第64話 セラス王子
エイデン殿下との一件から一夜。私の心は、まだ熟れた果実のように、ほんのりと熱を持ったままだった。
柄にもなく浮かれている自分を落ち着かせようと、私は一人、静かな図書館へ足を運んだ。分厚い本に囲まれていれば、この騒がしい心臓も少しは言うことを聞くだろう。
それに、ここでもイベントが発生するはず。私が乙女ゲームの主人公として振舞うという、この、かなり危険な実験は、まだ終わってはいないのだから。
書架の陰で、気持ちを落ち着けるための本を探していると、不意に、頭上から見下すような声が降ってきた。
「……貴様のような女が、このような場所で何をしている」
顔を上げると、腕を組んだセラス第二王子が、不機嫌そうな顔で私を見下ろしていた。
「これは、セラス殿下。ごきげんよう」そう、私は主人公然として答える。
「ごきげんよう、だと? 馴れ馴れしいな。帝国の皇帝が、このような学園の書庫で油を売っていていいのか?」
「読書は、わたくしには有意義な時間ですわ。殿下こそ、わたくしに何か御用でしょうか?」
私が穏やかに問い返すと、彼は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん、口だけは達者なようだな。だが、貴様がロキヌスでやったことが、力に任せたただの蛮行だった事実は変わらんぞ」
彼の言葉は、いつもながら棘を含んでいる。きゅっと拳を握りしめ、私は練習してきた淑女の笑みで言い返した。
「結果が全てですわ、殿下。わたくしの蛮行がなければ、今頃、このナブラ王国は戦火に焼かれていたかもしれません。それとも殿下は、国が滅んでも、美しいやり方のほうがお好みでしたか?」
「なっ……!」
私の反論に、彼は一瞬言葉を失う。その隙に、次のセリフが私の口から滑り落ちていた。
「わたくしは、この国も、エイデン殿下も、そして……不本意ながら、セラス殿下、あなたのことも、守りたかった。ただ、それだけですわ」
そう、聖女の力を持つ乙女ゲームの健気な主人公ならば、みんなを守りたいというのは、当然だろう。
その言葉に、セラス殿下は凍り付いたように動きを止めた。
「……っ、馬鹿なことを言うな! 貴様などに守られずとも、僕が、この僕がロキヌス軍など……!」
そこまで言いかけて、彼は、はっと息を呑むと、ぐっと唇を噛み締めた。まるで、それ以上続くはずだった言葉を、必死に喉の奥に押しとどめるかのように。
それまで私を真っ直ぐに見つめていた瞳が、力なく揺らぎ、居心地が悪そうに、すい、と逸らされた。
彼は、何も言えずに、ただ私の脇をすり抜けて、足早に去っていく。
……そう、思った、その時だった。
すれ違いざま、彼が、吐き捨てるように呟いた。
「……ちっ、とんでもない女だ」
彼の唇の端が、ほんの一瞬、悔しそうに、それでいて、どこか楽しそうに、歪んだように見えた。
(……え?)
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
(今、あのセラス殿下が、笑った……?)
侮蔑や怒りではない。見たこともないような、子供じみた、複雑な表情。
そして、私に残された、彼の最後の問いかけのような眼差し。
理由の分からない動悸がする。さっきの、彼の表情が、頭から離れない。
(いったい、何だったの……?)
私の思考が、完全に混乱に陥っていた、その時だった。
「……わたくしの婚約者が、何かご迷惑をおかけしましたかしら、サンジェルマン嬢。いえ、今は皇帝陛下かしら」
氷のように冷たい声。
図書館の入り口に、ライバル令嬢、セレニティ・ナイジェルが、いつからそこにいたのか、静かに立っていた。
彼女は、ちょうどセラスが去っていった方向と、私の顔を、何かを確かめるように交互に見ている。
あのプライドの高いセラス殿下が、婚約者である自分以外の……ましてや、敵対する私に、一瞬でもあのような表情を見せたこと。その事実が、彼女の嫉妬に火をつけたのだろう。エメラルドの瞳が、静かな憎悪の炎で、ゆらりと揺れた。
(ああ、しまった)
この内心の動揺を、彼女の前で見せるわけにはいかない。私は慌てて、練習してきた中で、最も可憐で、最も無垢な笑みを顔に貼り付けた。
まったく、今日は調子が狂うことばかりだ。
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