第7話 霞亭の女将と街
霞亭の中は、外観より広かった。
天井が低く、太い梁が横に走り、壁の燭台が橙色の光を柔らかく落としている。
テーブルが四つ、椅子が素朴な木製で、どれも長年使い込まれた艶がある。
昼時を少し過ぎた時間で、客は二人だけ――
隅のテーブルで黙々とスープを啜る老人と、窓際でパイプをくわえた中年の行商人らしい男。
カウンターの奥から、どすんと重い足音がして、女将が現れた。
四十代半ばか、五十に届くかという年齢。
背が高く、肩幅があり、しかし体型に締まりがある。
腕まくりしたブラウスの袖から、鍛えられた腕が覗いている。
顔は日焼けして、目尻に深い笑い皺があるが、目そのものは鋭い。
商売人の目だ。人を一瞬で値踏みする、しかし嫌味のない目。
エプロンで手を拭きながら、リアナを頭のてっぺんから足元まで見た。
「泊まり? 食事?」
「両方よ」
「剣を帯びた旅の女か。最近は珍しいかもね」
「そう?」
「先月も一人は来たけど。依頼で北の山脈近くまで行ったと言ってたが……
まあ、あちらは物騒になってきてるからね」
女将はあっさりと言い、「座りな」と顎で示した。
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リアナが窓に近いテーブルに腰を落ち着けると、女将がすぐに水を持ってきた。
「今日の食事は、羊の煮込みとライ麦パン、それから根菜のスープ。あとは焼き林檎が今日だけある」
「全部もらえる?」
「食べられるの?」
「朝からパンひとつしか食べてないのよ」
女将はリアナを一度見て、口の端を上げた。
「じゃあ、多めにしておくよ」
料理が運ばれるまでの間、リアナは水を飲みながら店内を見渡した。
壁に古い地図が貼ってある。
エルドリア周辺の地形図で、北の山脈と南の農村地帯、そして王都への街道が手書きで記されている。
かなり古い。端が茶色く変色して、破れかけている。
女将が羊の煮込みを持って戻ってきたとき、リアナは自然な口調で聞いた。
「ねえ、この宿は長いの?」
「二十三年。この建物ごと父親から引き継いだ」
「じゃあ、この町のことは全部知ってる?」
「全部ではないね」
女将はテーブルにどかりとスープを置いた。
「でも、だいたいは知ってるね」
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羊の煮込みは、見た目より繊細な味がした。
ほろほろと崩れる肉に、ハーブの香りが染み込んでいる。
スープは根菜の甘みが深く、体の芯から温まる。
リアナは一口食べて、目を細めた。
本当に美味い。
女将はカウンターを拭きながら、話し相手になるとも断るとも言わず、ただそこにいた。
この距離感は心地よい、とリアナは思った。
「最近、町はどう?」
リアナはパンを千切りながら聞いた。
「どう、とは?」
「なんとなく。活気があるのか、沈んでるのか」
女将の手が一瞬止まり、また動く。
「沈んでる、と言えば沈んでるね。三年前に今の領主ヴァルド様が継いでから、税が上がった。倉庫の管理が厳しくなって、商人が出入りしにくくなった。
昔はもう少し、風通しが良かったんだけど」
「エリオット様が代官代理を務めてるって聞いたわ」
「そうだね」
女将の声が、わずかに変化した。
嫌悪でも崇拝でもない、もっと複雑な色だ。
「悪人ではないとは思うよ。頭も良い。
でも、あの人は……民が見えていないんじゃなくて、見えてるのに別の棚に入れてる感じがする」
「別の棚?」
「守るべき駒、使うべき駒、みたいな。道具であって人間とは思ってない。
そういう感じ」
リアナはスープを啜りながら、その言葉を咀嚼した。
案外、的を射てるかもしれない。
でも、今日は少し違う顔を見た気もする。
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焼き林檎が運ばれてきた。
蜂蜜が垂れて、シナモンの香りが湯気とともに立ち上がる。
甘い匂いが、スープと肉の香りの残る空気に混じり込んで、なんとも贅沢な気分になる。
