第75話 黄緑色の死神
峡谷の入り口に陣取った科研部隊の周囲では、工兵たちが大急ぎで巨大な陶磁器製のタンクを並べ、配管を接続していた。
その異様な光景を、前線の兵士たちは不審げに見つめている。
タンクには厳重な封印が施され、ドクロのマークが描かれている。それは、中身が極めて、ろくなものでない証拠でもある。
「陛下! もう限界です! 前衛部隊が持ちこたえられません!」
モルトケ参謀総長が、悲鳴に近い声を上げる。
目の前では、ゲメリア軍の肉の壁が、帝国軍の防衛線を食い破ろうとしていた。
魔族の爪が兵士を引き裂き、聖堂騎士の魔法が陣地を吹き飛ばす。
一刻の猶予もない状況だ。
「陛下! 早く攻撃命令を! このままでは戦線が崩壊しますぞ!」
だが、私は動かない。
懐中時計と、簡易的な風速計を交互に見つめ、ただ沈黙を守っていた。
「……まだよ」
「しかし!」
「今、散布すれば、風の乱れで味方に被害が出る。それに、敵の主力はまだ谷の半分までしか入っていない」
私の声は、氷のように冷たかった。
「一匹たりとも逃がすわけにはいかないのよ。完全に、袋のネズミになるまで待つの」
モルトケは、蒼白な顔で口を結んだ。彼には分かっているのだ。私がやろうとしていることが、どれほど残虐で、騎士道にもとる行為であるかが。
一方、スコルツェニー将軍は、巨大な戦斧を握りしめながら、不気味なタンクを興味深そうに眺めている。
「これは一体、何ですかな。フン、ゲメリア兵どもを纏めて葬れるなら、手段など選んではおれんが……」
上空では、天使たちが悠々と旋回し、時折、地上へ向けて光の矢を放っている。
彼らは余裕だ。地上の争いなど、高みの見物に過ぎないと思っている。
(……笑っていられるのも今のうちよ)
私は空を見上げ、小さく舌打ちをした。
風が変わる。
肌に触れる空気の湿度が上がった。谷底へ向かって、重く湿った空気が流れ込み始める。
「……風速3、風向、北北西。気圧低下」
条件は整った。
ゲメリア軍の主力三万が、完全に峡谷の底、我々の射線上に密集している。
「モルトケ。全軍に伝令。『ガスマスク』を装着せよ」
「は、はっ! 全軍、マスク装着! 繰り返す、マスク装着!」
モルトケの号令で、ドラのような鐘の音が鳴らされた。
事前に訓練を受けていた帝国兵たちが、慌てて腰の袋から奇妙な面を取り出し、顔に装着する。
豚の鼻のようなフィルターがついた、無骨で不気味なマスク。視界が制限され、呼吸も苦しいが、これこそが唯一の命綱だ。
それを見たゲメリアの騎士たちが、嘲笑うように指差した。
「なんだそのふざけた面は! 恐怖で顔を隠したか!」
「神の光は、そのような物では防げんぞ! 滅せよ、異端者ども!」
彼らは知らない。
それが、これから始まる地獄への、入場券を持たざる者の末路であることを。
「作戦開始。『死の霧』を解放せよ」
私が右手を振り下ろすと同時に、工兵たちが一斉にバルブを開いた。
シューッ……!!
耳障りな噴出音と共に、タンクから溢れ出したのは、黄緑色の、重く澱んだ気体だった。
塩素ガス。
岩塩を電気分解して精製し、高圧で圧縮した、純粋な毒の塊。
空気より重いその猛毒の霧は、風に乗って谷底へと流れ落ち、まるで生きている蛇のように、密集するゲメリア軍の足元へと忍び寄った。
「なんだ、この霧は? 目隠しか?」
「構わん、突撃せよ! 神のご加護があら……ごふっ!?」
先頭で指揮を執っていた聖堂騎士が、突如として喉をかきむしり、馬から転げ落ちた。
それを合図に、峡谷は一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝と化した。
「あがっ、ご、ぼぉぉぉ……!」
「息が、息ができな……!?」
「目が、目が焼けるぅぅぅ!」
痛みを感じないはずのゾンビ兵たちが、喉を焼かれる激痛にのたうち回る。
いかに痛覚を遮断されていようと、化学物質によって肺胞が焼かれ、物理的に酸素を取り込めなくなれば、生物としての活動は強制的に停止する。
皮膚はただれ、目からは血の涙が流れ、口からは泡を吹く。
さらに、強靭な肉体を持つ魔族たちにとっても、この毒は劇薬だった。
彼らの高い代謝機能が災いし、毒を急速に全身へ巡らせてしまうのだ。
岩をも砕く剛腕の魔族が、喉を押さえて地面を転がり、苦悶の咆哮を上げて絶命していく。
「魔法障壁を展開しろ! 風魔法で吹き飛ばせ!」
後方の魔導師たちが叫ぶが、遅い。
障壁は物理攻撃や魔力には強いが、ただの「気体」の浸透を防ぐようにはできていない。
そして、詠唱しようと口を開いた瞬間、肺いっぱいに毒ガスを吸い込み、その声は永遠に失われる。
谷底は、一瞬にして、音のない、のた打ち回る死の舞踏場へと変貌した。
剣を振るう音も、鬨の声も消え、聞こえるのは、肺が焼けるジュルジュルという不快な音と、苦悶の呻き声だけ。
「ひ、卑劣な……! 毒だと!? 神聖なる戦場に、このような穢れた手段を!」
上空の天使たちが、信じられないものを見る目で叫ぶ。
彼らは高度をとってガスから逃れているが、地上の惨状に手出しができない。
味方が、虫けらのように駆除されていくのを、ただ見下ろすことしかできなかった。
「……これが、科学の戦争」
双眼鏡を覗いていたモルトケの手が、ガタガタと震えている。
そこには、騎士道精神も、魔法のような華々しさもなかった。
あるのは、計算され尽くした効率と、吐き気を催すほどの惨たらしい現実。
一方的な、虐殺。
「なんと……恐ろしい。魔法を使わずとも、ここまで人を殺せるとは……」
スコルツェニーもまた、絶句していた。
彼は力を崇拝するが、これは「力」という概念すら超えた、ただの「現象」による抹殺だ。
「ええ。汚くて、残酷で……合理的でしょう?」
私は、ガスマスク越しに冷たく言い放った。
胸の奥の「リオ」が悲鳴を上げているのを、理性の檻に押し込める。
ここで情けをかければ、殺されるのは私たちだ。
「地上の掃除は終わったわ。……次は、お空のハエを叩き落とす番ね」
私は、空を見上げた。
毒ガスの海の上で、行き場を失って旋回する天使たち。
彼らはまだ、自分たちが安全圏にいると思っている。
「準備はいいわね、アノン。……例の『鳥かご』を開けて」
背後に控えていたアノンが、無言で頷き、合図を送った。
巨大な幌が取り払われ、無数の木箱が姿を現す。
中から聞こえるのは、数百羽の羽音と、飢えた鳴き声だった。
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