表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

作者: nosu24
掲載日:2026/06/21

第一章 犬


別居中の妻は、正義感の強い税務署員だった。


忙しい仕事の合間にも、犬に話しかけていた。


「税金は社会を支えるために必要なの」

「道路も学校も病院も税金でできているの」

「だから脱税はいけないことなのよ」


犬が理解していたとは思えない。


だが妻は本気だった。


犬は黙って妻の話を聞いていた。


ある日の散歩中、二人は大手上場企業の本社前を通った。


その時だった。


滅多に吠えない犬が突然、建物に向かって吠え始めた。


一度だけではない。


何度も。


警備員が怪訝そうな顔をするほどだった。


数日後、その企業の大規模な脱税が発覚した。


ニュース番組は連日その話題で持ちきりだった。


一か月近く報道は続いた。


しかし妻は特に何も思わなかったらしい。


偶然だと考えた。


次に犬が吠えたのは、町の酒屋を営む夫婦だった。


散歩中、犬は二人を見るなり激しく吠えた。


夫婦は嫌な顔をした。


妻は犬をなだめ、そのまま帰宅した。


翌日。


税務署に匿名の情報提供が入った。


酒屋の帳簿に不自然な点があるという内容だった。


妻は調査資料を見ながら、ふと犬のことを思い出した。


だがそんな馬鹿げた話があるはずがない。


そう自分に言い聞かせた。


それでも疑念は残った。


後日、妻は企業のオフィスビルが立ち並ぶ街へ向かった。


散歩のためだった。


もちろん本当の目的は別にある。


犬が何に反応するのか見たかったのだ。


そして犬は吠えた。


ある会社の前で。


迷いなく。


まるで標的を見つけたように。


妻は散歩を切り上げて帰宅した。


その会社の公開資料を調べた。


決算書を読む。


有価証券報告書を読む。


すると不可解な数字が見つかった。


利益率。


海外子会社との取引。


経費計上。


どれも決定的ではない。


しかし長年数字を見続けた妻には違和感があった。


調査は始まった。


半年後、その会社の脱税が発覚した。


その夜、妻は手記にこう書いている。


うちの犬は、脱税している人にだけ吠える犬だ。


その日から妻は犬を連れて全国を歩いた。


犬が吠える。


調査する。


脱税が見つかる。


また犬が吠える。


やがて大企業ですら犬を恐れるようになった。


「あの税務署員が犬を連れて来た」


その噂だけで株価が下がる企業も現れた。


脱税摘発は相次いだ。


市場は混乱した。


新聞はこの現象を、


脱税ショック


と呼んだ。


日経平均株価は歴史的な下落を記録した。


犬は何も知らない顔で尻尾を振っていた。



第二章 妻


犬が脱税している人にだけ吠えるようになってから二年が経った。


妻は有名人になっていた。


税務署員としてではない。


犬の飼い主として。


多くの人が感謝した。


だが同じ数だけ恨む者もいた。


酒屋の夫婦もその一人だった。


妻が殺されたのは秋だった。


いつもの散歩中だった。


人気の少ない河川敷。


夫婦は待ち伏せしていた。


背後からビール瓶で殴った。


妻が倒れる。


さらに割れた瓶で首を切った。


翡翠は吠えた。


何度も。


何度も。


だが夫婦には吠えることしかできなかった。


通報したのは近くを走っていたランナーだった。


私が病院へ着いた頃には全て終わっていた。


医師は静かに首を横に振った。


心臓はもう動いていなかった。


私の元へ帰ってきたのは、


妻の血で汚れた犬だけだった。


私は犬を見るたびに腹が立った。


守れなかったからだ。


主人を。


たった一人の主人を。


引き取りを拒否しようとさえ思った。


だが結局、連れて帰った。


妻の遺品整理をしている時だった。


一冊の手記が見つかった。


最後のページ近くに、こう書かれていた。


翡翠は脱税していない人には吠えられない。


意味が分からなかった。


何度読んでも分からなかった。


だが、その文章だけが妙に頭に残った。



第三章 翡翠


私は小さなカフェを経営している。


妻が死んでから一年。


翡翠は昼間、店にいるようになった。


店の入口近くがお気に入りだ。


客は犬目当てで来る。


写真を撮る。


撫でる。


コーヒーを飲む。


常連も増えた。


売上も少し伸びた。


不思議な犬だった。


たまに女子高生に向かって吠えることがある。


私は深く考えない。


何か後ろめたいことでもあるのだろう。


私は税務署員ではない。


正義の味方でもない。


ただのカフェの店主だ。


だから傍観する。


ある雨の日。


私は妻の手記を読み返していた。


その時、初めて犬の名前を知った。


翡翠。


ヒスイ。


妻は最後まで名前を呼んでいたらしい。


私は本を閉じた。


顔を上げる。


翡翠は窓の外を見ていた。


雨の中、一人の男が店の前を通る。


その瞬間。


翡翠が立ち上がった。


毛を逆立てる。


そして激しく吠えた。


私はため息をついた。


「また脱税か」


だが今回は違った。


男は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。


そして笑った。


翡翠は今まで見たことがないほど激しく吠えていた。


男は傘を閉じた。


静かに店へ入ってくる。


その目を見た瞬間、私は理解した。


翡翠が吠えている理由は、脱税だけではない。


妻は何かを知らなかったのだ。


男は席に座った。


濡れたコートから一枚の写真を取り出す。


そこには若い頃の妻が写っていた。


男は言った。


「ようやく見つけたよ。その犬を」


翡翠は唸り続けていた。


まるで、世界で最も危険な何かを前にしたように。


私は初めて思った。


この犬は本当に何者なのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