第6話 広場のざわめきとガロン隊長
馬車は朝に騒ぎが起きた広場と、同じ場所で止まった。
車輪が石畳に軋り、馬が鼻を鳴らす。
朝より陽は高く、霧はすっかり晴れて、広場に陽光が降り注いでいる。
それでも空気には、まだ朝の湿り気が残っていた。
扉が開き、バルドが先に降りてリアナに手を差し伸べた。
リアナは軽く笑って、自分でひらりと飛び降りた。
黒いレースアップのレザーパンツが陽光を受け、ブーツが石畳を軽やかに叩く。
振り返り、バルドとレオンに明るく手を振る。
「ありがとう、二人とも。今度のおしゃべり会ではあなた達もお話しましょうね」
バルドが深く頭を下げた。
レオンは兜の下から視線をわずかに上げ、小さく頷く。
馬車が車輪を回し、蹄の音を残して広場を去っていく。
リアナはマントを軽く払い、広場を見渡した。
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そして――
広場全体が、じわじわとざわめき始めた。
野菜を並べていた老婆が手を止め、口を押さえる。
パン屋の主人が目を丸くする。
子供が母親のスカートを引っ張る。
ささやきが波のように広がっていく。
「あの子……領主の甥の馬車から降りてきたぞ」
「朝の泥棒騒ぎで、貴族様に絡まれてたのに……生きて帰ってきた?」
「エリオット様の別邸に連れていかれたんじゃ……」
視線が一斉にリアナに集まる。
好奇、畏怖、疑念。
リアナはそれを全部受け取りながら、ポーチから朝の残りのパンを取り出してかじった。
噛む音が、静まりかえった広場では妙に鮮明に響く。
まるで何事もなかったかのようにパンをかじる、とりあえずそれが一番だと思った。
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人ごみをかき分けて、重い足音が近づいてくる。
ガロンだ。
灰色の短髪に頰の古い傷跡、鎖帷子の肩が張っている。
目がリアナを捉えた。
複雑な色の目だ。
驚きと、苛立ちと、そして何か別のもの――
微かな安堵か、それとも心配か。
「お前……無事だったのか」
声は低く、抑揚が少ない。
周囲のざわめきが引いて、皆が息を呑む。
リアナはパンの最後の一口を飲み込んだ。
「ええ、無事よ。お茶飲んで、ちょっと剣振って、帰ってきただけ」
ガロンの眉が寄った。
一歩近づく。
「エリオット様の馬車に乗って……それで…『だけ』だと?」
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「それ『だけ』よ」
リアナは繰り返した。
嘘じゃない。
ただ、全部は言っていない。
ガロンは数拍、リアナを見た。
値踏みするような目じゃない。
何かを確かめようとしている目だ。
「あの方は……何と言っていた」
「ティオの姉の薬を手配するって」
ガロンの目が、驚きに変化した。
「なんだって…本当なのか」
「レイド家の名にかけて、って言ってたわ。嘘をつくような人には見えなかった。
変なプライドは本物みたいだから」
ガロンはしばらく口を閉じていた。
広場のざわめきが少しずつ戻ってくる。
パン屋の主人が咳払いし、野菜売りの老婆が再び手を動かし始めた。
「お前は……一体、何者なんだ」
ガロンが低く言った。
問いかけというより、独り言に近い。
リアナは肩をすくめた。
「わたしはリアナ。ただの旅人よ。やりたいことを探してる途中の、ただの旅人」
広場の陽光が二人の影を石畳に落とした。
遠くで、エルドリアの鐘がゆっくりと鳴り始めた。
守護神への、夕方の祈りの鐘だ。
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リアナはガロンの問いかけを軽く流し、話題を変えた。
「それよりさ」
「それより?」
「いい宿、ない? 今夜泊まれるところ。
清潔で、ご飯が美味しくて、変な虫が出ないところ」
