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残響の錨  作者: 斑八馬
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無音の街

工事フェンスの結束バンドが、朝の風で一度だけ高く鳴って、すぐ遠ざかった。

横断歩道の「ピッ、ピッ」は距離どおりに小さく、店先の冷蔵ケースは低い唸りを保ち、パン屋のオーブンが熱の吐息を長く吐く。新聞受けに落ちた活字の束が、鈍い紙音で一回跳ねる。音はある。街全体に薄い膜がかかっているように思えても、無音にはならない。


街頭スピーカーが正時より半拍早く、短いジングルを鳴らす。市営FMの朝枠だ。

「ヴェイル市 広報86.4です。本日の予定幅は“±9分”。慌てず、三拍で歩きましょう。——特集『はじめての方へ:黒点クテとは?』。学名 Umbra Q’tensis(UQ-01)。最初の局所事例は**【12年前】、【7年前】に世界課題化、【4年前】よりクレア**(Q’lea/UQ-B)の量産配備が本格化。導入後、都市部の新規使徒ミュートス(UQ-A)化は約3分の1に減少(自治体推計)。一方で、踏み違え・接触など交通事故が微増(前年比+12%)。角では一拍停止、三語の手短な合図を——」


放送が終わると、アーケードの天蓋が風でわずかに軋み、同じ音が列柱のあいだから反復して消える。

喫茶店「レガート」の店主・志村は、開店前の窓辺に浅い水を張った白皿を置いた。水面眼すいめんがん。ベールの縁が近い日は、波紋が楕円ぎみに走る。


「今日も置くのかい」

新聞を抱えた常連の老人が言う。志村は頷いた。

「ええ。見た目にはただの水皿ですが、気持ちが落ち着く人もいますから」

「音が正直だ。あんたの店は、いつも音が“距離どおり”だよ」


席数八つの小さな店。開店の支度が整うあいだ、志村は店内の音の地図を一度なぞる。コーヒーミルの太い低音。カップ同士が触れる硬質な高音。通りから差してくる靴音。いちばん遠いのは、バス停の発車合図。今日は、どれも“その場所らしい”位置で鳴っている。


昼に配るサンドの袋を結束すると、外の掲示板に新しいポスターが貼られるのが見えた。

白地に黒い文字、赤いライン。


> 対策班《ERU:Edge Response Unit》** 募集**

「人間らしく生きる、を守る仕事。」

任務:①黒点縁の可視化・隔離 ②ミュートス小群の切断・回収 ③情動鈍化+人流同期で暴走断絶 ④ベール下の無音域観測

標準ユニット:6–8名+クレア2体(B-31/B-72)

条件:前駆(俯き・独り言・単語反復・主語欠落)の自覚とログ化/錨語いかりご(三語型)への即応/三拍呼吸・五拍動作に耐える心身


応募:QRコード/区役所ERU窓口




「人間らしく生きる……」

通りすがりの青年が小さく読む声が聞こえ、スマホを掲げた。志村は、物言わず店に戻る。


開店。

朝の客は新聞とコーヒーを一緒に頼む。BGMは流さない。音があることを確かめるためだ。客同士の会釈やテーブルのきしみが、音になる。

志村は白皿の波紋を一度見た。楕円の気配はない。無音は、ここにはない。


やがて、アーケードに小さな詰まりが生まれた。

青果店のカートが床の継ぎ目にとられ、列の肩が触れる。舌打ちが二つ、短く重なる。自己反芻の始まり。志村はカウンターから立ち、入口のガラス越しに角を見通す。店前の柱の陰には、白銀の外殻——クレアが立っている。瞳ラインは白。故障の心配はなさそうだ。


最初の60秒。

クレアは無言で半歩前へ出た。情動鈍化の薄い膜が半径数メートルに広がり、声量の角が一段落ちる。怒りの立ち上がりは鈍り、言葉の間がひと呼吸ぶん、長くなる。

志村は内側の扉を押し開け、通りへ顔を出した。

「前・止まって・今」

三語。大きな声は出さない。目線を合わせ、手のひらを下に向けて一拍。自転車の少年がブレーキを軽く引き、ベルに指を伸ばし損ねて、そのまま止まる。


次の60秒。

自治体の工兵が駆け寄り、腰のポーチから反吸光粉はんきゅうこうふんを取り出す。湿度計を一瞥、風向を見て、角のトルク点に沿って帯状に刷く。逆光の下で白い輪郭線が立つ。足の流れが自然に横へ逃げる。キャスターのコロコロが“距離どおり”の減衰にもどり、憤っていた男の独り言は尻すぼみに消える。


最後の60秒。

列は細く伸び直り、肩は離れ、会釈が三度。クレアはそのまま退き、瞳ラインは白のまま。志村は扉を閉める。



「助かったよ」

青果店の若い店員が、粉の刷かれた角を見ながら言う。

「右・譲って・三拍。合図くれた方が、ぜんぜん楽だ」

志村は親指を立てただけで、返事の代わりにした。


午前の客足が落ちると、市営FMがまた更新される。

「続いて公共ニュース。黒点反応、午前は市内14件。いずれも小規模、使徒化ゼロ。クレア群の飽和は2件、休止10分で復帰。歩行中・自転車の接触事故は23件(軽傷)。予定幅は暫定“±8分”。——本日の特集『ベール(Ωの権能Lv3)とは?』。アーカ・ミュートス(Ω)が都市規模に張る編集層。音は消えません。遠近の感じがわずかにズレ、会話の間が半拍のびます。Lv4の権能は人間に耐えることは出来ません——」


