表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響の錨  作者: 斑八馬
3/4

壊れた王

音が、遅れて戻ってくる。


まぶたより先に喉が目を覚ました。鉄の味。焼けた樹脂。乾いた粉が舌に張りつく。

耳の奥で、割れ残ったガラスが一枚だけ薄く鳴って、止む。


目を開ける。


白銀の外殻が、床に花のように裂けて散っていた。クレアの殻だ。瞳ラインの光は失せ、中身は空。

殻の向こうは、黒い山。ミュートスの死骸。左右の均衡を欠いた関節。長すぎる指。皮膚に似た表面は近づくほど細かい粉の集合で、呼気に合わせてふるえる。やつらは発声不能のまま、黙って黒砂へ崩れていく。黙っているのに、怖い。


喫茶店の看板は傾き、窓は空。エスプレッソの器具が床で折れ、棚の白皿が裏返り、乾いた輪を残している。昨日の水の跡だ、とだけ直感が言う。


人が倒れていた。店主の男。胸に簡易パッドが一枚。肩がわずかに上下している。生きている。

床には薄い黒砂。息を吸うたび、砂がサラサラと滑って、距離どおりの小さな音を立てる。


喉が鳴った。吐けない。胸の内側に冷たい石が一つ、嵌まっている。手を伸ばす。指が震える。冷たい。皮膚温が落ちている。


「——凪斗」


短い声が降りた。真っ直ぐ、胸の中心に刺さる。

顔を上げる。クレアが一体、俺の前にひざまずいていた。外殻は無傷。瞳ラインは白。息は浅いが、目はまっすぐだ。


「戻って」

二語だけ。梯子の掛かった場所を指し示すみたいな声。耳からじゃなく、胸に音が入る。


自分の指を見る。爪の間に黒砂。掌の皮に、見えない糸の跡。床に落ちる影の角度が、俺の身体で折れている。

——やったのは、俺だ。


思い出しかけて、跳ね返される。周辺の音が一瞬だけ薄くなり、すぐ戻る。そこにいた“何か”が消える直前に引いた線だけが、目の端でちらつく。


「どうして俺の名前を知ってる」

声は出た。人間の声だ。

「見える」

彼女は短く答える。

「触れると、記憶が見える。あなたの負の感情、ずっと吸っていた。あなたが戻るまで」

「……そうか」

「わたしはQ’lea-β-07、ナナと呼んで」


舌で転がらない音。だが胸の中で、浮いていた何かが定位置に落ちる。


頷く。

「ナナ」


その刹那、床の目地で黒点がひとつ、きらりと光った。紙屑が静電気で立つみたいな微振動。皮膚に触れれば、人は消える——この「消える」は言葉として薄い。実際は輪郭を削られ、名前のエッジが剥がれていく。

