久世守理緒の転生
「久世守さん。君、三十路も近いというのに、議事録すらマトモに書けないの? 要点がズレてるし、誤字脱字が多すぎて、読むに堪えないわ」
まただ。上司の、氷のように冷たい声が、私の心を抉る。
「久世守さん。このプレゼン資料、表の罫線が微妙にズレてる。何度言ったら分かるのかな? 基本中の基本でしょう」
まただ。同僚の、侮蔑を隠そうともしない視線が、突き刺さる。
(……もう、どうだっていいじゃない)
心の中で、私は、誰に言うでもなく呟いた。
そんな資料、どうせ誰も真剣には読まない。そんな罫線のズレ、誰も気付きやしない。
なのに、なぜ。
私、久世守理緒は、今日も、会社という名の閉鎖空間で、集中的なイジメにあっていた。「使えない奴」。誰もが、言葉にはせずとも、その視線で、態度で、雄弁にそう語りかけてくる。
新卒で、希望に満ちて配属されるはずだった、研究開発部門。それが、入社直前に起きた疫病による世界的不況で、配属予定の研究部は、あっけなく縮小された。
そして、何の因果か、私が回されたのは、営業部門。
あれから三年。ブラック企業の営業部で、私は、ただ、だらだらと、やる気のないOLの日々を過ごしている。
(……今とは違う、人生)
もし、あの時、疫病が流行っていなかったら。もし、配属されるのが、研究部だったら。もし、同僚が、もっと波長の合う人たちだったら。
そんな、あり得たかもしれない無数の可能性。その全ては、この、しがない現実へと収束してしまった。
実際に体験できるのは、不本意で、息の詰まるような、この人生だけ。
◆
長時間のサービス残業を終え、コンビニで買った侘しい夕食を片手に、冬の冷たい北風に吹かれながら、自宅のワンルームマンションへと、何とかたどり着く。
くたびれ果てた体で、いつものように、玄関の扉を開いた。
その、刹那。
唐突に、目を開けていられないほどの、眩い光に包まれた。
これが、物理的な現象なのか、あるいは、疲労しきった脳が見せている幻覚なのか。判断する間もなく、私の意識は、そこで、一度途切れた。
次に目を開けた時、光は失せ、見慣れたはずの自宅マンションも、消えていた。
夜だったはずなのに、今は真昼。冬だったはずなのに、じっとりとした夏の熱気が、肌を刺す。スーツを着ていたはずなのに、今、私が纏っているのは、汚くて、ボロボロの、穴の開いたワンピースのような服だった。
(……何、これ)
辺りを見回す。そこは、旅行番組で見たことがあるような、中世ヨーロッパの、鄙びた村だった。だが、観光地のような華やかさはなく、ひどく荒廃し、貧しい空気が漂っている。
古びた井戸のような水飲み場があった。恐る恐る、その水面を覗き込むと、そこに映っていたのは、全く見知らぬ、金髪碧眼の、美しい少女の姿だった。
十代前半に若返り、元の私より、ずっと美人で、スタイルもいい。
これって、やっぱり。
ネット小説で、何度も読んだ、アレ……?
ゲーム世界に行く、アレ……?
異世界に、転生した……?
だとしたら。
あの、無限社畜地獄の現実から、ついに、解放されたってこと!?
もし、そうなら!
OL時代に培った、中途半端な経済知識で、この世界の富を独占したり!
前世では何の取り柄もなかった、私の手料理が、文化レベルの差で絶賛されまくり、王子様や、眉目秀麗な貴族様に見初められたり!
はたまた、ほんの戯れで唱えた呪文が、とんでもない威力を発揮して、全てを吹き飛ばし、うっかり無双して、英雄と呼ばれてしまったり!
そんな、優越感と自己肯定感で、脳が満たされ続ける、気持ちのいい毎日が、私を待っている……!?
「……!」
社畜生活で完全に死滅したと思っていた夢と希望が、騒がしく動き出し、私の頭の中で、変な妄想が、果てしなく広がっていく。
妄想が最高潮に達した、その時だった。
何の前触れもなく、脳内に、直接、声が響いてきた。
『……どうやら、定着に成功したようだな』
(神様!? 転生、ありがとうございます! それで、転生ボーナスは、何が貰えるんですか!?)
私は、ワクワクしながら、その声の主に、問いかけた。
『……やはり、知性は、この程度か。だが、それでいい。これより、この世界に文化汚染を与える、お前の前世からの優位知識を、完全に抹消する』
「……え?」
『一般的な村人と同等の基本知識と、感情だけは残してやろう。ただの村人として、ここで生きるがいい』
(ま、待って! 例え村人でも、魔力だけは常人の一万倍とか、全属性適性とか、そういうのは……!)
『魔力だと? そのような不確定なものに頼ろうとは。さすがはジャンクデータだ。良いか、お前は、ただの一般人にすぎん』
まさかの、ゼロ回答。
私の、楽々異世界チートライフの野望が、音を立てて、崩れ去った。
(……嘘でしょ?)
こんな、生存競争の厳しそうな、世紀末的な村で、ただの一般人、しかも魔力もない、か弱い少女として、暮らす?
元いた世界の、あのブラック企業の方が、どれだけマシだったか。
酷すぎる。元の現実より、悪い現実に転生させるなんて。
「説明して! チートもないのに、何で、こんな危ない世界で、暮らさなきゃいけないのよ! 元の世界に、帰して!」
私が、声を張り上げて抗議する。
だが、その声は、虚しく空を切るだけだった。
『チート? まさに、クズの思考だ。……だが、それこそが、想定通り。それで、いい』
その、悪魔のような声が、最後にそう告げると、私の意識は、海の底へと沈んでいくように、急速に遠のいていった。
そして、何か、大切なものが、頭の中から、ごっそりと、削り取られていくような、奇妙な感覚に、襲われた。
それが、私の最後の記憶だった。
読んで頂きありがとうございます。
ブクマや☆での評価・応援、どうかよろしくお願いします。




