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残響の錨  作者: 斑八馬
4/4

呼称錨

金属の焦げた匂いが、まだ空気に残っていた。


喫茶店の外は静かだが、静寂じゃない。

誰かの息と、誰かの足音が確かにある。


俺は床に膝をついていた。

右手の指先が、自分のものじゃないみたいに冷たい。


胸の奥で、石みたいなものが鳴る。

黒点の縁を踏み、ミュートスの腕を掴み、糸を走らせ、角を落とした。

それだけのはずだった。

……けど、体の奥が、まだ熱い。


巌が指を鳴らす。

「B-31、B-72、鎮静、レベル1」


二体のクレアが瞳ラインを白く揃え、場に静けさを落とす。

音は残る。靴の軋み、息の震え、風の拍。

けれどすぐに、対策班の女が耳覆を押さえ、顔を上げた。


「巌——音の穴が動いてる!」


次の瞬間、割れたガラスの隙間から、黒い影が這い出た。


——まだ、生きてる。


倒したはずのミュートスが、壁の裏から群れで這い上がってくる。

肩が逆関節に折れ、腕の長さが人より二倍ある。

足音はない。ただ、息のない空気が引っ張られる音だけがある。


巌が舌打ちした。

「チッ……! 縁、三拍、結べ!」

「了解」


縁と呼ばれた男が瞬時に糸を放ち、壁と床を綴じる。

白い反吸光粉の線が、角のトルクを落とし、敵の跳び軌道を一拍ずらす。

その間に別の男が声を走らせた。


「粉効率70、1・2・3!」

ノズルから白砂が散り、輪郭線が生まれる。

それが逃げ道になる。


「砂音、黙って聞け!」

巌の声。


砂音と呼ばれた女が目を閉じ、音の欠落を探す。

「南東角、ベール残渣、厚み1.2m!——王の帳の“剥がれ”だ!」


「——反転、五拍!」


巌の指示で隊の呼吸が揃う。

白線が踊るように流れ、隊がひとつのリズムになる。


俺は……立ち上がれなかった。


膝が鉛みたいに重い。

皮膚温は下がり、視界が白い砂をかぶったみたいに霞む。

頭の奥で、何かが開こうとしていた。


「……お前は下がってろ!」


巌の声が聞こえた気がする。

でも、身体が命令を聞かない。

視界の隅で、ナナがこちらに駆ける。


「…だめ」


彼女の声が遠い。

胸の奥の石が、音を吸い始める。


——やめろ。

——俺は、人間だ。


でも、手が勝手に動いた。

指先に“糸”が走る。


サイレンス・スレッド。


音がひとつ、消えた。

次の瞬間、糸がミュートスの胴を裂く。糸はそこにあった音と空間を喰らう。

床の砂が宙に舞い、世界が白と黒に二分される。


「巌ッ! 彼、異常波だ!」


通信器越しに、誰かの声が上ずった。

「瞳孔拡大、発汗、皮膚温——Ω級波形!」


「止めろ! 俺たちが消えるぞ!」


ミュートスが五体、同時に動いた。


凪斗の糸が、自動的に角度を読む。

目で見ていない。意識していない。

それなのに、糸が勝手に最短殺線を描く。


切断。粉砕。黒砂が飛ぶ。

音がない。


「……なんだ、あれ……?」

隊員の1人が息を呑んだ。


「ベール下と同じ減衰……あれ、Ω相じゃ……!」


「違う」

巌が低く言い切った。

「本能だ。王の残響——!」


巌が叫ぶ。

「縁、結べ!」

「三拍、結べ!」


縁の糸が飛ぶが、凪斗の糸に弾かれる。

「糸が……拒んでる!」

「陸! 数えて止めろ!」

「1、2、3——ッ、効かねぇ!」


粉が浮遊し、白輪郭が歪む。

「しの! 封止!」


しのと呼ばれた医療士がゲルパックを投げる。

黒砂を覆うが、糸がゲルを切る。

「ゲル貫通……っ!」


巌がスタフを床に突き、叫ぶ。

「五拍で押せ! B-72強鎮静!」


操作盤を叩く音が響く。

クレアB-72の瞳ラインが淡橙に変わる。

静けさが場を包み、空気が重く沈む。

「B-72、瞳ライン淡橙——過負荷手前。稼働は五分まで!」


それでも、凪斗の足は止まらない。

黒い糸が空間を走り、ミュートスを貫き、壁を裂く。


