第69話:断罪
セラス殿下のリードは、エイデン殿下とは対照的に、激しく、そして情熱的だった。
私の腰を抱く腕は強く、まるで逃がさないと言わんばかりだ。
本来なら、このような強引さは不快に感じるはずだった。
だが、今の私には、その強さが、どこか頼もしく、心地よく感じられてしまう。
「……悪くない」
セラス殿下が、私の耳元で囁く。
普段の傲慢な響きはなりを潜め、そこには、不器用な男が精一杯絞り出したような、熱い色が滲んでいた。
「貴様は生意気で、可愛げがなく、理解不能な女だ。……だが、僕の心をここまで掻き乱したのは、お前が初めてだ」
その言葉と共に、曲のテンポが上がる。
回転の遠心力で、視界が光の渦に溶けていく。
シャンデリアの輝き、貴族たちの羨望の眼差し、そして目の前にいる、美しい王子の瞳。
(……ああ、綺麗)
ふと、そんな感想にこころが染め上がる。
戦場での硝煙も、血の臭いも、ここにはない。
あるのは、薔薇の香りと、甘い音楽と、確かな私への好意だけ。
曲が終わり、私たちは立ち止まる。
すぐにエイデン殿下が駆け寄ってきて、私のもう片方の手を取った。
「リオ、素晴らしかったよ。君は、どんな音楽でも踊りこなせるんだね」
「兄上、割り込むな。今は僕の時間だ」
「いいや、彼女は皆の希望だ。独り占めは良くないぞ」
二人の王子が、私の左右に立ち、私を巡って静かな火花を散らす。
それは、物語の中だけの出来事だと思っていた、至高のシチュエーション。
周囲からは、ため息のような称賛の声が聞こえてくる。
『なんてお似合いなのかしら……』
『彼女こそ、まさしく、大聖女、未来の王妃にふさわしい……』
誰も、私を否定しない。
誰も、私を殺そうとしない。
ただ、愛され、求められ、肯定される世界。
(……もう、いいんじゃないかな)
ふと、そんな思いが頭をもたげた。
私は、疲れている。
前世からずっと、戦って、逃げて、また戦って。
誰かを殺し、誰かに恨まれ、死線をさまよう日々。
でも、ここなら。
この「シナリオ」にさえ身を委ねてしまえば。
私は、もう戦わなくていい。
エイデン殿下の優しさに甘え、セラス殿下の強さに守られ、ただの「幸せな女の子」として生きていける。
それがどんなものであれ、例え偽物の記憶だとしても、私じゃない別の作られた人格だとしても。
今、ここにある温もりは、こんなにも心地いいのだから。
そうして、私は、彼の手により一層体重を預けようとした。
◆
会場の隅、光の届かない柱の影で。一人の男が、冷ややかな瞳でこの狂乱を見つめていた。
アノン。彼は腕を組み、壁に背を預けているだけに見える。だが、その眉間には微かな皺が刻まれていた。
(……気持ち悪い)
煌びやかな舞踏会。幸せそうな笑顔。完璧だ。あまりに、完璧すぎる。周囲の貴族たちの笑顔は、皆同じに見える。会場を満たす甘い香りは、戦場で嗅ぐ「腐臭」よりも遥かに、彼の防衛本能を逆撫でした。
そして何より、彼の最優先護衛対象が、その甘い泥沼に沈みかけ毒気を抜かれたような、夢を見る少女のような顔をしているのが気に入らない。
――おい。いつまでボケっとしている。
彼は無言で吐き捨てると、組んでいた腕を解き、懐へと手を入れた。大声を出す必要はない。彼女の魂の奥底に刻み込まれているのは、ドレスの擦れる音でも、愛の囁きでもない。
ワルツが最高潮に達し、リオが王子たちに身を預けようとした、その瞬間。
カチリ。
甘い旋律の裏側で、小さく、けれどあまりに異質な「金属音」が響いた。鋼鉄のバネが圧縮され、撃鉄が起きる、殺意の始動音。
◆
(……っ!?)
私の背筋に、氷柱を突き刺されたような戦慄が走った。反射的に体が硬直する。それは、貴族の令嬢としてではない。戦場を生き抜いてきた戦士としての条件反射だった。
私は弾かれたように顔を上げ、音のした方角――闇の落ちる場所に目を走らせる。瞬間的に彼と目が合う。
皆が嬉しそうにしているのに、彼だけが笑っていない。
アノンは、懐に手を入れたまま、殺気を放っていた。その指が、愛用のリボルバーの撃鉄を弾いているのが、見えなくても分かる。
(……馬鹿な。私は何を、腑抜けたことを)
一瞬で、脳内の麻薬が霧散する。私は自分の頬を心の中で強く張り飛ばした。目が覚める。世界の色が変わる。キラキラと輝いていたシャンデリアはただの照明に。温かかった王子の手は、生温かい肉の拘束具へと変わった。
彼は、この空間の「嘘」を肌で感じ取っていたのだ。彼だけが、酔っていない。彼だけが、この花園の中で、泥と鉄の匂いを纏ったまま、私の背中を守っている。
なのに、私は何をしている?
