0.9泥だらけの勲章
「死んだぞ」
ガッ!!
乾いた音が響き、僕は泥水の中に頭から突っ込んだ
脳が揺れる。視界が明滅する。
呼吸をしようとすると、肺が焼け付くような痛みを訴えた。
「……ッ、が、はっ…!」
「遅ぇ。反応がコンマ1秒遅れてる」
頭上から、ガザ師匠の冷徹な声が降ってくる。
彼の手にあるのは、ただの樫の木の棒だ。
だが、今の僕にとっては、どんな名剣よりも恐ろしい凶器だった。
「言ったはずだ。『殺気』を見ろと。目が動いてから避けるんじゃねぇ。俺が『斬ろう』と思った瞬間にはもう動いてなきゃ死ぬんだよ」
ガザは容赦がなかった。
基礎体力がついたと判断するや否や、始まったのは寸止めなしの打ち込み。
魔力による防御を持たない僕がこれを食らえば、骨折どころか内臓破裂もあり得る。
(……怖い)
本能が警鐘を鳴らす。
逃げ出したい。布団に潜って震えていたい。
でも。
「……もう、一本…」
僕は震える足に力を込め、泥の中から立ち上がった
ここで逃げたら、一生「ゼロ」のままだ。
妹に、両親に、顔向けができない。
「へっ。根性だけは一丁前だな」
ガザがニヤリと笑い、再び棒を構える。
「来い。今日中に俺のかすり傷一つでもつけられなきゃ、晩飯抜きだぞ」
「うぉぉぉぉぉッ!!」
僕は叫び、泥を蹴って突っ込んだ。
技術はない。あるのは、夜ごとの『掌握』で作った筋肉と、食らいつく執念だけ。
その日も、僕は日が暮れるまで地面を舐め続けた。
◇
屋敷に帰還した。
足を引きずりながら裏口から入ろうとすると、灯りを持った母上、シャーロットが立っていた。
「……アロイス」
「あ、母上……ただいま戻りました。泥だらけですみません、すぐ着替えて……」
言い訳しようとする僕を、母上は何も言わずに抱き寄せた。
高級なシルクのドレスが泥で汚れるのも厭わず、僕の青あざだらけの頬を優しく撫でる。
「また、そんなに無理をして……。痛いでしょう?」
「平気ですよ。これは、勲章みたいなものですから」
「バカな子ね。……お風呂にお湯を張ってあるわ。上がったら、温かいスープを飲みましょう」
母上の手は温かかった。
ガザ師匠の殺気とは対極にある、陽だまりのような温もり。
僕は張り詰めていた糸が切れるのを感じながら、深く息を吐いた。
食堂で出されたのは、湯気を立てる具だくさんのポトフだった。
野菜の甘い香りが、疲労した身体に染み渡る。
だが、スプーンを持つ僕の手は、小刻みに震えて止まらなかった。
ガザ師匠の打ち込みを受け続けた手首が、悲鳴を上げているのだ。
カチャカチャと、食器とスプーンが当たる音が響く
それを見て、父上、クロノが新聞を置いて溜息をついた。
「……ガザには手加減しろと言ってあるのだがな」
「僕が頼んだんです、父上。手加減されたら、ノアたちには一生勝てませんから」
ノア。同世代の貴族の中でも、特に優秀な魔力を持つ少年。
彼ら魔法使い(エリート)に勝つには、普通の努力では届かない。
「勝たなくていいと言っているだろう。お前が生きていてくれれば……」
父上は苦虫を噛み潰したような顔をした。
魔力を持たずに生まれた息子に、過酷な道を歩ませている自責の念があるのだろう。
父上は何も言わず、自分の皿から大きな肉を切り分け、僕の皿に乗せてくれた。
「……食え。身体を作るには肉が必要だ」
「ふふ、ありがとうございます」
口に運んだ肉とスープは、涙が出るほど美味しかった。
この温かさ。
外の世界がどれだけ僕を「無能」と嘲笑っても、ここには僕を人間として扱ってくれる場所がある。
心配してくれる母上がいて、不器用な父上がいて、無邪気に笑う妹がいる。
(守らなきゃ)
僕は震える手でスプーンを握りしめた。
(この人たちが、誰かに後ろ指をさされないように。
イニティウム家には『無能』しかいないなんて、二度と言わせないために)
その夜。
僕は筋肉痛の身体を引きずり、再び『掌握』の訓練へと向かった。
この温かいスープの味を、守り抜く力を得るために
やる気出てきました。
誤字脱字、改善点などあれば教えていただけると嬉しいです。




