第74話 聖戦
ロキヌス帝国北部、山岳地帯。
険しい山脈を断ち割るように走る「嘆きの峡谷」は、古来より帝国への侵入を阻む天然の要害であり、帝都ガラドへと続く街道を守る最後の砦でもあった。
もしここを突破されれば、敵軍は広大な穀倉地帯へとなだれ込み、そのまま帝都まで一直線に進撃することが可能となる。
まさに、帝国の喉元。絶対防衛ラインである。
峡谷を見下ろす岩場に設置された前線司令本部では、帝国軍参謀総長モルトケが、血走った目で戦況図を睨みつけていた。
「第一陣地、壊滅! 生存者からの応答ありません!」
「左翼の岸壁より、魔族の別動隊が出現! 迎撃部隊が食い止められません!」
飛び交うのは、悲鳴にも似た報告ばかりだ。
モルトケは、地図を握りしめる手を震わせた。
「馬鹿な……。地の利はこちらにあるはずだ。狭い峡谷ならば、少数でも大軍を食い止められるはず……。それが、なぜこうも脆く崩される!?」
彼の軍事的常識が、音を立てて崩壊していく。
その横で、巨躯の猛将スコルツェニー将軍が、忌々しげに舌打ちをした。
「常識が通じる相手ではないからだ、参謀総長。見ろ、あれを」
スコルツェニーが指差した峡谷の底には、この世の終わりのような光景が広がっていた。
◆
峡谷の底では、帝国軍の兵士たちが、泥と硝煙にまみれながら、絶望的な戦いを強いられていた。
彼らが装備しているのは、配備されたばかりの最新鋭のマスケット銃と、急造されたバリケードだ。
訓練通りに隊列を組み、斉射を行う。
ドォン! ドォン!
轟音と共に、鉛の弾丸がゲメリア軍の先頭を行く聖堂騎士たちに吸い込まれる。
普通の人間なら、一発で行動不能になる威力だ。
事実、何人もの騎士が弾丸を受け、血飛沫を上げて倒れた。
だが――。
「な、なんだコイツら……!」
帝国兵の一人が、震える声で呻く。
倒れたはずの騎士が、ゆらりと立ち上がったのだ。
腹に風穴が空き、腕が吹き飛んでいるにも関わらず、その顔には恍惚とした笑みが張り付いている。
「神は我らと共にあり! 痛みなど、信仰の前では無に等しい!」
騎士たちは、血を撒き散らしながら、止まることなく前進を再開する。
恐怖を感じない。痛みを感じない。死ぬまで止まらない。
それは軍隊ではなく、殺意を持った肉の津波だった。
「ひるむな! 次弾装填! 撃てぇ!」
指揮官が叫ぶが、兵士たちの手は恐怖で震え、装填がままならない。
その隙に、敵の随伴戦力である下級魔族の群れが、壁を走るようにしてバリケードを乗り越えてきた。
「ギャアアアア!」
鋭い爪が兵士を引き裂く。
物理的な暴力と、狂信的な突撃。
地上戦力が崩壊寸前となったその時、さらなる絶望が空から降り注いだ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
空気を切り裂く音と共に、後方の兵站陣地が次々と爆発する。
「上だ! 天使だ!」
兵士が見上げた空には、逆光を浴びて輝く、美しい翼を持った人影が舞っていた。
ゲメリアの「天使」部隊。
彼らは、戦場の遥か上空、マスケット銃の射程外から、高威力の攻撃魔法を雨のように撃ち下ろしていたのだ。
「くそっ、届かない!魔法使い隊、迎撃しろ!」
帝国軍の魔術師たちが応戦の火球を放つが、天使たちは空中で華麗に舞い、いともたやすく回避する。
その動きは、生物としての飛行能力を超越していた。重力を無視した機動。
まるで、空中に見えないレールが敷かれているかのようだ。
「おのれ、ハエどもが……! 私が空を飛べれば、一匹残らず叩き落としてくれるものを!」
スコルツェニー将軍が、地団駄を踏んで悔しがる。
彼の剛力も、魔法による身体強化も、空を飛ぶ敵には届かない。
「陛下はまだ来ぬのか!」
モルトケがうめくようにつぶやく。
「愚かな……地を這う虫けらが、天に届くと思うてか」
天使の一人が、無感情な声で呟き、杖を振るう。
放たれた極大の雷撃が、司令本部のある岩場を直撃した。
ズガァァァン!!
岩盤が砕け、モルトケとスコルツェニーが吹き飛ばされる。
指揮系統の寸断。
それは、敗北の決定的な合図だった。
「もうダメだ……勝てるわけがない……」
「神よ……お許しください……」
武器を捨て、祈り始める兵士たち。
バリケードが突破され、ゲメリア軍の濁流が、峡谷の奥へと雪崩れ込もうとしていた。
このままでは、帝都への道が開かれる。
ロキヌス帝国は、今日、終わる。
誰もがそう確信した、その時だった。
峡谷の出口の方角から、地響きのような音が近づいてきた。
それは、軍靴の足音ではない。
もっと重く、機械的で、規則正しい音。
そして、立ち上る黒い煙。
蒸気機関を搭載した輸送車輌と、それを取り囲む黒衣の軍団。
その先頭に立つ、一台の異様な車(指揮車)が、逃げ惑う味方の兵士たちをかき分けるようにして、戦場の最前線で停止した。
扉が開き、一人の少女が降り立つ。
漆黒の軍服。黄金の髪。そして、地獄のような戦場には似つかわしくない、冷徹なまでに落ち着き払った空色の瞳。
「陛下!」
瓦礫の中から這い出したモルトケが、救世主を見る目で叫ぶ。
スコルツェニーもまた、血を拭いながら、凶悪な笑みを浮かべた。
「お待ちしておりましたぞ、陛下! ……奴ら随分と、喰い散らかしてくれました」
「ええ。散らかし放題ね」
彼女――皇帝リオ・フォン・ロキヌスは、迫りくる死の軍勢を見ても、眉一つ動かさなかった。
むしろ、その口元には、獲物を見つけた猛獣のような、凶悪な笑みが浮かんでいた。
「総員、位置につけ。……大掃除の時間よ」
彼女の背後で、科研の技術者たちと工兵隊が、巨大な陶磁器のタンクや、奇妙な鉄の筒を、手際よく展開し始めた。
絶望に沈んでいた峡谷に、新たな、そして異質な戦いの風が吹き始めた。