——視界の奥が、黒い。

白と黒の境界が崩れていく。まるで何かに操られたかのように自分の意思とは無関係に手足が動く。

耳の奥で、古い声がした。


「戻れ」


違う。あの声は——。


「凪、戻って!」


二語。

その音が、胸に刺さる。


途端に糸がほどけた。

スレッドが消える。

膝が崩れ、床へ倒れる。


音が、戻る。

息がある。

風がある。


「——終息」


砂音の声が震えている。

「残渣、消失。黒点、安定。音、戻った」


巌は一歩前に出て、凪斗の胸ぐらを掴み上げた。

指先のLEDがわずかに光る。


「お前……今、何をした?」

「……わからない」

「嘘だろ。あの減衰は、Ω級。

 人間じゃ出せねぇ」


ナナが前に出た。

「違う。——彼は、人間」


その声に、空気が震えた。

巌の目が一瞬だけ動く。


「……β-07、下がれ。今のは“王”の残響だ」

「違う。残響でも、王でもない。凪斗。」


「——」


ナナは一歩も引かない。

「彼は、痛がってた。怖がってた。

 黒点を、見たとき。

 人間の恐怖を感じてた」


静寂。

隊の誰もが動かない。

巌の拳だけが、まだ凪斗の胸を掴んでいる。


「……黒点に触れられかけた店主の手の温度を、俺の指は覚えている」


誰に言うでもなく、そう呟くと、巌の指がゆるんだ。


「巌、見ろ。皮膚温、三十五・四。

 Ω波は消えてる。人間域だ」


巌の目が細くなる。

「……本当に人間だっていうのか」


ナナは即答した。

「うん。わたしが見た。

 記憶も、痛みも、ぜんぶ。

 凪斗は、王じゃない」


巌は少しだけ息を吐き、手を放した。

凪斗が床に倒れ込む。


目の前にナナがしゃがみこみ、掌を俺の胸に当てる。

その体温が、冷えた皮膚の奥へ染みてくる。

呼吸が、三拍で戻る。


「……人間なら、戦え」


巌のその言葉は、命令でも罵倒でもない。

「戦え。

 おかしな真似をしたら——俺たちでお前を殺す」


その言葉の“殺す”には、角がない。

宣言でも脅しでもなく、“規則”の声だった。


ナナが立ち上がり、巌の正面に立つ。

「彼を、E-12に入れて」


「判断は俺がする。

 ……だが、こいつが今みたいに暴れたら、次は止めねぇ」

「それでいい」


ナナは静かにうなずいた。

「彼は、学べる。

 だから、生かす。——それが、私たちの仕事でしょ?」


巌は短く笑った。

毒のない、乾いた笑い。

「言うじゃねぇか、β-07。……いい、入れてやる」


「ほんと?」

「ただし——監視は俺。

 ナナ、お前の“共鳴”は常時ログに残す。

 凪斗、次に暴れたら俺が“角”を落とす。理解しろ」


俺はうなずいた。

「……あぁ」


巌が背を向ける。

「E-12、撤収。——五拍で行く」


隊員たちが動き始めた。

縁が糸を回収し、陸が粉を封じ、しのが封止袋を焼く。

砂音は耳覆を整え、B-72のラインは白へ戻る。

すべてが、一つの拍に収束していく。


ナナが俺の腕を取り、立たせる。

彼女の指が触れたところだけ、熱が戻る。

息を吸うと、音が肺に入る。


人の音。

生きている音。


巌の背中に、声をかけた。

「……俺は、この力を、どうすればいい?」


「自分で考えろ。だが、糸は切るだけじゃない」


振り返らずに言って、彼は外へ出た。


倉庫街の奥で、夕陽が白く沈んでいく。

光の角度が一つ落ちた。

その瞬間、世界の“音”が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


「——E-12、ベースに戻る。」


---


連れてこられた場所は、駅裏の配送センターを転用した建物だった。

高い天井、むき出しの梁、四角い光。倉庫の奥に仕切り壁、片側に小さな訓練スペース。白板には予定幅と滞留指数が書かれている。壁には官報の刷り物。**「人間らしく生きる、を守る仕事。」**の太い文字は、今朝見た掲示のものと同じだ。



