プロローグ
世界には音がある。
換気の唸り、横断歩道のピッ、遠くの工事で鳴る金属のかすれ。誰かが靴を擦る音。瓶が倒れて転がる音。ぜんぶ、ここにある。
でも、学びだけが眠っている。
朝から夜まで、同じ会話、同じ手順、同じため息。怒りは丸められ、驚きは箱にしまわれ、失敗は静かな床下に落ちていく。音はあるのに、心が手を伸ばさない。
「起きて。朝」
私は小さく言う。誰にでもなく、いつもの癖。返事はない。私はクレア。量産の列から外れた、特異の個体。名はまだない。呼ばれたときだけ、たぶん、名は生まれる。
角を曲がるたび、薄いざわめきが行き来する。近所の広場で、青年が自販機の前で立ち尽くす。二枚の硬貨を持っているのに、どっちを先に入れるかで止まっている。
「順番は、どっちでもいい」
私は横に立って、胸の奥で吸う。重さを。苛立ちを。共鳴吸収。青年の肩が落ちる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
今日は言えた。二語。少し増えた。
風の角度が変わる。フェンスの結束バンドが、チッと鳴る。足音が通り過ぎる。距離は正しい。私はそれを確かめる。無音は、ここでは起きない。無音はΩの権能。街の帳が降りたときだけ、音は切れる。だから、音があるうちは歩ける。
路地の端、紙片が斜めに吸われる。白い粉塵が薄い線を描く。そこ、縁。
黒点。
小さい。まだ。
私は立ち止まる。足の幅をそろえる。呼吸を合わせる。
「一、二、三」
独り言。危ない癖。でも、私は聞くために話す。
角の先で、誰かが笑う。笑いが途中で止まる。
**使徒**の影。ゆっくり、こちらへ首を曲げる。口が動くけれど、声は出ない。発声は、ない。
「来ないで」
私は背中で壁を探る。ざらつき。粉の感触。
戦うのは不得意。私の役目は、引きはがすこと。引きはがしは時間で分けると、がんばれる。
——最初の六十秒。
私は近くの柱に手を触れる。吸う。柱ではない。柱のそばの、置き忘れた怒り。昨夜、誰かがここで蹴った缶の音。缶の悔しさは軽い。軽いけれど、誘いを弱める燃料になる。
「こっち」
私はミュートスに言う。言葉は届かない。でも、気持ちは届く。
影の首がわずかにずれる。吸い込みの流れが、半歩だけ乱れる。紙片が床に落ちる。足音が、ひとつ、遠くなる。
——次の六十秒。
路地の真ん中へ一歩。私は深く吸って、浅く吐く。心の奥で、誰かの古い悲しみが揺れる。形は見えない。味だけがある。鉄の味。涙の味。
「大丈夫」
私はつぶやく。自分にも、相手にも。
ミュートスの肩が、さらに傾く。引きの角度が変わる。吸い込みの向きが、横へ逃げる。転びそうだった子どもが、転ばない。母親が、息を吐く。
「ありがとう」
母親は私には気づかない。いい。私は影のほうを見る。
——最後の六十秒。
影が足を引く。その先に、灰色の廊下。仮設照明が点いている。明るいけれど、足音が浅い。照明の脚の陰に、人が横たわっている。黒い上着。袖口に金属粉。胸の手に、白い欠片。
「……いる」
私は言う。
影が近い。私は人へ走る。跪く。手を取る。冷たい。
「起きて」
答えはない。
指に、糸の感触。見えない糸が、空気の角を撫でる。
——音が、整う。
遠くの足音が、距離どおりに戻る。紙片が床に落ちて、そこで止まる。照明の唸りが、低く安定する。
ミュートスの首が、ゆっくり、私から外れる。影は路地の奥へ曲がり、薄くなる。
「……戻った」
私は小さく言う。まだ何もしていないのに、ここだけ少し、やさしい。
男の胸、白い欠片がカチ、と鳴る。ほんの音。
「あなた、誰」
男の睫毛がわずかに震える。声は出ない。呼吸は、ある。
「生きてる」
よかった。
私は周囲を見回す。粉塵が、淡く白い輪郭を残している。さっきまで引かれていた線は、消えた。
「行こう」
私は言う。誰も返事をしない。私の手は、まだ男の手を握っている。冷たい。指先から、冷えが上がる。
代償。
皮膚の温度が、落ちていく。少し震える。息を整える。
