第3話 肝っ玉の挨拶とティータイム
馬車の中は、想像より狭かった。
赤いビロードの座席は柔らかく、膝が沈むほどだ。
だが左右に護衛が一人ずつ張り付いていると、その柔らかさは少しも慰めにならない。
車輪が石畳を軋ませ、馬車が動き出す。
低い振動が背骨に伝わり、馬具の金属がカチャリと鳴る。
向かいの席にエリオットが座り、長い脚を組んでリアナを観察している。
陽光が細い窓から差し込み、彼の金髪の輪郭をなぞる。
青い瞳は静かだが、底に鋭い光がある。
右の護衛は無骨な体躯で、兜の下から見える目は岩のように動かない。
左の護衛は細身だが、指が剣の柄から一瞬も離れていない。
密室だ。逃げ場がない。
リアナはそれを確認した上で、深く息を吸った。
呼吸を整えると、緊張が静かに体の外へ流れていく。
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「ねえ、みんな」
リアナは明るい声で切り出した。
左右の護衛が微かに体を硬くする。
エリオットの片眉が上がる。
「せっかくの馬車旅なんだから、自己紹介くらいしてもいいよね?」
沈黙。
「……肝が据わっているな」
エリオットが言った。
「続けろ」
リアナはマントを整え、背筋を伸ばす。
「わたし、リアナ。二十三歳。元傭兵で、今は旅の途中。
剣はそこそこ使えるけど難しい話は苦手。でも面白い話ならいくらでも付き合うわ」
右の護衛に顔を向け、にこりとした。
「そっちの騎士さん、名前は? ずっと黙ってると怖いんだけど」
護衛は視線を逸らしかけ、しかし低い声で答えた。
「……バルド。護衛副長だ」
「じゃあそっちは」
今度は左へ。
「……レオン」
「よかった、二人ともちゃんと声出るじゃない」
リアナはエリオットに向き直った。
「で、貴族様は? 名前はもう知ってるけど、
ちゃんと自己紹介してくれたら嬉しいな。美味しいお茶をごちそうしてくれる相手の名前は、ちゃんと覚えておきたいし」
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エリオットはくすりと笑い、手を胸に当て、わずかに頭を下げる仕草をした。
貴族らしい、洗練された動作だ。
「エリオット・ヴァン・レイド。
現領主ヴァルドの甥にして、エルドリアの代官代理を務めている。
剣の腕は……あなたほどではないかもしれないが、自信はある。
退屈はさせないつもりだ」
「なかなか素直じゃない」
「君はなかなか変わっているな」
リアナは座席に少し体を傾け、左右を見た。
バルドとレオンがまだ張り付いている。
「それでさ、この状況ちょっと窮屈なんだけど。わたし、逃げないから。
スペースもらえない?」
バルドとレオンが同時にエリオットを見る。
エリオットは軽く手を振った。
「少し空けてやれ。逃げたとしても……もっと面白くなるだけだ」
二人が無言で体を離す。リアナは大きく息を吐いた。
「やっぱり息苦しいと、紅茶も美味しくないわよね」
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馬車が町はずれに差し掛かり、木々の影が窓を覆い始める。
葉擦れの音が増し、鳥のさえずりが遠くに聞こえた。
エリオットは頬杖をつき、リアナをじっと見た。
「君は本当に面白い。私の前に現れる平民達は皆、
震えるか、媚びるか、逃げるかだ。私の目を見据えて自己紹介から始める者は、
初めてだ」
「無理やりは嫌いって言ったでしょ」
「そうだな」
「ちゃんと話せる距離で話したいだけ。
剣を抜くにしても、ちゃんと知り合ってからの方がいいじゃない」
「命をかける相手の名前くらい、知っておくべきだと?」
「そういうこと」
エリオットの瞳が細くなった。
初めて、本物の興味が浮かんだ。
鉄の門が視界に入る。重厚な扉がゆっくりと開き、馬車が敷石の道へ入っていく。
車輪の音が変わり、速度が落ちた。
別邸が近い。
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別邸は古い石造りだった。