ガロンは一拍、完全に間が抜けた顔をした。
さっきまで代官代理の馬車で帰ってきた謎の旅人として町中のざわめきを背負っていた女が、いま宿を聞いてきている。
しかも当たり前のように、衛兵隊長に向かって。
ガロンの口がわずかに開き、閉じた。
周囲の商人たちが、興味深そうに聞き耳を立てているのが気配でわかる。
「……お前は」
「何?」
「本当に、ただの旅人なのか」
「だから、ただの旅人だって言ったじゃない」
リアナはポーチの紐を締め直しながら、至極まじめな顔で繰り返した。
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ガロンは短く息を吐いた。
呆れているのか、笑いを堪えているのか、その境界線が曖昧な顔だ。
四角い顎が一度動き、太い腕が渋々ながら広場の奥を示す。
「……『霞亭』だ。広場を抜けて、北の通りを少し入ったところにある」
「霞亭」
「女将の腕はいい。飯は量も多い。建物は古いが、清潔にはしている」
「虫は?」
「……出ない」
「完璧じゃない」
リアナは満足げに頷いた。
ガロンが続ける。
「料金はただの旅宿よりは少しかかるかもしれんぞ」
「朝からいろいろあったし、今日くらい奮発するわ」
ガロンの眉が片方、かすかに上がった。
何かを考えるような表情をしてから、リアナに言った。
「案内が、必要か」
「え、してくれるの?」
「……どうせ俺も、北の詰所に用がある」
「じゃあお願いしようかな」
リアナはあっさり言い、ガロンの隣に並んで歩き出した。
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北の通りは広場より細く、石畳が少し古い。
両側に民家が並び、洗濯物が軒から下がって風に揺れている。
子供が路地から顔を出し、ガロンを見て、慌てて引っ込んだ。
「怖がられてるわね」
「衛兵とは、そういうもんだ」
「それでいいと思ってるの?」
「……余計なことを聞くな」
ガロンの歩みは重いが、速い。
背筋が伸びて、視線が常に周囲を流している。
体に染み付いた習慣だ。
この男は、街を歩きながらも仕事をしている。
リアナは隣を歩きながら、横目でその横顔を眺めた。
頬の傷跡は古い。
少なくとも十年以上前のものだ。
若い頃に、相当な場数を踏んでいる。
しかし今は、法の外に出ない。
命令の枠の中で、誠実に動いている。
損な役回りだな、とリアナは思った。
「ねえ、ガロン」
「なんだ」
「今日、ありがとう」
ガロンが歩みを止めずに顔だけ向けた。
「何に対してだ」
「ティオの、話を聞こうとしてくれたこと」
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ガロンは黙った。
二人の足音だけが、しばらく石畳に続いた。
やがて北の通りを折れたところに、小さな看板が見えた。
古びた木板に、霞がかった月の絵が描いてある。
ガロンが木板を指さした。
「霞亭だ」
「なかなか風情があるじゃない」
引き戸の前で、ガロンが立ち止まった。
リアナも止まる。
隊長は前を向いたまま、低い声で言った。
「……ティオは、知ってる子だ。父親は俺の古い知り合いだった。
三年前に病で死んだ」
「…そう」
「法は法だ。それは変わらない」
「わかってる」
「だが」
ガロンは一拍置いた。
「今日、お前が来なかったら、俺はどうしていたのか……わからない」
リアナは答えなかった。
答える必要がないと思ったから。
「案内ありがと。またね」
とだけ言い、引き戸に手をかけた。
木の扉が引かれると、温かい空気と、煮込み料理の香りが流れ出てきた。
「……ゆっくり休め」
ガロンがそれだけ言い、背を向けて歩き去った。
重い足音が、石畳の上で遠ざかっていく。
リアナは少しだけその背中を見送り、それから霞亭の中へ入った。
玉ねぎと肉の、豊かな匂いだ。
胃が鳴りそうになるのを、リアナはぎりぎりで堪えた。




