壊れた王
音が、遅れて戻ってくる。
まぶたより先に喉が目を覚ました。鉄の味。焼けた樹脂。乾いた粉が舌に張りつく。
耳の奥で、割れ残ったガラスが一枚だけ薄く鳴って、止む。
目を開ける。
白銀の外殻が、床に花のように裂けて散っていた。クレアの殻だ。瞳ラインの光は失せ、中身は空。
殻の向こうは、黒い山。ミュートスの死骸。左右の均衡を欠いた関節。長すぎる指。皮膚に似た表面は近づくほど細かい粉の集合で、呼気に合わせてふるえる。やつらは発声不能のまま、黙って黒砂へ崩れていく。黙っているのに、怖い。
喫茶店の看板は傾き、窓は空。エスプレッソの器具が床で折れ、棚の白皿が裏返り、乾いた輪を残している。昨日の水の跡だ、とだけ直感が言う。
人が倒れていた。店主の男。胸に簡易パッドが一枚。肩がわずかに上下している。生きている。
床には薄い黒砂。息を吸うたび、砂がサラサラと滑って、距離どおりの小さな音を立てる。
喉が鳴った。吐けない。胸の内側に冷たい石が一つ、嵌まっている。手を伸ばす。指が震える。冷たい。皮膚温が落ちている。
「——凪斗」
短い声が降りた。真っ直ぐ、胸の中心に刺さる。
顔を上げる。クレアが一体、俺の前にひざまずいていた。外殻は無傷。瞳ラインは白。息は浅いが、目はまっすぐだ。
「戻って」
二語だけ。梯子の掛かった場所を指し示すみたいな声。耳からじゃなく、胸に音が入る。
自分の指を見る。爪の間に黒砂。掌の皮に、見えない糸の跡。床に落ちる影の角度が、俺の身体で折れている。
——やったのは、俺だ。
思い出しかけて、跳ね返される。周辺の音が一瞬だけ薄くなり、すぐ戻る。そこにいた“何か”が消える直前に引いた線だけが、目の端でちらつく。
「どうして俺の名前を知ってる」
声は出た。人間の声だ。
「見える」
彼女は短く答える。
「触れると、記憶が見える。あなたの負の感情、ずっと吸っていた。あなたが戻るまで」
「……そうか」
「わたしはQ’lea-β-07、ナナと呼んで」
舌で転がらない音。だが胸の中で、浮いていた何かが定位置に落ちる。
頷く。
「ナナ」
その刹那、床の目地で黒点がひとつ、きらりと光った。紙屑が静電気で立つみたいな微振動。皮膚に触れれば、人は消える——この「消える」は言葉として薄い。実際は輪郭を削られ、名前のエッジが剥がれていく。
胸の石が、さらに冷たくなる。
「離れて」
ナナが俺の指を黒点からずらす。遅れた自分を、身体が先に責め立てる。
——その時、奥で音がした。金属が鈍く一つ跳ねる。
厨房のドア枠に沿って、黒い影が貼り付く。動いて、止まり、また動く。ミュートスだ。
やつの腕が、店主を鷲掴んでいる。制服の袖が裂け、手首は白く、指は震え、爪先に黒砂。意識はある。目だけが、恐怖で濡れている。
ミュートスの進行方向に、黒点が散種していた。床の継ぎ目に沿って、小さな黒が並ぶ。やつは店主の足を引きずり、黒点の列へ誘導している。
店主の踵が、一つに触れた。
——痛みが来る。
皮膚の内側から、冷たい針束で押される感じ。痛いのに、痛みが名乗らない。
「……あ、あぁ……」
声が崩れる。
触れた一点から、自分が薄くなっていく。足の輪郭が砂光みたいに剥がれ、指の名前が遠のく。「親指」「人差し指」と呼べない。呼べないことが、切り傷より痛い。
視界の端で、昨日という言葉が砂になって零れる。今日の輪郭も一緒に欠ける。
ミュートスは発声しない。けれど顔の歪みが、笑っているように見えた。口の形ではない。筋肉の寄り方。沈黙の笑い。
やつは、店主の肩を押し出し、次の黒点に足裏を落とす角度を作る。角度。**角**が立つ。落とせと全身が叫ぶのに、足が動かない。
「——止まって」
ナナが駆ける。
彼女の掌が店主の肩に触れた瞬間、恐怖が空気ごと押し寄せる。
共鳴吸収が始まる。ナナの瞳が白から淡橙に一瞬だけ変わり、すぐ戻る。
「深く、息を」
短い誘導。
店主の呼吸が、三拍に乗りかけて——崩れた。