「美味しい」
リアナは素直に言った。
「ありがとう」
女将も素直に返した。
しばらく沈黙が続く。
悪くない沈黙だ。
やがて女将が、カウンターに肘をついてリアナを眺めながら言った。
「あんた、朝の広場の騒ぎにいたろ。ティオのことで」
「……話が早いのね、この町」
「小さい町だからね。で、代官代理殿の馬車で連れていかれて、それで、ぴんしゃんして帰ってきた」
「わたし、ぴんしゃんしてる?」
リアナは笑いながら言った。
「してるね」
女将は笑った。
顔の皺が全部、笑顔のためにある皺だとわかる笑い方だ。
「ティオのことは、どうなったんだい」
「姉には薬が来るはずよ。エリオット様が手配するって言ってた」
女将の眉が、上がった。
「あのエリオット様が、自分から?」
「レイド家の名にかけて、って言ってたから。たぶん来るわ」
女将はしばらく黙った。
窓から夕方の光が差し込んで、テーブルの上に長い影を落としている。
「……あんた、名前は」
「リアナ」
「リアナ。わたしはマーサ」
女将――マーサは短く言い、カウンターの下から小さな瓶を取り出してテーブルに置いた。
琥珀色の液体が入っている。
「これは宿代には入ってない。ただの気まぐれだよ」
「お酒?」
「果実酒。エルドリア周辺でしか作ってない。飲んでみな」
リアナはグラスに注いで、一口含んだ。
甘く、しかしすっきりとした後味。
どこかに、ほのかな苦みがある。単純じゃない味だ。
「美味しい」
「でしょうよ」
マーサは満足げに頷き、自分のグラスにも注いで、向かいの椅子を引いた。
「少し話さないか、リアナ。」
外で風が吹き、霞亭の看板が軽く揺れた。
夕暮れのエルドリアが、窓の向こうで橙色に染まり始めていた。
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果実酒は、二杯目になると少し顔が温かくなる程度の強さだった。
マーサは向かいの椅子に腰を落ち着け、自分のグラスをゆっくりと傾けている。
ただ、そこにいる。
リアナはグラスを両手で包みながら、なんでもない風に口を開いた。
「三年前に領主が変わった、って言ってたわね」
「ああ」
「どんな感じだったの、その頃」
マーサは少し間を置いた。
思い出しているのか、どこまで話すか測っているのか。
窓の外の夕暮れが、じわじわと深い橙色になっていく。
燭台の炎が揺れ、テーブルの上に二人の影がゆらめいた。
「急だったよ」
マーサは言った。
「前の領主様、ベルハルト様は、まあ、平凡な人だった。良くも悪くも。
税は重くなかったし、倉庫は街の皆に開けてくれることもあった。それほど大した人物でもなかったけれど、余計なこともしない人だった」
「それが三年前に変わった」
「病でね。あっという間だったよ。春に倒れて、夏には逝った」
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マーサはグラスを置き、エプロンの端を軽く折り畳んだ。
癖なのか、手が落ち着かないときにやる動作なのか。
「ベルハルト様には跡継ぎがいなくてね。末の弟君のヴァルド様が領主の座を引き継いだ。それ自体は、まあ、自然な話だよ」
「ヴァルド様が、今の領主」
「そう。エリオット様のお父上はヴァルド様の兄君でね、六年前に病で亡くなってる。それであの方はヴァルド様の甥として、この町の代官代理に送り込まれてきた。正式な代官はまだ任命されていないけど、実質的にはエリオット様が仕切ってる形だね」
「代官代理か。宙ぶらりんな立場ね」
「そうだね。正式じゃないから、何かあれば領主様の意向ひとつでひっくり返る。
でも現場は動かさなきゃいけない」
マーサは果実酒を一口含んだ。
「エリオット様が厄介なのは、その立場のせいだけじゃないけどね」
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「今の領主、ヴァルド様はどんな人なの?」
リアナはなんでもなさそうに聞いた。
マーサの表情が、ほんの少し変わった。