彼を、「戦場」に置き去りにして。
私だけが、フカフカのベッドで、微睡もうとしているのか?
(……馬鹿な)
私は、自分の頬を、心の中で強く張った。
目が覚める。
霧が晴れ、視界がクリアになる。
改めて見る会場は、異様だった。
生徒たちの笑顔は、判で押したよう。
王子たちの言葉も、どこか上滑りしている。
これは「幸せ」なんかじゃない。
ただの、作り出されたまがい物だ。
私は、そっと、しかし力強く、二人の王子の手を離した。
「……リオ?」
「申し訳ありません、殿下。……少し、立ち眩みがしたようです」
私の声は、もう震えていなかった。
そこにあるのは、甘えるような響きではなく、戦場に立つ指揮官の、冷徹な響き。
「夢を見るのは、ここまでにいたしますわ」
私は、ヒロインを演じる実験をここでやめた。このままヒロインになれば、確かに安らぎは得られるのかもしれない。でも、私が私でなくなってしまう。
私は、ドレスの裾を払う。
その仕草は、優雅な令嬢のものではなく、戦闘服の調子を確かめる戦士のものだった。
私の変化に、アノンが気づいたようだ。
遠く離れた場所で、彼が、こちらを見て呆れたように小さく肩をすくめたのが見えた。
――正気に戻ったか?
そんな声が、聞こえた気がした。
そして、私の覚醒と共に、会場の入り口から大声が響き渡った。
「――いい加減になさい!この泥棒猫!」
夢見心地のような時間は、唐突に、そして暴力的に断ち切られた。
私と二人の王子の間に、割り込むようにして現れたのは、セレニティ・ナイジェルと、それに付き従う見知らぬ聖職者風の男だった。
セレニティの形相は、凄まじかった。
美しい顔は嫉妬と憎悪で歪み、呼吸は荒く、瞳孔は極限まで開いている。
「わたくしのセラス様に……よくも、よくもベタベタと……!この、汚らわしい田舎娘が!」
「おい、セレニティ。言葉を慎め」
セラスが不快そうに眉をひそめるが、彼女の耳には届いていないようだった。
彼女の口から紡がれる言葉は、次第に支離滅裂になっていく。
「貴女は……ヒロイン……わたくしが、悪役……わたくしが……ヒロイン……貴女が悪役……悪役は断罪……断罪断罪断罪」
(……なに?)
彼女の様子がおかしい。
まるで、壊れたレコードのように、同じ単語を繰り返し、痙攣している。
そして、唐突に叫び声を上げた。
「あの女が、私のドレスを汚して嫌がらせを!」
いや、おかしいのは彼女だけではないようだ。
それは先ほどまで私に愛をささやいていた、すぐ目の前にいる王子達も同じだった。
「リオ・ウィ・サンジェルマン令嬢。貴様の罪を断罪する。いたいけなセレニティに嫌がらせだと!」
セラス王子が、先ほどとは打って変わった、氷のように冷たい声で私を責め立てる。
その瞳からは、先程までの熱っぽい感情が完全に消え失せ、ガラス玉のような無機質な光だけが宿っていた。
(ドレスを汚されて、嫌がらせされたのは私の方なんですけど!? メアリーが泣いてたわ)
理不尽にも程がある。
だが、彼らは止まらない。
「弟の婚約者で大聖女候補のセレニティ公爵嬢に害を加えるなど、ナブラ王国への反逆、万死に値する」
エイデン王子までもが、能面のような顔で私を断罪しはじめた。
その手は、既に剣の柄にかかっている。
(……なるほど。私が王子達との夢から覚めて、ヒロイン役を降りたから)
シナリオが、壊れたのか。
いや、『懐柔失敗』と判断し、強制的に『断罪排除ルート』へと舵を切ろうとしている?
『いたいけ』なのは私の方なのに。
そう毒づきながらも、私の口元には、自然と冷笑が浮かんでいた。
これでいい。
甘ったるいお人形遊びより、殺意に満ちた戦場の方が、私にはお似合いだわ。
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