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崖の記憶

作者: をはち
掲載日:2026/06/30

連休を過ごした山荘からの帰り道、家族を乗せた車は崖下へ転落した。

母と息子は死亡、父は行方不明。主人公と夫だけが重傷で生き残る。


警察は「単独事故」と結論づけたが、主人公にはどうしても拭えない違和感があった。


思い出せないのは、事故か、真実か。





両親が茨城の山を買った。


といっても、頂上まで歩いて登れる程度の、小さな山だった。


一本道の細い林道が、木々の間のみならず、崖の上を這うように続いている。車はすれ違いもままならず、車種によっては通行を諦めざるを得ない。


だが、そんな山の奥に我が家以外の建物はない。


だからこそ、誰とも出会うことなどないと、私たちは安心して車を走らせていた。


くねくねと折れ曲がる難所がいくつかあり、特に道幅が極端に狭まる箇所では、運転する者に一定の勘と度胸が求められた。


それでも、この山荘に来るたび、私たちはその道を「我が家の函谷関」と呼んで笑い合っていた。


連休を利用して、家族五人で山荘へやってきた。


私と夫、息子、そして両親――初日は海へ出かけ、二日目は山で竹の子を掘った。三日目は飯ごうで米を炊き、焚き火を囲んで笑った。


久しぶりの、穏やかで満ち足りた時間だった。


そして、帰宅の日。夫が運転する車の後部座席で、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。


息子は隣でうとうとと眠り始めている。山を下る道は、朝の光の中でさえ薄暗く、木々が道を覆うように枝を伸ばしていた。


曲がりくねった急なカーブに差し掛かったところで、夫が少しスピードを落とした。


その瞬間、後方から何かが、静かに、しかし確実に近づいてくる気配を感じた。


次の瞬間、強い衝撃が車体を襲った。世界が横に傾いた。


視界が回転し、木々と空と地面がめちゃくちゃに混じり合う。


悲鳴を上げる間もなく、車はガードレールのない崖を越え、斜面を転がり落ちていった。


激しい衝撃の後、耳鳴りと痛みだけが残った。息子は車から投げ出され、動かなくなっていた。


母は助手席で、首を不自然な角度に曲げて目を閉じていた。


夫は血だらけで、苦しげに息をしていたが、意識はあった。私は両足に激痛を覚えながらも、なんとか夫の手を握った。


父は…どこにもいなかった。


救急隊が到着したのは、それからかなり時間が経ってからだったという。


私と夫は重傷のまま病院に運ばれた。母はその場で死亡が確認され、息子もまた、助からなかった。父は行方不明のままだった。


警察は「単独事故」と結論づけた。


崖からの転落、運転者の居眠りやハンドル操作のミス。山道の危険性を考えれば、あり得ない話ではないと――


だが、私は時折、ふと思い出す。あの衝撃の直前、後ろから近づいてきた“何か”の気配を――


夫がスピードを落とした、まさにその瞬間に、まるで狙い澄ましたようにぶつかってきた、あの不自然なタイミングを。


そして、なぜ父だけが、あの車の中にも、崖の下にも、どこにも見つからなかったのかを――


私は事故のショックで、何か大きなことを忘れている気がしてならない。


記憶の端に、黒い靄のようなものがへばりついている。どうしても掴めない、決定的な何か。


夫が目覚めたとき、この違和感の謎が解けるに違いない。そう信じて、私は毎日、病室のベッドの傍らに座り続けている。


夫が意識を取り戻したのは、事故から十日目の夜だった。


白く乾いた唇がわずかに動き、掠れた声で私の名を呼んだ。私は慌てて身を乗り出し、夫の手に自分の手を重ねた。


「大丈夫…? 痛くない?」


夫はゆっくりと瞬きをし、焦点の定まらない目で天井を見つめた。


しばらく沈黙が続き、やがて彼は、かすかに首を横に振った。


「…お前、なんでここにいるんだ?」


その言葉に、私は一瞬、息が止まった。


「え…?」


夫の目が、ゆっくりと私に向けられる。


そこに浮かんでいたのは、驚きと、戸惑いと、そして明らかな恐怖だった。


「お前は…あの車には、乗っていなかったはずだ。俺と息子と、義母さんの三人で先に出て…お前と義父さんは、後から別の車で下山するって…」


夫の声は震えていた。


「なのに、どうして…お前が、俺の隣に…?」


その瞬間、私の脳裏に、忘れていたはずの記憶が、冷たい波のように一気に押し寄せてきた。――そうだ。


私と父は、二台目の車で後から下山するはずだった。


夫が運転する先の車に、夫と息子が乗っていた。


なのに、私はどうして、夫の車の助手席に座っていたのだろう。夫が、怯えた目で私を見つめながら、掠れた声で続けた。


「…それに、義父さん…お前のお父さん、お前の運転する助手席にいたはずだ。


お前の運転するあの車は、あの曲がり角で急に加速して…俺たちの車を突き落としたんだ…」


夫の言葉はそこで途切れた。


私は静かに微笑んだ。そう。やっと、全部思い出した。


私はあの瞬間、苛立ちのままハンドルを切り、夫たちの車を崖へ突き落としてしまった。


父はすぐそばにいた。娘である私をかばうため、父は慌てて私を追突された車に移し、自分は私が乗っていた車でその場から逃走した。


父は自ら「あて逃げの犯人」という罪を背負って、現場から立ち去ったのだ。


私はその後、ショックのあまり記憶をねじ曲げ、自分が被害者であるかのように思い込んでいた。


──父は、最初から私の横にいた。そして、私を守るために、消えたのだ。

読んで頂き有難う御座います。

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