倉庫のような建物の扉が閉まると、外の風の音が一段低くなった。

白い照明の下、湿ったコンクリートの床には反吸光粉の跡がまだ残っている。

誰も話さない。

ただ、さっきまでの戦闘音の残響が、天井に貼りついたままだった。


巌が手袋を外しながら、短く言った。

「ここがE-12のベースだ。——座れ」


鉄の机。椅子が六脚。

俺は言われるまま腰を下ろしたが、頭の中ではまだ“糸”の手応えが抜けていなかった。

その感触を振り払うように、ふと口が動いた。


「……さっき、戦闘中に何拍とか、なんとか言ってたのは……なんだったんだ?」


巌が片眉を上げる。

「聞こえてたか」


「縁、三拍、結べ、とか……陸、数えて止めろ……」

言いながら、自分でもよくわからないが、その言葉のリズムをもう一度頭の中で追っていた。

なぜか、“怖くなかった”瞬間がそこにあった。


巌は机に両肘をつき、低く言った。

「それが“錨語アンカーコード”だ」


「アンカー……?」


「簡単に言えば、“生きて帰るための言葉”だ」

巌はポケットから短いメトロノームを取り出して、机に置いた。

カチ、カチ、カチ。一定の音。

「この音に、人間の体は勝手に合わせる。

 俺たちは、この“合わせる力”を利用してる。

 ——戦場では、呼吸も視線も拍を外したら死ぬからな」


陸が粉袋を抱えたまま口を挟む。

「だから、三拍とか五拍って言葉でリズムを指定する。

 誰かが混乱しても、拍を言葉で引き戻すんだ」


巌がうなずく。

「“錨語”はそのための符号だ。

 名と拍と動詞の三つで、仲間の意識を一発で揃える」


縁が静かに続ける。

「名を呼ばれることで、自分が“人”だとわかる。

 拍を言われて、呼吸が戻る。

 動詞で、今何をすればいいかが明確になる。

 ——黒点に触れずとも、呑まれた人間の行き着く先は見ただろう。俺たちも例外じゃない」


「……ミュートスか」

2足歩行の異形の人間を思い出す。音もなく現れる口のない人間から外れた獰猛な獣。


「それなら錨語は魔法みたいなもんだな」


「魔法じゃない」

巌の口調は淡々としていた。

「訓練だ。

 人は“リズム”を失うと、思考が砂になる。

 だから俺たちは、まずリズムで戦う」


砂音が小さく笑った。

「拍が揃うとね、不思議と“音”が戻るんだ。

 無音でも、怖くなくなる。

 それが“縫う”ってこと」


巌が再びメトロノームを指で止める。

「お前は、拍が狂うとすぐ“切る”方へ行く。

 あれは速いが、何も残らねぇ。

 俺たちは違う。“縫って”帰る」


ナナがその隣で小さくうなずいた。

「凪斗の糸も、本当は縫うためのもの」


巌は視線をこちらに戻した。

「まずは身体と耳を同期させろ。

 “錨語”を聞けば、身体が勝手に動くようにする。

 それが、お前が人間として戦う第一歩だ」


言葉が静かに落ちる。

耳の奥で、さっきの戦場の声がもう一度響く——

「——凪、戻って。」


胸の中で、小さな拍がひとつ、整った気がした。


「と、まだ自己紹介をしてなかったな」

巌が指を折る。

「班長、月岡縁」

縁は細いハーネスを片肩にかけ、短いメトロノームを指先で弾いた。カツ、と一拍。

「……縁、三拍、結べ」

錨語を自分でつぶやく癖があるのか、口の形だけが動く。

「工兵、狭間陸」

陸は数字を小声で一から三まで数え、湿度計の丸窓を確かめる。

「医療・記録、鴇田しの」

