【超短編小説】冥闇クルパ
ひとは怠惰になっていく。
それはおれが昼過ぎまで寝ていたとか、仕事をできるだけサボっているとか言う話じゃない。
自分と言う存在に対して怠惰になると言う話だ。
どう言うことか?
誠実さを失っていくのだ。
そこには、かつて発生していた愧と言う名前の耐え難き苦痛が存在していたはずだが、それに対して鈍感になっていくと言うことだ。
その鈍感さにさえ、愧を持たなくなる。
そんな話をしよう。
冬の気配がすっかりと遠のいた、清々しく晴れたある土曜日の朝だ。
おれは呼吸器科の医者から命じられた禁煙を破って煙草を吸いに散歩をしていた。
すると、自動販売機の前で何かを話している父娘が見えた。
近所のスポーツジムで見かけた事がある。
しかし煙草に火をつけてしまったので最初は無視をする気でいたが、横目で見るとどうも諍いをしているようだった。
速度を緩めて二人を伺うと、どうやらその自動販売機は壊れており、硬貨を入れずともボタンを押すとジュースが次々と出てくると言う状態だったようだ。
当然ながら父親の方は喜んでおり、次々とボタンを押しては出てくる缶ジュースだとか缶コーヒーを取り出して、腕に下げた買い物袋に収めていた。
それに対して、娘の方が何やら不満みたいである。
「こんにちは」
軽く挨拶をすると、向こうもおれに気づいて「やぁどうも」なんて挨拶をしてきた。
おれは自動販売機を指して
「故障ですか」
そう訊くと父親は笑って
「えぇ、そうみたいです。おひとつ、と言わずどうですか?」
と言った。
ちょうどいい。煙草を吸ってコーヒーが欲しくなっていたところだ。
そう思い手を伸ばそうとしたが、父親の傍らに立つ娘の咎めるような視線を認めた。
娘は今にも泣き出しそうな顔で
「それは悪いことだよ」
と言って父親の袖を引いた。
罪。
たしかにそれは紛れもなく窃盗である。
それに我々は別段なにかに搾取されていたりしないし、金銭的に困っている訳でもない。
この自動販売機に商品を補充しているルート配送員も、その商品をライン生産している作業員も、企画開発も我々と同じ労働者である。
だがおれは自動販売機のボタンをひとつ押した。派手な音で缶コーヒーがひとつ、排出された。
その缶コーヒーを取り出して、娘に言って聞かせるように、ゆっくりと話す。
「いいかい、これは確かに罪だ。
しかし金を払わずに商品を得ると言うのは我々の願いであり、つまりこれはその叶えられた祈りだ」
父親は大きく頷いた。
お前の教育がなってないから、おれが代わりにしているんだぞ。わかっているのか?
おれは缶コーヒーを開けて飲み、その中に吸い殻を入れた。
「いつか君にも分かる日がくる。
これを罪だと思う心は、年齢と共に消えて無くなる。我々は愧ずべき存在だ、早く死んだ方が良い。
だが君のお父さんには君を育てる義務がある。それは立派なことだ。
だから君はその愧と言うものを出来るだけ長く持ったまま生きるんだよ」
おれはそう言いながら、かつて自分の中に存在していた正義感だとか愧とか言ったものがまだ自分の中にあると感じたかったのかもしれない。
娘は黙って話を聞いていたが、やはり不服そうな顔をして首を捻った。
「ばかやろうめ」
おれは娘の顔面に空き缶を投げつけて目眩しをした隙に仏壇返しの容量で車道へ放り出した。
「なにをするんだ!」
「うるせぇ、お前もこうしてやる」
仰天した父親も岩石落としの手法でもって車道に投げ飛ばして、二人揃ってトラックに轢かせた。
後には何も残らなかった。
素晴らしい日曜日にケチがつかなかった事を感謝して、散歩をやめて帰る事にした。
ほらな。
人間とは、かくも怠惰な存在になる。
そう言う話だ。