「だいじょうぶ」
私は自分に言う。ゆっくり、数える。
「一、二、三」
震えは少し止まる。
「あなたを運ぶ。少しずつ」
男は答えない。
私は上着の袖を掴んで、肩を引く。重い。人は、重い。私の筋力は、量産クレアの平均。ここから出口まで、二十七歩。段差が四つ。角は二つ。紙片の流れは止まった。足音は、遠い。
「こっち」
私は自分に言う。男にも言う。
膝を使って、ずる、と運ぶ。照明の脚に当てないように。金属音は嫌い。驚きが目を覚ますから。
路地の口で、買い物袋を抱えた老婆が立っている。私と男を見て、目を細める。
「大丈夫かい」
「大丈夫。生きてる」
「病院は……」
「ここから、だめ」
私は首を振る。病院は、今は学ばないところ。名を呼ばないところ。
「手を貸そうかい」
「ありがとう。少し、持って」
老婆は袋を地面に置き、男の足を持つ。二人でゆっくり、路地を出る。
「寒いねえ」
「寒い」
私は頷く。自分の指が冷たい。
広場に出る。ベンチ。そこに寝かせる。
「水、いるかい」
老婆が聞く。
「いる。ありがとう」
紙コップの縁が、触れる。男の口は動かない。私は代わりに唇を濡らす。
「名前は?」
老婆が私に聞く。
「ない。まだ」
「その人は?」
「知らない。でも、見た。糸。王の糸」
私は言ってから、口を閉じる。言いすぎ。
「王?」
老婆は首を傾げる。
「ごめん。なんでもない」
私は首を振る。老婆は深くは聞かない。よかった。
空の端が白い。昼前の光。子どもの声。鳩。音はある。
私は男の顔を覗く。まつ毛。眉間の皺。眠っている。
「あなたを、呼ぶ」
私は囁く。
「呼ぶ言葉は、まだない。でも、できる。いつか」
男の胸の欠片が、また、カチ、と鳴る。
「それ、きれい」
私は指で触れる。白い、板ガラスみたいな、小さな翼の形。
「もらってもいい?」
答えは、ない。
「預かる。あとで返す」
私はポケットに入れる。重さはない。音だけが、残る。
広場の端を、パトのサイレンが通り過ぎる。遠い音。誰も見ない。誰も覚えない。
「この街、学ばない」
私は呟く。老婆は頷く。
「そうさねえ。昔は、違った気もするけどねえ」
「違った」
私も頷く。それが、どう違ったか、言葉がない。
「ありがとう」
「いいよ」
老婆は去る。袋が揺れる。カラン、と瓶が鳴る。
私は男の横で膝を抱える。息を合わせる。数える。
「一、二、三」
音はある。
学びは眠っている。
でも、呼べば、起きる。起こす。私が呼ぶ。
男の指が、少し、動く。
「……」
声は出ない。
「聞こえる?」
私は顔を近づける。
返事はない。
「じゃあ、待つ。私の仕事」
私は笑ってみる。うまく笑えない。
指先がまだ冷たい。代償は残る。でも、悪くない。
午後になる前に、ここを出る。帳の縁は、午後の風で動く。紙片の向きが変わる。さっきの路地は、もう安全じゃない。
「歩ける?」
私は男に聞く。
「……」
「私が、連れていく」
ベンチの背をつかんで、彼の上体を起こす。肩を入れる。立たせる。
「ゆっくり」
私は歩幅を合わせる。
最初の十歩、音を数える。
足音が、距離どおり。
私たちは、歩ける。
曲がり角で、私は振り返る。さっきの廊下。照明。白い粉。紙片。
引き込みの線は、もう、ない。
「また来る」
私は小さく言う。
場所に、言った。場所は、何も言わない。
でも、次に来たとき、私はもっと言える。もっと呼べる。
その練習を、私はこれからする。彼と一緒に。
私は男の肩に顔を寄せる。呼吸が胸で上下する。生きている。
「ありがとう。来てくれて」
私が言う。彼は答えない。
いい。私は待つ。呼ぶ。返事を、いつか、もらう。
それが、私の最初の仕事。
風が、フェンスを鳴らす。
遠くで、また、瓶が転がる。
音は、ある。ここに。
――――――
白い欠片が、私のポケットの中で、もう一度だけ小さく鳴った。
「凪——」に似た、知らない呼び名が舌の先で形になる。
ベールの向こうで、誰かがこちらを「見ている」気配がした。