しのは短く会釈して、ノートの端を折った。

「斥候・感知、雨宮砂音」

砂音は耳覆を首にかけ、無音を聞き分けるための音叉タグをひと振りだけ鳴らした。

「クレア同期、真名井透」

透は“はは”と無音みたいな笑いを一息だけ漏らし、掌で二体のクレアの肩の高さを合わせた。

「配属クレア、B-31とB-72。人格は付けない。飽和限界はお前も覚えろ。——それと、β-07、ナナだ」

巌の視線がナナに行く。

「こいつは負の感情と記憶を消すだけじゃない。記憶を理解出来る点が普通のクレアとの違いだな」


ナナは二体のクレアと少し離れたところで立っている。


「俺は……凪斗だ」

自分で名乗ってみる。口の中に砂はなく、音は出る。

声を出す度、人間に戻ったのだと自覚する。それでもつい先日までの自分を思い出せない。何か思い出そうとしても砂のように自分の手から抜け落ちていく感覚に胸がしめつけられた。




---

巌が椅子を蹴って立ち上がる。

「よし、机上はここまでだ。立て、凪斗。実際にやるぞ」


ベースの奥にある通路を抜けると、壁一面に灰色の吸音材が貼られた広間があった。

中央には白線が格子状に走り、床のあちこちに粉の跡が残っている。

見慣れない器具が並ぶ。

小さなメトロノーム、携帯照明、指先に光るグローブ。

人間の呼吸を測る装置というより、**“音の訓練場”**だった。


巌が白線の中央に立ち、軽く手を打つ。

「ここは訓練室だ。五拍で動き、三拍で止まる。

 まず“呼吸”から始める」


隣でナナが壁際に立つ。彼女は見守るだけの役目らしい。

巌が手首をひねり、メトロノームを起動した。

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ——。


「吸う、二、三、四、五。吐く、二、三、四、五」

巌の声が低く響く。

E-12の全員がそれに合わせて呼吸を整える。

肺の奥に入る空気が、拍ごとに形を持つように感じた。


「凪斗、同じようにやれ」

「……こうか」

「違う。胸じゃなく、腹で取れ。拍は“内側”で数える」


息を吸い、吐く。

数を頭で追うと、急に喉が重くなる。

巌が顎をしゃくった。

「考えるな。音を聞け」


カチ、カチ、カチ。

心臓の鼓動が、少しずつそれに重なっていく。

気づけば、隣の縁も、陸も、砂音も、同じリズムで呼吸していた。


巌が軽く指を鳴らす。

「ここから、錨語の拍入れだ。

 陸、号令」


「了解。——一拍で見ろ、三拍で落とせ。」

その瞬間、陸の手が白線上に走る。

粉が正確な角度で舞い、照明の下で輪郭が浮かんだ。

音はないのに、動きのリズムだけが残る。


巌が俺を見る。

「この白線が“場”の拍だ。

 お前の糸は、今その場を切るために動く。

 だが俺たちは違う——縫って保つ。

 拍が揃えば、恐怖は入ってこない」


「恐怖が……?」

「そうだ。黒点は“乱れ”を喰う。

 拍が整えば、奴らは食いっぱぐれる」


巌は手旗を広げ、再び声を放った。

「——縁、三拍、結べ!」

「了解」

縁が前に出て、白糸を投げる。

糸は線をなぞり、二度、三度、一定の間隔で床に触れる。

三拍の縫いだ。

糸が床を“結んだ”瞬間、空気のざわめきが止まった。


巌が笑う。

「この“沈黙”が縫えた証拠だ。音が消えたんじゃない、整ったんだ」


次に砂音が耳覆を外し、微笑んだ。

「凪斗、今の空気、わかる?

