声。
「まったく、おじさんて、いつもこうなんです。本当に寝相が悪いったらありゃしない……」
ハリマはなにも言う気がせず。ただ、逆さになって悩むだけであった……。
ここらで半分……