閑話 あのとんでもない女【セラス王子視点】
一体、いつからだろうか。あの女のことが、頭の片隅から離れなくなったのは。
リオ・ヴィ・サンジェルマン。サンジェルマン公爵の隠し子にして、第三の大聖女候補。そして今や、西方の軍事大国ロキヌスの玉座に君臨する女帝。数多の肩書を持つその女が、僕、セラス・フォン・ナブラの心を、これほどまでに掻き乱す存在になるとは、初めは思いもしなかった。
最初の印象は、最悪だった。謁見の間での無礼な態度、アザック大魔導士との前代未聞の決闘。全てが常識外れで、貴族としての品位の欠片もない、ただの成り上がりの田舎娘。そう断じて切り捨てていたはずだった。
だが、違った。
あの舞踏会の夜、ロキヌス使節団が隠し持っていた『禁断の魔石』による自爆テロ。誰もが死を覚悟したあの瞬間、僕の放った魔法も、あの魔法障壁の前には無力だった。王国随一と謳われた僕の魔法が、だ。
それを、あの女は、ただ歩いて通り抜けた。まるで散歩でもするかのように、迫りくる破壊の奔流をその身一つで霧散させ、テロリストを鎮圧してみせた。
あの光景は、僕のプライドに、決して癒えることのない深い傷を刻み付けた。
天才と呼ばれ、次期国王の最有力候補と目されてきたこの僕が、守るべき民も、家族も、そして……婚約者であるセレニティすら守れない無力な存在だったと、まざまざと見せつけられたのだ。
あの女、リオ・ヴィ・サンジェルマンによって。
以来、僕の中の何かが狂い始めた。屈辱と、焦燥。そして、その二つに隠れるようにして芽生えた、未知の感情。それを確かめたい衝動に駆られ、僕は今日、彼女が頻繁に訪れるという王立魔法学園の図書館に足を運んでいた。
書架の陰に、その姿はあった。戦場を支配した聖女でも、帝国を簒奪した女帝でもない。ただ静かに本を眺める、華奢な少女の横顔。その横顔が、やけに無防備に見えて、僕は無意識のうちに苛立ちを覚え、声をかけていた。
「……貴様のような女が、このような場所で何をしている」
我ながら、最低な第一声だったと思う。もっと他に言い方があっただろうに、口から出たのは、いつものように棘を含んだ言葉だった。僕の心を占める不可解な感情の正体が掴めない焦りが、そうさせたのかもしれない。
「これは、セラス殿下。ごきげんよう」
女は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐに完璧な淑女の笑みを浮かべて見せた。その取り繕ったような表情が、また僕の神経を逆なでする。
「ごきげんよう、だと? 馴れ馴れしいな。帝国の皇帝が、このような学園の書庫で油を売っていていいのか?」
「読書は、わたくしには有意義な時間ですわ。殿下こそ、わたくしに何か御用でしょうか?」
あくまで穏やかな態度を崩さない女に、僕はさらに畳みかける。
「ふん、口だけは達者なようだな。だが、貴様がロキヌスでやったことが、力に任せたただの蛮行だった事実は変わらんぞ」
皇帝暗殺、そして帝国簒奪。常軌を逸したその行いを非難すれば、少しは動揺を見せるかと思った。しかし、彼女の返答は、僕の予想を遥かに超えていた。
「結果が全てですわ、殿下。わたくしの蛮行がなければ、今頃、このナブラ王国は戦火に焼かれていたかもしれません。それとも殿下は、国が滅んでも、美しいやり方のほうがお好みでしたか?」
「なっ……!」
ぐさりと、胸に杭を打ち込まれたような衝撃。正論だった。あまりにも、揺るぎない正論。もし彼女がロキヌスを内側から崩壊させていなければ、今頃、ナブラ王国は全面戦争に突入し、国民に多大な被害を出しながら、存亡の危機に瀕していたことは間違いない。僕がどれほど強力な魔法を使えたところで、国家間の戦争という巨大なうねりを、一人で止められるはずもなかった。
言葉に詰まる僕の隙を突くように、彼女は続けた。その声は、先ほどまでの皮肉めいた響きとは違い、どこか切実な響きを帯びていた。
「わたくしは、この国も、エイデン殿下も、そして……不本意ながら、セラス殿下、あなたのことも、守りたかった。ただ、それだけですわ」
時が、止まった。
守りたかった? この僕を?
理解が追いつかない。僕の頭脳が、思考が、凍り付く。
守られるなど、僕の人生において最も縁遠い言葉だ。僕は常に与える側であり、守る側でなければならなかった。それが王族としての、天才としての責務であり、存在意義そのものだったからだ。
だというのに、この女は。僕が最も屈辱を感じた舞踏会での一件を肯定するかのように、臆面もなく「守りたかった」と言い放った。
「……っ、馬鹿なことを言うな! 貴様などに守られずとも、僕が、この僕がロキヌス軍など……!」
喉から絞り出したのは、虚勢以外の何物でもない言葉だった。その先に続くはずだった「たやすく殲滅できた」という台詞は、彼女の澄み切った空色の瞳に見つめられるうちに、喉の奥で霧散して消えた。
嘘だ。僕一人では、何もできなかった。
その事実を、目の前の女は、静かに、ただ静かに見つめている。
もう駄目だ。これ以上、この女の前にいられない。僕が必死に築き上げてきた「天才王子セラス」という虚像が、音を立てて崩れていく。
僕はぐっと唇を噛み締め、揺らぐ視線を彼女から逸らした。
何も言わず、彼女の脇をすり抜け、足早にこの場から逃げ去ろうとした。
この訳の分からない感情から、一刻も早く。
だが、すれ違いざま。僕の口から、自分でも意図しない言葉が、ぽつりとこぼれ落ちた。
「……ちっ、とんでもない女だ」
それは、紛れもない本心だった。
僕の常識を、価値観を、そしてこの揺るぎないはずだったプライドを、根底から覆す女。腹立たしい。忌々しい。悔しい。
だが、それと同時に、こんなにも心が沸き立つような感覚を覚えたのは、生まれて初めてだった。
ほんの一瞬、僕の唇の端が歪んだのを、自分でも感じた。
それはきっと、悔しさと、そして未知の強敵に出会った時のような、喜びに満ちた笑みだったに違いない。
(いったい、何だ、この感情は……)
混乱したまま図書館の出口へ向かうと、そこに立つ氷のような人影に気づき、僕は内心で舌打ちした。
セレニティ・ナイジェル。僕の婚約者。
彼女は、僕とリオを値踏みするように交互に見つめ、そのエメラルドの瞳の奥に、静かな嫉妬の炎を燃やしていた。
まずい。今のやり取りを、どこまで見られていた?
らしくもなく、僕が動揺する姿を。
だが、不思議と、いつものような面倒臭さは感じなかった。
それよりも、僕の頭の中は、先ほどの女の言葉で満たされていた。
『あなたのことも、守りたかった』
あの真っ直ぐな瞳。
僕という人間の根幹を揺るがす、厄介で、危険で、そして、どうしようもなく心を惹きつけてやまない女。
リオ・ヴィ・サンジェルマン。
どうやら僕は、とんでもないものに興味を持ってしまったらしい。それは、僕の完璧だったはずの人生における、初めての、そして最大の誤算だった。
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