 音が真っ直ぐ通るでしょ」


確かに、さっきまで感じていた耳の詰まりが消えていた。

息の音すら、きちんと距離を持って響く。

整った空気というのが、本当に存在するのかと思うほどだ。


巌が指を鳴らす。

「次は、お前の番だ」

「俺の?」

「錨語を、受ける側として試す。

 縁、合図を送れ」


縁が一歩前に出て、静かに声を落とした。

「——凪斗、三拍、踏み出せ。」


その言葉が耳に入る瞬間、

肺が勝手に“吸い”、

足が床を一歩、出していた。

考える前に、身体が動いていた。


巌が頷く。

「それが錨語の力だ。

 命令じゃない。“拍”が体を動かす」


凪斗は息を整えながら呟く。

「……不思議だな。呼ばれるだけで、恐怖がなくなる」

巌が肩をすくめる。

「だから“錨”って呼ぶ。

 どんな無音でも、誰かの声があれば——落ち着ける」


しのが後方から医療バッグを閉じながら言った。

「拍を合わせておくと、怪我人を運ぶときもずれない。

 呼吸も、視線も、全部リズムで繋がってる」


巌が再びメトロノームを止め、全員を見回した。

「基礎はここまで。

 凪斗、これが“場を縫う”前の第一歩だ。

 音を殺さず、場を整える。

 お前の糸も、同じことができるはずだ」


ナナが近づき、短く言った。

「糸で、守る。ね?」

「……あぁ」


巌が出口に向かいかけたところで、

砂音がふと手を上げた。

「そういえば、ナナの“錨語”って二語だよな。

 他のは三語なのに」


巌が立ち止まり、振り返る。

「……ああ。あれは例外だ」


「例外?」俺が問う。


「本来、錨語は“名・拍・動詞”の三つでセットだ。

 名で人を呼び戻し、拍で息を合わせ、動詞で行動を定義する。

 だがナナは——拍を言葉で持たない」


巌は視線をナナに送る。

「クレアは声を揃える種だ。

 彼女たちは“呼吸”そのものが共鳴信号になってる。

 だから、ナナは拍を言葉にせず、声の波で伝える」


ナナが静かにうなずいた。

「“戻って”の中に、拍がある」


「どういうことだ?」俺が尋ねると、

ナナは少しだけ首を傾けて答えた。


「呼んだとき——凪斗の鼓動が一瞬止まる。

 次の拍で、戻る。それでいいの」


巌が短く笑う。

「つまり、“二語目”の中に拍が埋め込まれてるってわけだ。

 クレアにしかできないやり方だ」


縁が軽く腕を組んで言う。

「お前の暴走を止めたあの時も、それで“人の拍”に戻されたんだな」


巌が頷く。

「ナナの“凪、戻って”は、

 訓練で作られた符号じゃない。——関係の拍だ」


「関係の拍?」


「お前とナナの間にしか存在しないリズムってことだ。

 錨語はチームのためにある。だがクレア、というよりナナの錨語は個人のためだ。

 だからこそ、俺たちは“呼称錨”と呼んで区別してる」


ナナはほんの少しだけ微笑んだ。

「“拍”は、私じゃなくて——あなたの中にあるもの」


その言葉のあと、静かに空気が揃う。

メトロノームが鳴っていないのに、

皆の呼吸が自然に五拍に一致していた。


扉が開く。

外の風が少し入り、粉の匂いが混じる。

凪斗はもう一度、あの拍を思い出した。


カチ、カチ、カチ——。

その音と一緒に、

**「凪、戻って」**という声が胸の奥で繰り返された。


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