言葉を選んでいる顔だ。
「……贅沢が、お好きな方でね」
「贅沢?」
「宴会、狩り、珍しい食材や酒の取り寄せ。屋敷の改築も三年で二度やった。
それ自体は、まあ、貴族の話だから。でもそのぶん税が上がって、倉庫の管理が厳しくなって、町に回るものが減った」
マーサの声には棘がない。
しかし淡々としているぶん、むしろ重い。
「エリオット様は、その叔父様の意向を代理で執行してる。倉庫を締めろと言われれば締める。宴会の食材を確保しろと言われれば確保する」
「殿下自身が望んでるわけじゃなくて?」
「どこまでが殿下の意思で、どこからが叔父様の命令か……それは、わたしにはわからないよ」
マーサは静かにそう言って、グラスをテーブルに置いた。
エリオットが「良いものを楽しむのは貴族の務め」と言っていた言葉が、リアナの中で少し違う色を帯び始めた。
信念なのか、言い訳なのか、それとも言い聞かせているのか。
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「ガロン隊長は、ずっとここにいるの?」
リアナは自然な流れで、話題を動かした。
マーサの表情が、微かに柔らかくなった。
「あの人は十五年よ。ベルハルト様の時代から」
「長いわね」
「長い。ベルハルト様には信頼されてた。あの頃のガロンは、もう少し笑ってたよ」
「今は笑わないの?」
「笑わないわけじゃないけど……ヴァルド様が領主になってから、あの人は板挟みになってる。エリオット様の命令に従いながら、町の人間も見捨てたくない。
どちらも本気なんだろうけど、両立できないことが増えてきた」
「今日のティオの件も?」
「そうだね」
マーサはあっさり言った。
「あの人、ティオの父親とは古い仲だったから。わたしは見てたよ、
広場の端から。ガロンの顔、真っ青だった」
リアナはグラスを傾けながら、今日のガロンの横顔を思い出した。
四角い顎。古い傷跡。重い足音。そして霞亭の前で、前を向いたまま言った言葉。
今日、お前が来なかったら、俺はどうしていたか……わからない。
「ガロンって、不器用な人ね」
リアナは独り言のように言った。
マーサは笑った。
さっきより少し、温かい笑い方だ。
「本当に不器用だよ。町の人間には怖がられて、殿下には使い勝手のいい駒と思われて、でも誰かが本当に困ってたら見て見ぬふりもできない。
おまけに、ヴァルド様の贅沢の皺寄せが町に来るたびに、自分が矢面に立たされる」
「……損な性分だわ」
「だからあの人、十五年ここを離れられないんだよ。離れたら、この街は歯止めが利かなくなるって、たぶん自分でもわかってる」
リアナはその言葉を、静かに飲み込んだ。
果実酒のほのかな苦みと一緒に。
やがてマーサが立ち上がり、グラスを集めながら言った。
「部屋は二階の突き当たりだよ。窓から町が見える。
湯をあとで沸かしてもっていくから」
「ありがとう、マーサ」
「どういたしまして、リアナ」
マーサはカウンターに戻りながら、背中を向けたまま付け加えた。
「朝飯は、朝の鐘まで。遅れたら片付ける」
「起きるわよ」
「そういう顔はしてないけどね」
リアナは笑いそうになって、こらえた。
二階へ上がる木の階段は、一段ごとに違う音がした。
古い家の、愛嬌だ。
部屋に入ると、窓から黄昏時のエルドリアが見えた。
広場の燭台が点り始め、石畳がぼんやりと光っている。
遠くに衛兵の詰所が見え、小さな人影が門のそばに立っているのが見えた。
ガロンかどうかは、わからない。
でも、なんとなく、ガロンだと思った。
リアナはブーツを脱いで、ベッドに倒れ込んだ。
羊の煮込みと果実酒の温かさが、体の中にまだ残っている。
今日は長い一日だった。
エリオットの青い瞳。
ガロンの不器用な背中。
ティオの震える手。
マーサの果実酒。
そしてヴァルド、という名前。
まだ顔も知らない、しかしこの町の全部に影を落としている人間。
やりたいこと、守りたいもの、夢を探す旅の途中。
旅を始めて半年、まだ答えは見つかっていない。
でも今日は、少しだけ、悪くない一日だったと思う。




