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二計画  作者: 喰ったねこ
第六章:神聖国戦編
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第75話 黄緑色の死神

峡谷の入り口に陣取った科研部隊の周囲では、工兵たちが大急ぎで巨大な陶磁器製のタンクを並べ、配管を接続していた。

その異様な光景を、前線の兵士たちは不審げに見つめている。

タンクには厳重な封印が施され、ドクロのマークが描かれている。それは、中身が極めて、ろくなものでない証拠でもある。


「陛下! もう限界です! 前衛部隊が持ちこたえられません!」


モルトケ参謀総長が、悲鳴に近い声を上げる。

目の前では、ゲメリア軍の肉の壁が、帝国軍の防衛線を食い破ろうとしていた。

魔族の爪が兵士を引き裂き、聖堂騎士の魔法が陣地を吹き飛ばす。

一刻の猶予もない状況だ。


「陛下! 早く攻撃命令を! このままでは戦線が崩壊しますぞ!」


だが、私は動かない。

懐中時計と、簡易的な風速計を交互に見つめ、ただ沈黙を守っていた。


「……まだよ」


「しかし!」


「今、散布すれば、風の乱れで味方に被害が出る。それに、敵の主力はまだ谷の半分までしか入っていない」


私の声は、氷のように冷たかった。


「一匹たりとも逃がすわけにはいかないのよ。完全に、袋のネズミになるまで待つの」


モルトケは、蒼白な顔で口を結んだ。彼には分かっているのだ。私がやろうとしていることが、どれほど残虐で、騎士道にもとる行為であるかが。

一方、スコルツェニー将軍は、巨大な戦斧を握りしめながら、不気味なタンクを興味深そうに眺めている。

「これは一体、何ですかな。フン、ゲメリア兵どもを纏めて葬れるなら、手段など選んではおれんが……」


上空では、天使たちが悠々と旋回し、時折、地上へ向けて光の矢を放っている。

彼らは余裕だ。地上の争いなど、高みの見物に過ぎないと思っている。


(……笑っていられるのも今のうちよ)


私は空を見上げ、小さく舌打ちをした。

風が変わる。

肌に触れる空気の湿度が上がった。谷底へ向かって、重く湿った空気が流れ込み始める。


「……風速3、風向、北北西。気圧低下」


条件は整った。

ゲメリア軍の主力三万が、完全に峡谷の底、我々の射線上に密集している。


「モルトケ。全軍に伝令。『ガスマスク』を装着せよ」


「は、はっ! 全軍、マスク装着! 繰り返す、マスク装着!」


モルトケの号令で、ドラのような鐘の音が鳴らされた。

事前に訓練を受けていた帝国兵たちが、慌てて腰の袋から奇妙な面を取り出し、顔に装着する。

豚の鼻のようなフィルターがついた、無骨で不気味なマスク。視界が制限され、呼吸も苦しいが、これこそが唯一の命綱だ。


それを見たゲメリアの騎士たちが、嘲笑うように指差した。


「なんだそのふざけた面は! 恐怖で顔を隠したか!」

「神の光は、そのような物では防げんぞ! 滅せよ、異端者ども!」


彼らは知らない。

それが、これから始まる地獄への、入場券を持たざる者の末路であることを。


「作戦開始。『死の霧』を解放せよ」


私が右手を振り下ろすと同時に、工兵たちが一斉にバルブを開いた。


シューッ……!!


耳障りな噴出音と共に、タンクから溢れ出したのは、黄緑色の、重く澱んだ気体だった。

塩素ガス。

岩塩を電気分解して精製し、高圧で圧縮した、純粋な毒の塊。

空気より重いその猛毒の霧は、風に乗って谷底へと流れ落ち、まるで生きている蛇のように、密集するゲメリア軍の足元へと忍び寄った。


「なんだ、この霧は? 目隠しか?」

「構わん、突撃せよ! 神のご加護があら……ごふっ!?」


先頭で指揮を執っていた聖堂騎士が、突如として喉をかきむしり、馬から転げ落ちた。

それを合図に、峡谷は一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝と化した。


「あがっ、ご、ぼぉぉぉ……!」

「息が、息ができな……!?」

「目が、目が焼けるぅぅぅ!」


痛みを感じないはずのゾンビ兵たちが、喉を焼かれる激痛にのたうち回る。

いかに痛覚を遮断されていようと、化学物質によって肺胞が焼かれ、物理的に酸素を取り込めなくなれば、生物としての活動は強制的に停止する。

皮膚はただれ、目からは血の涙が流れ、口からは泡を吹く。


さらに、強靭な肉体を持つ魔族たちにとっても、この毒は劇薬だった。

彼らの高い代謝機能が災いし、毒を急速に全身へ巡らせてしまうのだ。

岩をも砕く剛腕の魔族が、喉を押さえて地面を転がり、苦悶の咆哮を上げて絶命していく。


「魔法障壁を展開しろ! 風魔法で吹き飛ばせ!」


後方の魔導師たちが叫ぶが、遅い。

障壁は物理攻撃や魔力には強いが、ただの「気体」の浸透を防ぐようにはできていない。

そして、詠唱しようと口を開いた瞬間、肺いっぱいに毒ガスを吸い込み、その声は永遠に失われる。


谷底は、一瞬にして、音のない、のた打ち回る死の舞踏場へと変貌した。

剣を振るう音も、鬨の声も消え、聞こえるのは、肺が焼けるジュルジュルという不快な音と、苦悶の呻き声だけ。


「ひ、卑劣な……! 毒だと!? 神聖なる戦場に、このような穢れた手段を!」


上空の天使たちが、信じられないものを見る目で叫ぶ。

彼らは高度をとってガスから逃れているが、地上の惨状に手出しができない。

味方が、虫けらのように駆除されていくのを、ただ見下ろすことしかできなかった。


「……これが、科学の戦争」


双眼鏡を覗いていたモルトケの手が、ガタガタと震えている。

そこには、騎士道精神も、魔法のような華々しさもなかった。

あるのは、計算され尽くした効率と、吐き気を催すほどの惨たらしい現実。

一方的な、虐殺。


「なんと……恐ろしい。魔法を使わずとも、ここまで人を殺せるとは……」


スコルツェニーもまた、絶句していた。

彼は力を崇拝するが、これは「力」という概念すら超えた、ただの「現象」による抹殺だ。


「ええ。汚くて、残酷で……合理的でしょう?」


私は、ガスマスク越しに冷たく言い放った。

胸の奥の「リオ」が悲鳴を上げているのを、理性の檻に押し込める。

ここで情けをかければ、殺されるのは私たちだ。


「地上の掃除は終わったわ。……次は、お空のハエを叩き落とす番ね」


私は、空を見上げた。

毒ガスの海の上で、行き場を失って旋回する天使たち。

彼らはまだ、自分たちが安全圏にいると思っている。


「準備はいいわね、アノン。……例の『鳥かご(ピースメーカー)』を開けて」


背後に控えていたアノンが、無言で頷き、合図を送った。

巨大な幌が取り払われ、無数の木箱が姿を現す。

中から聞こえるのは、数百羽の羽音と、飢えた鳴き声だった。

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