崖の記憶
連休を過ごした山荘からの帰り道、家族を乗せた車は崖下へ転落した。
母と息子は死亡、父は行方不明。主人公と夫だけが重傷で生き残る。
警察は「単独事故」と結論づけたが、主人公にはどうしても拭えない違和感があった。
思い出せないのは、事故か、真実か。
両親が茨城の山を買った。
といっても、頂上まで歩いて登れる程度の、小さな山だった。
一本道の細い林道が、木々の間のみならず、崖の上を這うように続いている。車はすれ違いもままならず、車種によっては通行を諦めざるを得ない。
だが、そんな山の奥に我が家以外の建物はない。
だからこそ、誰とも出会うことなどないと、私たちは安心して車を走らせていた。
くねくねと折れ曲がる難所がいくつかあり、特に道幅が極端に狭まる箇所では、運転する者に一定の勘と度胸が求められた。
それでも、この山荘に来るたび、私たちはその道を「我が家の函谷関」と呼んで笑い合っていた。
連休を利用して、家族五人で山荘へやってきた。
私と夫、息子、そして両親――初日は海へ出かけ、二日目は山で竹の子を掘った。三日目は飯ごうで米を炊き、焚き火を囲んで笑った。
久しぶりの、穏やかで満ち足りた時間だった。
そして、帰宅の日。夫が運転する車の後部座席で、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。
息子は隣でうとうとと眠り始めている。山を下る道は、朝の光の中でさえ薄暗く、木々が道を覆うように枝を伸ばしていた。
曲がりくねった急なカーブに差し掛かったところで、夫が少しスピードを落とした。
その瞬間、後方から何かが、静かに、しかし確実に近づいてくる気配を感じた。
次の瞬間、強い衝撃が車体を襲った。世界が横に傾いた。
視界が回転し、木々と空と地面がめちゃくちゃに混じり合う。
悲鳴を上げる間もなく、車はガードレールのない崖を越え、斜面を転がり落ちていった。
激しい衝撃の後、耳鳴りと痛みだけが残った。息子は車から投げ出され、動かなくなっていた。
母は助手席で、首を不自然な角度に曲げて目を閉じていた。
夫は血だらけで、苦しげに息をしていたが、意識はあった。私は両足に激痛を覚えながらも、なんとか夫の手を握った。
父は…どこにもいなかった。
救急隊が到着したのは、それからかなり時間が経ってからだったという。
私と夫は重傷のまま病院に運ばれた。母はその場で死亡が確認され、息子もまた、助からなかった。父は行方不明のままだった。
警察は「単独事故」と結論づけた。
崖からの転落、運転者の居眠りやハンドル操作のミス。山道の危険性を考えれば、あり得ない話ではないと――
だが、私は時折、ふと思い出す。あの衝撃の直前、後ろから近づいてきた“何か”の気配を――
夫がスピードを落とした、まさにその瞬間に、まるで狙い澄ましたようにぶつかってきた、あの不自然なタイミングを。
そして、なぜ父だけが、あの車の中にも、崖の下にも、どこにも見つからなかったのかを――
私は事故のショックで、何か大きなことを忘れている気がしてならない。
記憶の端に、黒い靄のようなものがへばりついている。どうしても掴めない、決定的な何か。
夫が目覚めたとき、この違和感の謎が解けるに違いない。そう信じて、私は毎日、病室のベッドの傍らに座り続けている。
夫が意識を取り戻したのは、事故から十日目の夜だった。
白く乾いた唇がわずかに動き、掠れた声で私の名を呼んだ。私は慌てて身を乗り出し、夫の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫…? 痛くない?」
夫はゆっくりと瞬きをし、焦点の定まらない目で天井を見つめた。
しばらく沈黙が続き、やがて彼は、かすかに首を横に振った。
「…お前、なんでここにいるんだ?」
その言葉に、私は一瞬、息が止まった。
「え…?」
夫の目が、ゆっくりと私に向けられる。
そこに浮かんでいたのは、驚きと、戸惑いと、そして明らかな恐怖だった。
「お前は…あの車には、乗っていなかったはずだ。俺と息子と、義母さんの三人で先に出て…お前と義父さんは、後から別の車で下山するって…」
夫の声は震えていた。
「なのに、どうして…お前が、俺の隣に…?」
その瞬間、私の脳裏に、忘れていたはずの記憶が、冷たい波のように一気に押し寄せてきた。――そうだ。
私と父は、二台目の車で後から下山するはずだった。
夫が運転する先の車に、夫と息子が乗っていた。
なのに、私はどうして、夫の車の助手席に座っていたのだろう。夫が、怯えた目で私を見つめながら、掠れた声で続けた。
「…それに、義父さん…お前のお父さん、お前の運転する助手席にいたはずだ。
お前の運転するあの車は、あの曲がり角で急に加速して…俺たちの車を突き落としたんだ…」
夫の言葉はそこで途切れた。
私は静かに微笑んだ。そう。やっと、全部思い出した。
私はあの瞬間、苛立ちのままハンドルを切り、夫たちの車を崖へ突き落としてしまった。
父はすぐそばにいた。娘である私をかばうため、父は慌てて私を追突された車に移し、自分は私が乗っていた車でその場から逃走した。
父は自ら「あて逃げの犯人」という罪を背負って、現場から立ち去ったのだ。
私はその後、ショックのあまり記憶をねじ曲げ、自分が被害者であるかのように思い込んでいた。
──父は、最初から私の横にいた。そして、私を守るために、消えたのだ。
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