閑話 深海の巨影と、少年が見つけた神話
カルテラドスから船で数日行ったところにある、サパー共和国首都アイアンポート。
大陸有数の貿易港であるこの街は、常に熱気と喧騒、そして欲望の匂いに満ちている。
その港の裏通りにある、薄暗い酒場の一角。
紫煙が漂うテーブルで、まだあどけなさの残る少年――バーンは、一人の老漁師と向き合っていた。
かつての彼は、ホパ村で畑を耕すだけの純朴な少年だった。
だが、今の彼の瞳に、田舎少年のおどおどした色は微塵もない。
あの時、聖女様から託された「使いきれないほどの莫大な資金」。それを元手に商会を立ち上げ、海千山千の商人たちと渡り合い、時には騙し、時には頭を下げて、彼は「若き商会長」としての顔を手に入れていた。
「……で、爺さん。あんたが見たっていう『銀の山』の話、詳しく聞かせてくれよ」
バーンが、テーブルの上に金貨を数枚、チャリと積み上げる。
薄暗いランプの光に煌めく黄金に、老漁師はゴクリと喉を鳴らした。
「ああ……ありゃあ、ただの山じゃねえ。悪魔の墓場だ」
漁師は震える手でジョッキを煽り、声を潜めた。
「アイアンポートから沖へ出て南へ三日。潮流が激しくて、まともな船乗りなら近づかねえ『魔の三角海域』がある……。先日の大嵐の後、海が凪いで、驚くほど水が澄んだ日があったんだ。俺はそこで見たんだよ」
「何をだ?」
「俺の船には、魚群を探すために『探知魔法』が得意な魔術師を乗せてるんだがな……そいつが腰を抜かしたんだ。
魚じゃねえ。海の底に、とてつもなく巨大な人工物が沈んでるのが『視えた』ってな」
老漁師の言葉に、バーンは眉をピクリと動かした。
沈没船や、古代文明の遺跡の話なら、酒場の与太話としていくらでも転がっている。だが、漁師は「人工物」と言った。
「岩じゃねえ。明らかに誰かが作った、デカい城みたいな反応だったそうだ。
いいか、坊主。魔術師が言うには、あんな深い海に、あんなデカいもんを作れる人間なんざいねえ。ありゃあ、人が触れちゃならねぇもんだ」
バーンの胸中で、直感が激しく警鐘を鳴らした。
彼が世界中を飛び回り、必死に探しているもの。それは金銀財宝ではない。
リオ様が愛用している「自動拳銃」や、自分を瀕死の重傷から治療した不思議な「棺」と同じ――この世界の魔法文明とは異なる理で作られた何かかもしれない。
「海底に沈む巨大な人工物」その言葉が、バーンの中でカチリと噛み合った。
「案内してくれ。報酬は弾む」
「よ、よせ! あそこには近づくな! あの海域から帰ってこれない船も多いんだぞ! 命が惜しくねえのか!」
「構わない。僕には……あの方に届けなきゃいけないものがあるから」
バーンは、テーブルの下で強く拳を握りしめた。
聖女様は、僕に大金を預けてくれた。
だからこそ、単にお金を増やすだけじゃダメだ。
あの方は強い。けれど、時折見せる表情には孤独と焦燥が見える。
あの方が本当に必要としている「力」を、僕が見つけ出さなきゃいけないんだ。
◆
数日後。
バーンは、自身が購入した商船のデッキに立ち、荒れ狂う海を睨みつけていた。
『魔の三角海域』の名は伊達ではない。
空は鉛色に淀み、高いうねりが船体を木の葉のように揺らす。船酔いで顔色を悪くした船員たちが、恐怖に引きつった顔で作業を続けている。
「……オーナー! まだ進むんですか! これ以上は危険です!」
操舵手が悲鳴を上げるが、バーンは揺るがない。
「まだだ! 魔術師、探知を続けろ! 海底の様子を詳細に探るんだ!」
バーンが雇い入れた、高名な探索が得意な魔術師が、甲板の先端で杖を掲げ、詠唱を続けている。
彼は海中の水流と魔力を同調させ、ソナーのように周囲の地形を脳内に描く魔法《深淵の視界》を行使していた。
「……くっ、深い! 深度800……魔力が拡散して……!」
魔術師が脂汗を流す。
だが、次の瞬間。彼の閉じた瞼の裏に、ある「形」が結ばれた。
「こ、これは……!?」
魔術師が絶句し、魔力によって空中に投影された青白い水の幻影に、バーンも息を呑んだ。
そこに映し出されていたのは、常識を絶する巨大構造物だった。
海底の断崖に突き刺さるようにして、巨大な何かが鎮座している。
その大きさは、カルテラドスの街はおろか、王都すらもすっぽりと入ってしまうかもしれない。
自然の岩山ではない。直線と曲線で構成された、冷徹で幾何学的なデザイン。
装飾の一切ない、機能美のみを追求した銀色の巨塊。
それは、明らかに「人の手」によって作られたものだったが、同時に、この世界の建築様式とは決定的に異なっていた。
「な、なんだこれは……。遺跡? 神殿? ……」
魔術師が震える声で呟く。
魔法越しですら伝わってくる、圧倒的な威圧感。
冷たく、鋭利で、人間を拒絶するかのような鉄の城。
バーンの背筋に、戦慄が走った。
間違いない。これだ。
この「異質な気配」こそが、聖女様の持つ武器と同じ匂いを放っている。
これは、ただの遺跡じゃない。
「……リオ様が探しているものなのか」
バーンは無意識に呟いていた。
これが何なのか、誰が作ったものなのか、彼には分からない。
だが、これがあれば、あの方は――。
「……オーナー! これ以上の滞在は不可能です! 船が持ちません!」
船長の叫び声で、バーンは我に返った。
波はいよいよ高く、船体のきしむ音が限界を告げている。
今の装備で、生身の人間が深海へ潜ることなど不可能だ。
「……座標を記録しろ! 誤差は許さない!」
バーンは叫んだ。
「すぐにこの海域を離脱するぞ! 全速で港へ戻れ!」
「探索しないんですか、オーナー!?」
「ああ。今の僕たちじゃ、この扉を叩くことすらできない……出直すしかないさ」
船が大きく回頭し、魔の海域から逃れるように加速を始める。
バーンは、しぶきを上げる船尾に立ち、海面の下に眠る深海の巨影を見つめ続けた。
今はまだ、手が届かない。
だが、場所は突き止めた。
バーンは、懐の羊皮紙に記された座標を強く抱きしめ、前を見据えた。