「編集層、ね」

老人が新聞を畳み、白皿の水を覗く。波紋は丸い。

「今日は来てないらしい」

志村は頷いた。

「来たらどうする」

「角で一拍、三語で合図。慌てなければ、だいたいは通り過ぎていきます」

「そうか、儂はすぐにでも逃げるべきじゃと思うがね」


昼。

志村はテイクアウトの紙袋を三つ用意して、店の外へ出た。手渡しのために角で止まり、視線の合った主婦へ手のひらを見せる。

「前・どうぞ・今」

主婦が半歩進み、受け渡しが滑らかに済む。ベビーカーの車輪音が距離どおりに遠ざかる。

(声を張らない。音を残す。それだけで、街は保てる)


午後、ERUの車両がサイレンなしで通り過ぎた。フラッシャの点滅が五拍を刻む。助手席の隊員が手旗で短く合図する。通信が途絶えても、拍で隊を合わせるための訓練があるのだと市報で読んだ記憶が、志村の耳の奥で鳴る。


「ERU、志願しようと思ってて」

カウンターの端で、青年が言った。

「人間らしく生きるを守るって、何をするんだろう」

「人として当然の性質を守る、のだと私は思います」

志村は言葉を選ぶ。

「怒りや焦りの角を落として、でも経験は消さない。学びを、未来へ繋げるのでしょう」


青年は黙って頷き、マグを両手で包んだ。会話は短い。間がある。



午後二時。

水皿の波紋が、風のいたずらで楕円に見える瞬間があった。志村は手拍テストをする。手を二度、軽く叩く。反響は距離どおり、少し長い気がするのは気のせいか。耳をすませる。冷蔵ケースの唸り、天蓋の軋み、新聞の紙音。

(薄膜なら、会話の間がもう半拍伸びる)


ちょうどそのとき、館内放送が臨時を告げた。

「臨時:北ブロックで同時多発の黒点反応。近隣のクレアは群体同期に入ります。周辺の皆さまは角で一拍、三語で意思疎通を」

テレビのテロップにも同じ文言が走り、画面の隅に官報のQRが出る。「無音の薄まりに注意」。無音ではない。薄まりだ。音がある。


通りの向こうで、自転車と徒歩の列が交錯しかけた。

最初の60秒。

ベルが鳴り、振り向いた肩がぶつかる。舌打ちの音が立ち上がる。

志村は入口で一拍停止し、目のあった会社員に指先を立てる。

「左・自転車・来る」

会社員の歩幅が半拍落ち、ぶつかりは空振りに変わる。

次の60秒。

クレアがLv1で一歩前へ。声量が半段下がる。子どもが走り出す気配に、母親の呼吸が整う。

工兵の粉尺は要らない程度の小さな角だった。

最後の60秒。

合図が二つ、会釈が二つ。音は残り、列はほどける。


「三分ですね」

志村がつぶやく。青年は頷いた。

「覚えます。三語、角で一拍、三拍」

「ええ。声を張らないのが、いちばんのコツです」


午後四時。

ERU募集のポスターの前に、制服姿の高校生が立っていた。スマホのカメラを掲げ、QRに焦点を合わせる。指が一瞬拍に合わず揺れる。

「前駆の自己申告をお願いします」

応募フォームの最初に、そう書かれているのを、志村は数日前に見ている。俯き・独り言・単語反復・主語欠落。

自分の声を頭の中で繰り返し、言葉の主語を落としがちなら、窓口へ——。

(ここで暮らす誰もが、どこか少しずつ、前駆に触れている)


夕方。

西日がアーケードの隙間から差し込む。日の角度が変わって、天蓋の金属が違う音程で鳴く。

市営FMがまとめを流す。

「本日の黒点反応、14件。使徒化ゼロ。クレア飽和2件(復帰済)。接触事故23件(軽傷)。予定幅(夕時点)“±8分”。薄膜の兆しは北ブロックでやや強め。帰宅時も角で一拍、三語で——」


志村は白皿の水面を見た。楕円と丸の境界。

(この境を、言葉で割り込まずにやり過ごすのが、一番むずかしくて、一番やさしい)


閉店前、最後の客が席を立つ。椅子の脚が床をかすめる音。マグの底が受け皿に戻る音。

志村はドアを開け、片手で通りへ合図を送る。

「右・入って・一人」

最後のテイクアウトを受け取りに来た人が、列の端から静かに合流する。音がある。だから伝わる。


シャッターを半分下ろしたとき、官報の速報が一行だけ更新された。

「北ブロック、無音の薄まり——滞留を避ける」

志村は掲示板のERU募集の下に、誰かが差し込んだ小さな白紙を見つける。鉛筆の字で、震え気味に書かれている。

「監査ログ、閲覧注意」。

その紙片は半分だけ抜かれ、また押し戻された跡があった。


「明日も、三拍で」

志村は独り言を避け、胸の内でだけ、三つ数えた。

タ。タ。タ。

シャッターが、日常の音程で下まで落ちる。



---


夜。

家路につく人々の足音が、乾いた舗道に均等に落ちる。ベールの薄膜は、見える人にはわかる程度に、境界でわずかに厚みを増している。けれど、音はある。

信号機の小さな電子音、犬の爪のコツコツ、遠くの改札の「ピッ」。

街はその音のうえに眠り、学びは削れない速度で、明日へ持ち越される。


掲示板のQR前、応募フォームのカーソルは点滅を続けている。送信の指は、三拍だけためらい、まだ落ちない。

どこか遠いブロックで、結束バンドが一回だけ、強く鳴った。



---


官報:北ブロック「無音の薄まり」の再掲と時刻更新。

掲示板の白紙の裏に、薄い印字——**「#01」**の番号。

送信に迷う指の先で、三拍の数え方だけが、確かにそろっていく。


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