蔦が壁を這い上がり、窓辺の獅子の彫刻が風雨で少し削れている。
威圧的というより、長い年月を纏った重厚さがある。
庭の芝生は整えられ、花壇に白い花が咲いていた。しかし人の声がない。
静かすぎる屋敷だ。
馬車が止まり、使用人が出迎えた。
中年の女性、灰色のドレスに白いエプロン、表情が固い。
その後ろに若い男性が立ち、緊張した顔で頭を下げる。
リアナは馬車の扉の前に差し伸べられたエリオットの手を、軽く笑って無視し、自分でひらりと飛び降りた。
芝生の湿った感触が、ブーツの底から伝わる。
土と草と、石の壁が吸い込んだ年月の匂いが混じっていた。
「ようこそ、レイド家の別邸へ。約束どおり、紅茶をご馳走しよう」
エリオットが言い、中へ導いた。
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応接室は広く、暖炉に火が入っていた。
薪がパチパチと小さな音を立て、木の燃える甘い煙の香りが部屋を満たす。
重厚な絨毯が足音を吸収し、壁に並んだ肖像画の人物たちが、どれも同じ鋭い目でこちらを見下ろしていた。
レイド家の先祖たちだ。
歴史とその誇りと威厳が、絵の具の中に重く滲んでいる。
リアナは指定された椅子に座った。
クッションの沈み込みが心地よく、しかしそれに油断する気にはなれない。
使用人が紅茶を注ぐ。湯気が立ち、花のような甘い香りが鼻をくすぐった。
口に含むと、温かく滑らかな余韻が広がる。
「上質な茶葉ね」
「レイド家の伝統だ。良いものを楽しむのも、貴族の務めだ」
エリオットの声は穏やかだが、青い瞳の奥に鋭い光がある。
リアナはカップを置いた。
「じゃあ、せっかくだから教えて。あなたのこと、レイド家のこと。ただの冷徹な貴族様じゃないんでしょ」
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エリオットはカップを両手で持ち、紅茶の表面をしばらく眺めた。
暖炉の火が彼の横顔を照らす。こうして静かにしていると、冷たい貴族の仮面の下に、別の何かがあるのが見えてくる。
「レイド家は、この地を代々治めてきた。
先祖は剣と信念で侵略者を退け、エルドリアを含むこの地域を守った英雄だ」
静かな声だ。
「伯父ベルハルトが領主を継ぎ、父はその弟として生きた。
六年前、父は病で死んだ。そして三年前、父の弟、ヴァルドが領主を継いだ。
私はその甥として、この町の代官代理を務めている」
「正式な代官は、まだ?」
「決まっていない。決めない方が都合のいい者が、どこかにいるのかもしれない」
その言葉は、淡々としていた。しかし何か淀みがある。
「あなた自身は、どう思ってるの」
エリオットは少し間を置いた。
「私は貴族として、民を法の下に正しく導くことが美徳だと教えられた。
しかし、ただ弱さを許すことは愚かなことだ、とも。それは今も変わらない」
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部屋の空気が少し重くなった。
暖炉の炎が揺れ、壁の影が伸び縮みする。
リアナは紅茶を啜りながら、エリオットの言葉を咀嚼した。
単純な悪人じゃない。
それはわかった。彼の論理には一貫性がある。
貴族として生きることを、疑いなく選んだ人間の論理だ。
しかし、その確信が、時折、瞳の奥に孤独の影を生む。
父を六年前に失い、正式な立場も与えられないまま代官代理として町を仕切っている。
選んだのか、選ばされたのか。
「レイド家が英雄の末裔なら」
リアナは言った。
「民の心を掴む方法は、他にもあるんじゃない?」
エリオットの唇がかすかに動いた。
答えではなく、問いかけを飲み込んだように見えた。
暖炉の薪が一本、崩れた。
炎が一瞬大きく揺れ、二人の顔を赤く染める。
外で風が窓を揺らした。
細い音が、重い沈黙の中に混じった。
この会話が、お茶の席以上の何かになる予感がする、とリアナは思った。