恐怖が大きすぎる。
痛みが名を持たず、自己が薄れ、足の形が消えていく速度に、吸収が追いつかない。
ナナの肩が震え、息が浅く、指が小さく痙攣する。瞳のラインが、危うく淡橙へ傾きかける。
「いやだ、いやだ、離れろ!」
店主が反転した。パニックの矢印が、助けようとする者へ向く。
彼はナナの手首を掴み、黒点へ押しつけようとした。
「やめろ!」
ミュートスの沈黙の笑いが深くなる。人間同士が互いを黒に落とす瞬間を、やつは好む。
ナナの足首が黒点の縁に触れかける。それでも彼女は恐怖を吸おうとする。自分の器をすり減らしてでも。
——間に合わない。
俺は立った。
指先の外に、糸が走る。サイレンス・スレッド。糸が触れた箇所だけ、音が、存在が薄くなる。
床とテーブル脚の角へ一刺しずつ。店主の肘とミュートスの肩の角度を、落とす。
「——ごめん」
誰に向けたのか、自分でもわからない。
糸を返し、二点を締める。動きの角が消え、二つの身体が音もなく崩れる。
黒点には触れさせない。だが戻らない。
ナナの手首から、店主の指がほどけた。
ナナは一歩、後ろへ。胸が上下し、瞳のラインが白へ戻る。
息を吸う。吐く。
胸の石が重くなる。今確かに絶命させた重みが、音よりも先に身体へ落ちる。
ミュートスの沈黙の笑いは消え、黒砂が静かに崩れて、距離どおりの音を立てた。
外で影が増える。
アーケードの影から二体、死骸の向こうから三体。群れが、俺たちを見た。
俺が王ではなくなったのだということを、やつらははっきりと知覚した。背中の皮が冷たくなる。
「下がっていろ」
「うん」
俺は構える。膝の震えはある。音を残す。呼吸を三拍に合わせる。
最前の一体が跳ぶ。肩の不均衡を軸に、左足で薙ぎ。
糸を床の目地へ走らせ、角を落とす。足が取られ、動きが鈍る。糸を出す度に身体が重くなるのを感じる。
顎に膝。黒砂が星のように舞う。
二体目の腕は角度が出きらず空を切り、肩で押し返し、配管に一針、床へ斜線。触れた瞬間、跳びの弧が浅くなる。重さで倒す。
三体目はテーブルの脚を蹴り、背後に回ろうとする。返しの糸で足首を留め、引き。倒れきる前に角をもうひとつ落とす。
——倒した。
そう思った瞬間、世界が重くなる。
胸の奥から冷気が上がり、指の感覚が遠のく。
視界の端で白い閃光が一度ちらつき、記憶の縁が砂になって落ちかける。
膝が笑い、喉が焼け、肩が熱を失う。
遅れて、代償が来た。
(今の俺は、もう王じゃない。身体はただの人間だ)
「凪斗」
ナナの声が震える。袖をつまむ。
「……平気だ」
平気じゃない。だが、彼女の手の温度が、落ちかけた拍を引き戻す。
——光が、外で一度強く点滅した。フラッシャ。五拍。揃った足音が距離どおりに近づいてくる。
「——下がれ」
短く通る声。
柱の影から、対策班(ERU)が現れた。
先頭の男は低重心で、意外に声が高い。指先LEDの拍節グローブが淡く光る。
後ろに工兵、医療、白網のカート。呼吸と目の動きが五拍で揃う。
医療の女が、倒れた店主へ駆け寄る。脈に触れ、瞳孔を見る。眉がほんの少し寄る。
「——間に合わなかった」
静かな報告。言い訳はない。声は音として落ちるだけだ。
先頭の男が俺を見る。眉が少しだけ上がる。
「秋津巌だ。目は、まだ人だな」
「……人間だ」
「なら——人であるなら、戦え!」
意味は単純で、重い。
その声で、耳の奥の薄い鳴りが、ふっと弱くなった。
工兵が角へ反吸光粉を刷き、白い輪郭線が静かに立つ。医療の女は店主の胸元へ白布を正しくかけ、短く頭を下げた。
ナナは俺の袖をまだつまんでいる。
胸の石は小さくなったが、消えてはいない。床の星は増えた。
音は、ある。
アーケードの結束バンドが風で一度だけ鳴る。遠くで携帯が短く震える。
俺はただ立ち、三つ数えた。
タ。タ。タ。
ナナが俺の袖を軽く引き、もう一度、はっきりと呼んだ——「凪、戻って」。