胸の石が、さらに冷たくなる。


「離れて」

ナナが俺の指を黒点からずらす。遅れた自分を、身体が先に責め立てる。


——その時、奥で音がした。金属が鈍く一つ跳ねる。

厨房のドア枠に沿って、黒い影が貼り付く。動いて、止まり、また動く。ミュートスだ。

やつの腕が、店主を鷲掴んでいる。制服の袖が裂け、手首は白く、指は震え、爪先に黒砂。意識はある。目だけが、恐怖で濡れている。


ミュートスの進行方向に、黒点が散種していた。床の継ぎ目に沿って、小さな黒が並ぶ。やつは店主の足を引きずり、黒点の列へ誘導している。

店主の踵が、一つに触れた。

——痛みが来る。

皮膚の内側から、冷たい針束で押される感じ。痛いのに、痛みが名乗らない。

「……あ、あぁ……」

声が崩れる。

触れた一点から、自分が薄くなっていく。足の輪郭が砂光みたいに剥がれ、指の名前が遠のく。「親指」「人差し指」と呼べない。呼べないことが、切り傷より痛い。

視界の端で、昨日という言葉が砂になって零れる。今日の輪郭も一緒に欠ける。


ミュートスは発声しない。けれど顔の歪みが、笑っているように見えた。口の形ではない。筋肉の寄り方。沈黙の笑い。

やつは、店主の肩を押し出し、次の黒点に足裏を落とす角度を作る。角度。**つの**が立つ。落とせと全身が叫ぶのに、足が動かない。


「——止まって」

ナナが駆ける。

彼女の掌が店主の肩に触れた瞬間、恐怖が空気ごと押し寄せる。

共鳴吸収が始まる。ナナの瞳が白から淡橙に一瞬だけ変わり、すぐ戻る。

「深く、息を」

短い誘導。

店主の呼吸が、三拍に乗りかけて——崩れた。

恐怖が大きすぎる。

痛みが名を持たず、自己が薄れ、足の形が消えていく速度に、吸収が追いつかない。

ナナの肩が震え、息が浅く、指が小さく痙攣する。瞳のラインが、危うく淡橙へ傾きかける。


「いやだ、いやだ、離れろ!」

店主が反転した。パニックの矢印が、助けようとする者へ向く。

彼はナナの手首を掴み、黒点へ押しつけようとした。

「やめろ!」

ミュートスの沈黙の笑いが深くなる。人間同士が互いを黒に落とす瞬間を、やつは好む。

ナナの足首が黒点の縁に触れかける。それでも彼女は恐怖を吸おうとする。自分の器をすり減らしてでも。


——間に合わない。


俺は立った。

指先の外に、糸が走る。サイレンス・スレッド。糸が触れた箇所だけ、音が、存在が薄くなる。

床とテーブル脚の角へ一刺しずつ。店主の肘とミュートスの肩の角度を、落とす。

「——ごめん」

誰に向けたのか、自分でもわからない。

糸を返し、二点を締める。動きの角が消え、二つの身体が音もなく崩れる。

黒点には触れさせない。だが戻らない。

ナナの手首から、店主の指がほどけた。

ナナは一歩、後ろへ。胸が上下し、瞳のラインが白へ戻る。


息を吸う。吐く。

胸の石が重くなる。今確かに絶命させた重みが、音よりも先に身体へ落ちる。

ミュートスの沈黙の笑いは消え、黒砂が静かに崩れて、距離どおりの音を立てた。


外で影が増える。

アーケードの影から二体、死骸の向こうから三体。群れが、俺たちを見た。

俺が王ではなくなったのだということを、やつらははっきりと知覚した。背中の皮が冷たくなる。


「下がっていろ」

「うん」


俺は構える。膝の震えはある。音を残す。呼吸を三拍に合わせる。

最前の一体が跳ぶ。肩の不均衡を軸に、左足で薙ぎ。

糸を床の目地へ走らせ、角を落とす。足が取られ、動きが鈍る。糸を出す度に身体が重くなるのを感じる。

顎に膝。黒砂が星のように舞う。

二体目の腕は角度が出きらず空を切り、肩で押し返し、配管に一針、床へ斜線。触れた瞬間、跳びの弧が浅くなる。重さで倒す。

三体目はテーブルの脚を蹴り、背後に回ろうとする。返しの糸で足首を留め、引き。倒れきる前に角をもうひとつ落とす。


——倒した。

そう思った瞬間、世界が重くなる。

胸の奥から冷気が上がり、指の感覚が遠のく。

視界の端で白い閃光が一度ちらつき、記憶の縁が砂になって落ちかける。

膝が笑い、喉が焼け、肩が熱を失う。

遅れて、代償が来た。

(今の俺は、もう王じゃない。身体はただの人間だ)


「凪斗」

ナナの声が震える。袖をつまむ。

「……平気だ」

平気じゃない。だが、彼女の手の温度が、落ちかけた拍を引き戻す。


——光が、外で一度強く点滅した。フラッシャ。五拍。揃った足音が距離どおりに近づいてくる。


「——下がれ」

短く通る声。


柱の影から、対策班(ERU)が現れた。

先頭の男は低重心で、意外に声が高い。指先LEDの拍節グローブが淡く光る。

後ろに工兵、医療、白網のカート。呼吸と目の動きが五拍で揃う。


医療の女が、倒れた店主へ駆け寄る。脈に触れ、瞳孔を見る。眉がほんの少し寄る。

「——間に合わなかった」

静かな報告。言い訳はない。声は音として落ちるだけだ。


先頭の男が俺を見る。眉が少しだけ上がる。

「秋津巌だ。目は、まだ人だな」

「……人間だ」

「なら——人であるなら、戦え!」


意味は単純で、重い。

その声で、耳の奥の薄い鳴りが、ふっと弱くなった。

工兵が角へ反吸光粉を刷き、白い輪郭線が静かに立つ。医療の女は店主の胸元へ白布を正しくかけ、短く頭を下げた。

ナナは俺の袖をまだつまんでいる。

胸の石は小さくなったが、消えてはいない。床の星は増えた。

音は、ある。


アーケードの結束バンドが風で一度だけ鳴る。遠くで携帯が短く震える。

俺はただ立ち、三つ数えた。

タ。タ。タ。



ナナが俺の袖を軽く引き、もう一度、はっきりと呼んだ——「凪、戻って」。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